「秦氏」(2008/08/16 (土) 11:29:12) の最新版変更点
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&sizex(6){&bold(){秦氏}}
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』、図版京都府の歴史(森谷尅久責任編・河出書房新社)、図説平安京(井上満郎編・淡交社)ほか
&ref(hatashi.jpg)
&sizex(5){&color(red){概略}}
&bold(){秦氏}(はたうじ・はたし)は、太秦付近を本拠地とした有力な渡来系氏族。朝鮮半島東部の新羅から五世紀後半に集団で来日したとみられ、秦の始皇帝の末裔を称するが明確でない。日本の国家形成に文化・技術などを通じて貢献。秦氏が現在の桂川に築いた大堰(葛野大堰)は、[[嵯峨野>嵐山]]の農地化に大きな役割を果たし、[[長岡京]]・[[平安京]]が営まれたのも氏族の援助によるとみられ、古代京都を形づくった最大の功績者といえる。
&sizex(5){&color(red){人物史}}
東漢氏(やまとのあやし)や西文(かわちのふみし)と並ぶ渡来系古代氏族の最大級の氏族。秦氏の秦は秦王の子孫と称してのあて字で、「ハタ」は古朝鮮語で海を示すという。その居住範囲は広く京都盆地全般にわたり、[[伏見稲荷大社]]や[[松尾大社]]、機織りの神として信仰の深い[[蚕の社]]は秦氏が創立した神社である。それらは鴨川上流域を本拠地とした賀茂氏の創建した[[上賀茂神社]]・[[下鴨神社]]と並び、京都で最も創建年代の古い神社となっている。秦氏は大陸からの高度な技術力、特に養蚕や機織などの新しい技法を伝えたが、各種技術や仏教が新羅系であることからみても、秦氏を朝鮮半島の新羅からやってきた一族とみるのが定説になっている。
7世紀始めに財力を蓄えた&bold(){秦河勝}(はたのかわかつ)は聖徳太子から仏像を賜り、太秦に[[蜂岡寺>広隆寺]](はちおかでら・現[[広隆寺]])を建立。奈良時代には官僚になったり、中央貴族と姻戚関係を結んだりするものもいた。桓武天皇は延暦3年(784)に[[長岡京]]へ遷都を行ったが、秦氏は造宮長官[[藤原種継>藤原氏]]の母が秦氏の娘であったため、造都に全面的な協力をしたといわれている。10年で廃された[[長岡京]]のあとには[[平安京]]が造られたが、そこでも新都建設に尽力し、秦氏の本拠地であった桂川一帯は建設に必要とする材木の陸揚げ基地となった。内裏の紫宸殿前の「右近の橘」は秦河勝の邸宅にあったという伝承も残る。秦氏は遷都後も官僚として活躍し、主計寮・大蔵省・内蔵寮の役人として名が残っている。元慶7年(883)、秦氏は惟宗朝臣(これむねのあそん)に改姓し、明法家(世襲の法令専門家)を輩出する。東家、南家などは[[松尾大社]]の社家に、西大路家、大西家などは[[伏見稲荷大社]]の社家となった。各地方には秦姓も多く、在庁官人や郡司として名を残しており、戦国大名の島津氏や長宗我部氏、楽家の東儀家も秦氏の末裔という。
&sizex(5){&color(red){その他}}
***京都検定出題
平成16年(2004)第1回京都検定3級出題
「5世紀に入ると渡来人が京都盆地に進出。なかでも( )は桂川流域に田園地帯を開発し、養蚕・機織技術を扶植した。」
平成17年(2005)第2回京都検定3級出題
「太秦という地名は、秦氏がある産物をうずたかく積んで、天皇に献上したことにちなむ地名と伝えられるが、その産物とは何か。」
&sizex(5){&color(red){リンク}}
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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』、図版京都府の歴史(森谷尅久責任編・河出書房新社)、図説平安京(井上満郎編・淡交社)ほか
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&bold(){秦氏}(はたうじ・はたし)は、太秦付近を本拠地とした有力な渡来系氏族。朝鮮半島東部の新羅から五世紀後半に集団で来日したとみられ、秦の始皇帝の末裔を称するが明確でない。日本の国家形成に文化・技術などを通じて貢献。秦氏が現在の桂川に築いた大堰(葛野大堰)は、[[嵯峨野>嵐山]]の農地化に大きな役割を果たし、[[長岡京]]・[[平安京]]が営まれたのも氏族の援助によるとみられ、古代京都を形づくった最大の功績者といえる。
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東漢氏(やまとのあやし)や西文(かわちのふみし)と並ぶ渡来系古代氏族の最大級の氏族。秦氏の秦は秦王の子孫と称してのあて字で、「ハタ」は古朝鮮語で海を示すという。その居住範囲は広く京都盆地全般にわたり、[[伏見稲荷大社]]や[[松尾大社]]、機織りの神として信仰の深い[[蚕の社]]は秦氏が創立した神社である。それらは鴨川上流域を本拠地とした賀茂氏の創建した[[上賀茂神社]]・[[下鴨神社]]と並び、京都で最も創建年代の古い神社となっている。秦氏は大陸からの高度な技術力、特に養蚕や機織などの新しい技法を伝えたが、各種技術や仏教が新羅系であることからみても、秦氏を朝鮮半島の新羅からやってきた一族とみるのが定説になっている。
7世紀始めに財力を蓄えた&bold(){秦河勝}(はたのかわかつ)は聖徳太子から仏像を賜り、太秦に[[蜂岡寺>広隆寺]](はちおかでら・現[[広隆寺]])を建立。奈良時代には官僚になったり、中央貴族と姻戚関係を結んだりするものもいた。桓武天皇は延暦3年(784)に[[長岡京]]へ遷都を行ったが、秦氏は造宮長官[[藤原種継>藤原氏]]の母が秦氏の娘であったため、造都に全面的な協力をしたといわれている。10年で廃された[[長岡京]]のあとには[[平安京]]が造られたが、そこでも新都建設に尽力し、秦氏の本拠地であった桂川一帯は建設に必要とする材木の陸揚げ基地となった。[[内裏>京都御所]]の紫宸殿前の「右近の橘」は秦河勝の邸宅にあったという伝承も残る。秦氏は遷都後も官僚として活躍し、主計寮・大蔵省・内蔵寮の役人として名が残っている。元慶7年(883)、秦氏は惟宗朝臣(これむねのあそん)に改姓し、明法家(世襲の法令専門家)を輩出する。東家、南家などは[[松尾大社]]の社家に、西大路家、大西家などは[[伏見稲荷大社]]の社家となった。各地方には秦姓も多く、在庁官人や郡司として名を残しており、戦国大名の島津氏や長宗我部氏、楽家の東儀家も秦氏の末裔という。
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***京都検定出題
平成16年(2004)第1回京都検定3級出題
「5世紀に入ると渡来人が京都盆地に進出。なかでも( )は桂川流域に田園地帯を開発し、養蚕・機織技術を扶植した。」
平成17年(2005)第2回京都検定3級出題
「太秦という地名は、秦氏がある産物をうずたかく積んで、天皇に献上したことにちなむ地名と伝えられるが、その産物とは何か。」
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