京都観光データベース@ wiki

法観寺


※上記の広告は60日以上更新のないWIKIに表示されています。更新することで広告が下部へ移動します。

法観寺(八坂塔)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』、『京都府史蹟勝地調査会報告3』(京都府・1923)、『京都市の文化財建造物・文化財環境保全地区』(京都市文化観光局文化部文化財・1992)ほか


概略
法観寺 (ほうかんじ)は、京都市東山区八坂上町にある寺院。山号は霊応山、宗派は臨済宗?建仁寺派。本尊は五智如来(大日如来、阿閦如来、宝生如来、無量寿如来、不空成就如来)。現在は五重塔と若干の建造物のみが残存し、塔は 八坂塔 (やさかのとう)の通称で知られる。

歴史
『山城州東山法観寺仏舎利塔記』によると、推古天皇の御世に聖徳太子が四天王寺建立のための材木を山城愛宕郡に求めたときに一寺を建立し、五層の宝塔を設け、仏舎利を奉安して法観寺あるいは八坂寺と称したことを起源としている。塔の周囲の発掘調査でも飛鳥時代の瓦が発見され、この時代の建立が確実視されている。天暦年間(947~57)に天台宗?の僧、浄蔵が入寺した。強盗数十人が押し寄せた時に霊験で強盗を拘束したという説話や、塔が宮中の方角に傾いていたのを、祈祷によって直したという説話で知られる。治承4年(1180)に雷火のため焼失するが、のちに源頼朝によって再建された。正応4年(1291)に清水寺の僧徒と祇園社の神人の争いが周辺で行われ、その時の兵火によって再び焼失。その後、後宇多天皇や北条貞時の尽力によって延慶2年(1309)に塔のみ再建され、康永元年(1342)に足利尊氏夢窓疎石によって塔が修復された。永享8年(1436)に再び焼失。室町幕府は早くも焼失の翌月に再建計画を立て、永享12年(1440)に6代将軍足利義教臨席のもと塔供養を実施し再建された。この時の塔が現在の塔である。この際に建仁寺の僧、済翁証救が入寺して禅刹に改められられ、法観寺は建仁寺の末寺化した。法観寺は建仁寺の境内外にあるにもかかわらず、同じく境内外である五条大橋とともに「建仁十境」のひとつとされている。元和4年(1618)~寛文3年(1663)にかけても、江戸幕府の命を受けた京都所司代板倉勝重が修復を行っている。

伽藍

五重塔(八坂塔)

三間の五重塔で本瓦葺。室町時代の再建時の建築。様式的には純和様で、石基壇上に建ち、天井は折上組入天井とする。創建以来の伝統を保ったものとされるが、高欄が第五層のみにあるのは珍しい。塔の内陣は公開されることもあり、創建当初の礎石の上にある芯柱や諸仏を見ることができる。また階段で二層目まで登ることもでき、窓から京の町並みを眺望できる。

太子堂

塔の北に薬師堂とならんで位置する。寛文3年(1663)、五重塔の修理を機に再建された。当初は塔の東に位置したが、明治時代初めに現位置へ移された。正面3間、側面2間で正面向拝1間が付き、宝形造、本瓦葺の屋根をかけている。内部は拭板敷で鏡天井を張り、背面寄り半間通りに仏壇を備える。聖徳太子の3歳と16歳の像がある。

薬師堂

塔の北に太子堂とならんで位置する。様式上、17世紀後半の造営になると考えられている。太子堂とほぼ同一の規模、形式を持つが、側面中柱が後方へずれ、仏壇が背面寄り1間に設けられている。

木曽義仲首塚

「朝日将軍 木曽義仲塚」と彫られた比較的新しい石碑の後ろに、小さな五輪の塔が鎮座している。近江国で討たれた義仲の首は京に運ばれ、さらし首にされた。それを見た義仲の家来が首を持ち帰って八坂に手厚く葬ったという。首塚は高台寺近くの旅館の庭にあったが、旅館の廃業に伴い、近所の公園を経て、法観寺境内に移された。

文化財

国宝

なし

重要文化財(建造物)

五重塔

重要文化財(美術工芸品)

紙本著色八坂塔絵図

拝観情報
住所 京都市東山区清水八坂上町388
電話番号 075-551-2417
拝観時間 10:00~16:00
拝観料 400円
アクセス 市バス「東山安井」下車徒歩3分
駐車場 徒歩圏内(約3~10分)に市営及び私営駐車場あり

主な行事

その他

リンク


そうだ 京都、行こう。


更新履歴
取得中です。

@wiki