訃報日記1999年 2000年

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【矢切隆之】

日記 :: 1999年 :: 12月 :: 10日(金曜日)
銀行に寄り、雑用二、三済ませて家に帰ったら、官能倶楽部メンバーでこの春に亡くなった矢切隆之氏の追悼文集が送られていた。二十代から三十代、『文藝』で嘱望された純文学の徒であり、数冊の作品集も出版したあと、四十代から官能小説に転じて人気作家となった矢切氏に対し、ジュンブンガクの仲間からの風当たりは強かったらしい。すでに官能作家となって十五年以上たってなお、しかも旅先で、
「吉本隆明に師事した者が官能小説を書いているとは何事だ。殺してやりたい」
 と言われた、という話がこの文集の中にある。矢切氏のそのときの心境を思いやることとは別に、いかにもアマチュア的なその物言いに笑ってしまう。今や文学が官能小説に学ぼうとしているこの時代に。

 文集贈ってくれた藍川京さんに礼状書く。矢切さんを悼む気持ちと同時に、その死をまるでわれわれのせいにするような勝手な説教をブチあげ、官能倶楽部に後足で砂をかけて去っていった館淳一氏への怒りもあらためてフツフツ湧いてくる。あのときはその態度に呆れ返って血圧が上がったものだ。

【デズモンド・リュウリエン】

日記 :: 2000年 :: 01月 :: 16日(日曜日)
新聞に、先日交通事故で亡くなった007映画の“Q”役、デズモンド・リュウリエンのことが載っていた。Qがあまりのはまり役でイメージが強くなりすぎ、他の映画の出演依頼がとだえたため、新作の撮影期間以外は年金でつましく生活していたんだそうな。・・・・・・これはわれわれにも言えることで、得意分野を持つのはいいが、あまりに“○○の××さん”などと言われてイメージが固定すると、その分野が流行遅れになったとき、仕事がパッタリ絶えることになる。以前、芸能プロダクションの先輩がナベプロの社長の言葉として、“プロダクションに(収入を支える)柱が一本しかないのは危険である。二本でも、一本が欠ければ屋台がグラつく。柱は三本、作っておきなさい”というのを繰り返し語っていた。フリーのモノカキで一生をまっとうしようとするなら、“それだけで食える”得意分野が三本は必要だろう。

【きんさん】

日記 :: 2000年 :: 01月 :: 24日(月曜日)
きんさん死去の報道あり。あまりマスコミがひっぱり回すから早死にをした、というようなことを言う奴はいないかな、といくつかチャンネルを回す。

【荒井注】

日記 :: 2000年 :: 02月 :: 09日(水曜日)
キオスクの新聞に荒井注死去の報。体が悪いことは知っていたが、今年の正月、ドリフターズの現メンバーと一緒にフジカラーの七福神のCMで毘沙門天を演じており、元気になったんだ、と思っていたところだったので驚く。

【わちさんぺい】

日記 :: 2000年 :: 03月 :: 10日(金曜日)
スポーツ新聞で、わちさんぺいの死去を知る。子供のころ、まっさきに名前を覚えたマンガ家の一人だった。その当時から、すでに古いマンガだな、というイメージが子供心にした人だったが、死亡記事で初めて顔を見た。かなり大きく記載されていたのは、釣り情報をずっとスポーツ紙で担当していたからだろう。

【小渕首相】

日記 :: 2000年 :: 05月 :: 15日(月曜日)
テレビで小渕首相死去のニュースいろいろ。ゆうべ二朝庵で二次会やっているときにこのニュース流れて、さて“誰がスイッチ切った”で盛り上がった。SFマガジン残り一気に書き上げてメールする。

【三浦洋一】

日記 :: 2000年 :: 05月 :: 16日(火曜日)
三浦洋一死去のワイドショーを見ているうち、急にガックリと落ち込み、鬱状態のようになって何も手がつかない状態になるが、やがて “三浦洋一の死んだことはオレには何の関係もないじゃないか”と気がつき、急に正常に戻る。

【ジャンボ鶴田】

日記 :: 2000年 :: 05月 :: 16日(火曜日)
ジャンボ鶴田死去の報。マニラで肝臓移植手術中、と聞いたとたん、“いくらで買った?”と反射的に考えるのは裏者のサガ。

【竹下元首相】

日記 :: 2000年 :: 06月 :: 19日(月曜日)
竹下元首相死去、朝刊にはまだ載っておらず、テレビのニュースで見る。政治家の死が相次ぐ。今回の選挙で“代議士の定年を65歳にする!”と吠えてる若い人がいたが、“老人が生きがいを持って働ける社会を”というお題目が、なぜ政治の世界には適用されないのか、そこらへんの説明をしてくれると面白いんだがな。老害々々というが、今の日本の若い政治家に、本当に日本政治を変革し、しかも内外に山積した諸問題に対応できるだけの柔軟な思考力と実行力を持つ者がいるとは、自己申告以外寡聞にして聞かないのだが(田中角栄も中曾根康弘も青年議員の頃からズバ抜けた実力とパフォーマンスで圧倒的な注目のをされていて、しかもアレであった)。

【たかもちげん】

日記 :: 2000年 :: 08月 :: 10日(木曜日)
マンガ家、たかもちげんの死去を知る。『代打屋トーゴー』など、手堅く読ませる作品を描く人ではあったが、やはりこの人を語るならばあの大宗教マンガ『祝福王』を無視してはいけないだろう。呉智英がたぶんただ一人絶賛していたこの作品、当時私が講談社で仕事していて担当編集者から聞いた話では、読者アンケート最下位どころか、つまらぬわけがわからぬ早くやめろのお便りの嵐で、唯一掲載誌の編集長がドはまりし、“僕が編集長でいる限りいつまでも続けてください”と、まさに信仰告白してしまったという、異色中の異色の作品であった。オウム事件以降、日本ではあのようなマンガはもう描けなくなってしまったのではないか。

【谷村昌彦】

日記 :: 2000年 :: 08月 :: 11日(金曜日)
脇役俳優谷村昌彦死去。『忍者ハットリくん』(もちろん実写版)の花岡実太先生が私にとってはインプリンティングで、校長に“鼻を齧ったくん!”と呼ばれて山形弁で“イエ校長、鼻を齧った、でなくて花岡実太でナイノ?”と毎度訂正する、そのイントネーションをしょっちゅう真似しては怒られていた。花岡実太という名前は脚本の井上ひさしが当時コントなどでよく使う名前であることは後に知った。谷村氏にとり山形弁はネイティブランゲージだが、東北出身の脚本家である井上ひさしが、コンプレックスであった東北訛りをギャグにするとはいい度胸であったと思う。

【E・H・エリック】

日記 :: 2000年 :: 08月 :: 20日(日曜日)
新聞にE・H・エリック死去の報。ロイ・ジェームス、ジェリー伊藤と並ぶ、幼い私のガイジンさんのイメージを形づくった三人の一人だった。

【浪越徳次郎】

日記 :: 2000年 :: 09月 :: 25日(月曜日)
マリリン・モンローが来日して癪を起こしたとき、治療に呼ばれて全裸の彼女に対面したという“戦後史”の生証人、浪越徳次郎氏死去九六歳。長寿はやはり指圧の効果か。正直なところ、もう大分前に亡くなっていた、とばかり思っていた。“指圧のココロォ、母ゴコロ。押せば命の泉涌くゥ・・・・・・”というフレーズは、いったい今、どれくらいに通じるのか。

【工藤栄一】

日記 :: 2000年 :: 09月 :: 25日(月曜日)
それから、最後の映画屋、と呼びたい工藤栄一監督死去、七一歳。学生時代、蒲田の東映系名画座の薄よごれたスクリーンで『十三人の刺客』を初めて観たときは、興奮で体がブルブルと震えたものである。わが映画観賞のバイブル『脇役グラフィティ』に、“『七人の侍』よりこっちを西部劇にリメイクすべきだ”とあり、千恵蔵にリー・マーヴィン、寛寿郎にエミリオ・フェルナンデス、菅貫太郎にピーター・フォンダ・・・・・・などというキャスティングごっこを楽しげにやっていた。今の映画ファンはあまりこういうこと、やらないねえ。どの新聞も死去の報に“『必殺』シリーズの・・・・・・”と書かれていたのがちと寂しい。

【林家珍平】

日記 :: 2000年 :: 11月 :: 06日(月曜日)
林家珍平(テレビの銭形平次のガラっ八)死去。享年60歳。一応三平の弟子ではあるが、落語家系図にも載っておらず。俳優に専念していたものか。こういう人が三平門下には多かったが、いま、みなどうしているのだろう。テレビ版『ハレンチ学園』でパラソル先生をやっていた人も、確か林家だった筈。

【東野英心】

日記 :: 2000年 :: 11月 :: 16日(木曜日)
昨日の夕刊に、俳優・東野英心死去の報。掲示板などではZAT副隊長追悼、とみな言っている。“なんでZATだけ副隊長が指揮しているんだ?”と、子供心に思ったのが、記憶に残っているのだろう。私もあの役は好きであるが、それより、彼の顔は70年代NHK大河ドラマの常連(東野孝彦名義)として記憶に強く残っている。彼の演じた山内一豊や井上聞多は、ずうずうしさと愛敬を兼ね備えた、実にいいキャラクターであった。確か『署長マクミラン』で、ジョン・シャックが演じた部長刑事の声もアテていて、血筋のよさと、顔にとどまって性格にまで及ばない、適度なアクの強さがNHK好みなんだろうな、と思っていたものだ。その後も中学生日記の先生とか、NHK的な役柄に俳優としてとどまってしまったのが実に惜しい。さらにふてぶてしい悪役などを、この人が演じるのを見てみ たかったものである。

【鈴木その子】

日記 :: 2000年 :: 12月 :: 06日(水曜日)
電光ニュースで鈴木その子死去の報、ちょうどトキノ銀座店の前だったのに驚く。

【福田純】

日記 :: 2000年 :: 12月 :: 08日(金曜日)
夕刊を見たら、福田純監督の訃報。三日に亡くなっていたとやら。享年七七歳。ゴジラ新作の話題で盛り上がっているときに、ひっそりと昭和ゴジラの足跡を刻んだ監督が亡くなる。これもまた因縁か。一度だけ、間近でお酒をお相手させてもらったことがある。ゴジラの再ブームで、ビデオやLDの印税がちょくちょく入ってくるんだけど、全部競馬に使っちゃってるよ、と笑っておられた。“岩波新書から、『娯楽映画の作り方』って本を出さないかと言ってきたんだけど、娯楽映画に作り方なんかないよ、って断っちゃった”とも聞いた。惜しい。たとえ本人に自覚がないとしても、『ゴジラ』『若大将』と、変革期東宝で、二本の人気シリーズを初代から引き継ぎ、その路線を時代の変遷に合わせて、着実なドル箱として定着させた実力派だ。構成・編集のよろしきを得れば、日本映画の、これまで語られなかった一面の記録となっただろうに。福田作品は演出の大味さがよく指摘されたが、それは、氏が助監督としてテクニックを学んだのが大作監督稲垣浩のもとだったからであり、氏が監督に昇進した後は、日本映画界は、残念ながらその腕を存分にふるえる大型映画を撮らなくなってしまっていたのである。黒沢年男主演のハードボイルドアクション『野獣都市』では小技をきかせた演出に見事な腕をみせているという話だが、私は未見。ゴジラもので一本、好きな作品を挙げるとすると、『地球攻撃司令・ゴジラ対ガイガン』か。特撮シーンがライブフィルムを乱用していて評判の悪い作品だが、演出はナンセンスとサスペンスを混在させたシャレた味で、偉大な本多猪四郎の影をやっと払拭した新感覚のゴジラ映画になり得ていた。

【塚原尚人】

日記 :: 2000年 :: 12月 :: 13日(水曜日)
留守録に、数人の知り合いから、元・官能倶楽部メンバーの塚原尚人氏の訃報が伝えられている。驚いて官能倶楽部パティオをのぞく。どうやら事実らしい。司法解剖に回され、今日あたりが葬儀であった、とのことである。大いに驚きはしたが、意外性はまったくない。やっぱりこうなったか、という感じである。

 塚原氏は今年はじめあたりから、睡眠薬と向精神薬を大量に服用し、夏ころにはそれでリストカットしての自殺未遂まで起こしている(いずれもネットで自分からそれを吹聴し、こちらにも伝わってきていた)。てっきり自殺か、と思ったのだが、ネットあちこち回って情報を仕入れたところによると、仕事の打ち合わせを終えた後でのクスリの服用量を誤っての事故死であるらしい。自殺でなかったことのみが唯一の救いだろう。だが、私が真っ先に思い浮かべたのは、ボードレールがポーの死に対して述べた“このような死はほとんど自殺、ずっと以前から準備されてきた自殺というべきものである”という言葉であった。意識的、無意識的に関わらず、彼の死は、彼自身によってコースを定められ、そこに突き進んでいった末のものであった(やはり自殺なのでは、という未確認情報もあった)。

 彼の死について、述べたいことは多々、ある。今年一月の日記で、私は彼の人間性を徹底して批判した。その意見を変える気はさらさらない。この死と、それにまつわる、私の知っている(本人から直接聞いた)範囲内の情報においても、その死の理由についていろいろ予想がつく。だが、まだ彼の魂が中有に迷っているであろうこの時期に、それを述べるべきではあるまい。せめて四十九日過ぎまでは待とうと思う。だが、改めて、才能と死、ということをしみじみ思う。彼は若手官能作家としては人並み優れた才能を誇っていた人物であった。そして、彼が結果、このような死を迎えたのは、まさにその才能の故であったと思う。才能が無い者の悲劇を、私は数え切れないほど知っている。だが、才能がある故の、そして、その才能が、自分の望んだものでなかった故の悲劇も、また十指にあまるほど知っている。彼の悲劇は、まさにその典型的な例であった。それだけにやり切れない。また、腹立たしい。

 いくつかのネットで、彼の死をやたら美化して慨嘆している人がいる。ナニヲ言ッテイヤガル、と憤りを覚える。伊丹十三が死んだとき、桜金造が、伊丹監督に自分くらい恩を受けた者はいないだろうが、と前置きして、しかし監督のこの死に方は最低の死に方である、とはっきり言い切っていた。しかり、塚原尚人の死もまた、最低の死である。二十七の早すぎる死は確かに痛ましい。しかし、その痛ましさに酔って、彼の死を正当化しようとする者は、懸命に生きている、他の全てのモノカキを馬鹿にしているのだ、と私は思う。同業者の死にこういう言葉を投げることはつらいが、それが彼にしてやれる最後の真心だ、と思う。

【如月小春】

日記 :: 2000年 :: 12月 :: 20日(水曜日)
新聞に如月小春クモ膜下出血で死去の報。如月小春なる文字を見てすぐ、同名の寺内小春(脚本家)のことを想起し、寺内の脚色でNHKで放映された番組『イキのいい奴』のことを思い出し、あの番組の小林薫はよかったよなあ、おふくろがこの親方の役にミーハー的にハマっていたなあ、などと、しばらくノスタルジーにふけるも、よく考えてみれば如月小春とはなんの関係もない感慨なり。

【ジェースン・ロバーズ】

日記 :: 2000年 :: 12月 :: 27日(水曜日)
帰って夕刊を見たら、ジェースン・ロバーズ死去の報。大好きな役者だった。代表作はオスカーを取った『大統領の陰謀』での、ニクソン大統領を追い詰める新聞社のデスク役だろうが、NHKで放映されたミニ・シリーズで、同じようなタイトルの『権力と陰謀』では、追い詰められる方のニクソン(劇中ではディクソン)を演じ、こちらの方が(声をアテた西村晃もうまかったが)数等印象的な大芝居だった。どっちの役でも、机の上に足をデーンと投げ出す行儀の悪いことをしていたが、これが彼 の得意の人格表現、だったのか?

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最終更新:2010年02月12日 21:59
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