「毘沙門堂」(2008/08/18 (月) 14:30:24) の最新版変更点
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&sizex(6){&bold(){出雲寺(毘沙門堂)}}
出典: 村山修一著『比叡山史』(東京美術・1994)、『京都市の文化財 -建造物・文化財環境保全地区-』(京都市文化観光局・1992)ほか
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&sizex(5){&color(red){概略}}
&bold(){出雲寺}(いずもじ)は、京都市山科区安朱稲荷山町にある[[天台宗]][[延暦寺]]派の寺院で[[天台五門跡]]のひとつ。[[毘沙門天>四天王]]を本尊とすることから&bold(){毘沙門堂}(びしゃもんどう)という通称で親しまれている。山号は護法山、開基と開山は行基と伝わる。宸殿前にある樹齢百数十年のしだれ桜は特に有名。
&sizex(5){&color(red){歴史}}
文武天皇の御願による大宝3年(703)の創建と伝え、はじめ出雲路の地にあったとするが同時代史料にみえず、詳細は不明。一時廃絶し、建久6年(1195)に平親範が太秦にあった平等寺、五辻にあった尊重寺、伏見にあった護法寺の三ヵ寺を統合して平安京外東北の出雲路に寺院を建立したという。この三ヵ寺はいずれも桓武平氏ゆかりの寺院で、出雲路に5間の堂を3棟建立し、西を平等寺、東を尊重寺、中を護法寺になぞらえて一寺としたのが毘沙門堂の起こりである。中世後半には戦乱などで廃絶する。慶長16年(1611)に天海が僧正叙任の際にこの門室を賜ったが生前には復興できず、寛文5年(1665)になってようやく高弟だった公海が山科の禁裏の御領地を下賜されて再興した。のちに後西天皇の第6皇子である公弁法親王が法嗣となり、これより[[門跡]]を称して[[天台五門跡]]のひとつに数えられるようになる。元禄~宝永年間には公弁が後西天皇の旧殿を下賜され、寺地の拡張と殿舎の造営が行われた。今日の寺観はこの頃に整えられたもの。境内には山科聖天と呼ばれる双林院や龍華院などの塔頭があり、[[門跡寺院>門跡]]としての景観を備えている。
&sizex(5){&color(red){伽藍}}
本堂と唐門、仁王門は和様と禅宗様が混合した特徴的な建築手法で一貫し、畿内では類例はあまり見られない日光東照宮の諸建築に通じる華麗な装飾を持つ。
***本堂
棟札によると、寛文5年(1665)10月18日に整地作業が開始され、翌年(1666)9月7日に上棟、11月3日に竣工したとある。入母屋造、本瓦葺。内部は正面3間を外陣、その奥2間を内陣とし、内外陣境は中間に円柱2本を立てて腰高の柵で仕切る。全体に黒または朱の漆塗、あるいは彩色が施され 部分的に彫刻装飾で飾られている。須弥壇上の宝塔を模した厨子内には、秘仏である本尊[[毘沙門天>四天王]]像(伝[[最澄]]作)が安置されている。
***唐門
寛文5年(1665)の建造で、こけら葺、唐破風付、方1間の向唐門。本堂の前方に建ち、左右に透塀が取り付いて本堂の三方を取り囲んでいる。木鼻部分には象をかたどった彫刻が施されている。
***仁王門
寛文5年(1665)に建造された3間1戸の八脚門で、本堂・唐門の中心軸上の南端に位置する。左右には金剛力士像を安置する。
***霊殿
元禄15年~宝永4年(1702~1707)頃に建立された歴代天皇や[[徳川将軍>徳川氏]]の位牌を安置する建物。天井には[[狩野主信>狩野派]]の筆による雲龍図が描かれている。
***宸殿・勅使門
[[京都御所]]にあった後西天皇の旧殿を元禄15年~宝永4年(1702~1707)頃に移築したもの。入母屋造、当初は檜皮葺だったが現在は瓦葺。各室は金碧障壁画で飾られており、なかでも北東隅は上段となって背面に2間の床と1間の棚を備え、南の部屋を次の間としている。116面の障壁画は[[狩野探幽>狩野派]]の養子である[[狩野益信>狩野派]]([[洞雲>狩野派]])の筆。逆遠近法を用いた「九老之図」(机や老人が向きを変える)や梅に山鳥、竹林に島鵯(しまひよどり)を描いた「梅花禽鳥図」(通常は梅には鶯、竹林には雀を描く。「鳥が合わない=取り合わない」に掛けて面会を拒否する客が通された部屋だという)など、一風変わった襖絵がある。宸殿の南正面には後西天皇から下賜された檜皮葺の勅使門が建つ。
***宸殿庭園
宸殿の北側に広がるのは心字池を中心とした「晩翠園」と呼ばれる[[池泉回遊式庭園]]で、秋には池向こうにある観音堂が燃えるような紅葉で包まれる。宸殿前庭には全幅30mに及ぶしだれ桜の古木が植えられており、春には花見客でたいへん賑わう。
***玄関・使者の間
檜皮葺の玄関は元禄6年(1693)に建てられた。内廊下の北に12畳の玄関の間を配し、また内廊下の南、正面には軒唐破風を載せた車寄を備える。使者の間は内廊下の北に15畳の主室と12畳の次の間を並べ、主室には牡丹唐獅子の金碧障壁画を飾る。
&sizex(5){&color(red){主な塔頭}}
***双林院(山科聖天)
寛文5年(1665)に再建。本尊として秘仏の大聖歓喜天(聖天)を祀ることから山科聖天とも呼ばれる。歓喜天は頭部が象で首から下は人間の姿をし、二体が向かい合って抱擁していることから、夫婦和合、子授けの神として信仰されている。
&sizex(5){&color(red){文化財}}
***国宝
なし
***重要文化財(建造物)
なし
***重要文化財(美術工芸品)
紙本墨書洞院公定日記 注大涅槃経 紙本墨書篆隷文体
&sizex(5){&color(red){拝観情報}}
住所 京都市山科区安朱稲荷山町18
電話番号 075-581-0328
拝観時間 8:30~17:00(12月~2月は16:30)
拝観料 500円
アクセス JR東海道本線・地下鉄東西線「山科駅」下車徒歩20分
駐車場 無料駐車場あり
&sizex(5){&color(red){主な行事}}
&sizex(5){&color(red){その他}}
&sizex(5){&color(red){リンク}}
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出典: 村山修一著『比叡山史』(東京美術・1994)、『京都市の文化財 -建造物・文化財環境保全地区-』(京都市文化観光局・1992)ほか
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&bold(){出雲寺}(いずもじ)は、京都市山科区安朱稲荷山町にある[[天台宗]][[延暦寺]]派の寺院で[[天台五門跡]]のひとつ。[[毘沙門天>四天王]]を本尊とすることから&bold(){毘沙門堂}(びしゃもんどう)という通称で親しまれている。山号は護法山、開基と開山は行基と伝わる。宸殿前にある樹齢百数十年のしだれ桜は特に有名。
&sizex(5){&color(red){歴史}}
文武天皇の御願による大宝3年(703)の創建と伝え、はじめ出雲路の地にあったとするが同時代史料にみえず、詳細は不明。一時廃絶し、建久6年(1195)に平親範が太秦にあった平等寺、五辻にあった尊重寺、伏見にあった護法寺の三ヵ寺を統合して平安京外東北の出雲路に寺院を建立したという。この三ヵ寺はいずれも桓武平氏ゆかりの寺院で、出雲路に5間の堂を3棟建立し、西を平等寺、東を尊重寺、中を護法寺になぞらえて一寺としたのが毘沙門堂の起こりである。中世後半には戦乱などで廃絶する。慶長16年(1611)に天海が僧正叙任の際にこの門室を賜ったが生前には復興できず、寛文5年(1665)になってようやく高弟だった公海が山科の禁裏の御領地を下賜されて再興した。のちに後西天皇の第6皇子である公弁法親王が法嗣となり、これより[[門跡]]を称して[[天台五門跡]]のひとつに数えられるようになる。元禄~宝永年間には公弁が後西天皇の旧殿を下賜され、寺地の拡張と殿舎の造営が行われた。今日の寺観はこの頃に整えられたもの。境内には山科聖天と呼ばれる双林院や龍華院などの塔頭があり、[[門跡寺院>門跡]]としての景観を備えている。
&sizex(5){&color(red){伽藍}}
本堂と唐門、仁王門は和様と禅宗様が混合した特徴的な建築手法で一貫し、畿内では類例はあまり見られない日光東照宮の諸建築に通じる華麗な装飾を持つ。
***本堂
棟札によると、寛文5年(1665)10月18日に整地作業が開始され、翌年(1666)9月7日に上棟、11月3日に竣工したとある。入母屋造、本瓦葺。内部は正面3間を外陣、その奥2間を内陣とし、内外陣境は中間に円柱2本を立てて腰高の柵で仕切る。全体に黒または朱の漆塗、あるいは彩色が施され 部分的に彫刻装飾で飾られている。須弥壇上の宝塔を模した厨子内には、秘仏である本尊[[毘沙門天>四天王]]像(伝[[最澄]]作)が安置されている。
***唐門
寛文5年(1665)の建造で、こけら葺、唐破風付、方1間の向唐門。本堂の前方に建ち、左右に透塀が取り付いて本堂の三方を取り囲んでいる。木鼻部分には象をかたどった彫刻が施されている。
***仁王門
寛文5年(1665)に建造された3間1戸の八脚門で、本堂・唐門の中心軸上の南端に位置する。左右には金剛力士像を安置する。
***霊殿
元禄15年~宝永4年(1702~1707)頃に建立された歴代天皇や[[徳川将軍>徳川氏]]の位牌を安置する建物。天井には[[狩野主信>狩野派]]の筆による雲龍図が描かれている。
***宸殿・勅使門
[[京都御所]]にあった後西天皇の旧殿を元禄15年~宝永4年(1702~1707)頃に移築したもの。入母屋造、当初は檜皮葺だったが現在は瓦葺。各室は金碧障壁画で飾られており、なかでも北東隅は上段となって背面に2間の床と1間の棚を備え、南の部屋を次の間としている。116面の障壁画は[[狩野探幽>狩野派]]の養子である[[狩野益信>狩野派]]([[洞雲>狩野派]])の筆。逆遠近法を用いた「九老之図」(机や老人が向きを変える)や梅に山鳥、竹林に島鵯(しまひよどり)を描いた「梅花禽鳥図」(通常は梅には鶯、竹林には雀を描く。「鳥が合わない=取り合わない」に掛けて面会を拒否する客が通された部屋だという)など、一風変わった襖絵がある。宸殿の南正面には後西天皇から下賜された檜皮葺の勅使門が建つ。
***宸殿庭園
宸殿の北側に広がるのは心字池を中心とした「晩翠園」と呼ばれる[[池泉回遊式庭園]]で、秋には池向こうにある観音堂が燃えるような紅葉で包まれる。宸殿前庭には全幅30mに及ぶしだれ桜の古木が植えられており、春には花見客でたいへん賑わう。
***玄関・使者の間
檜皮葺の玄関は元禄6年(1693)に建てられた。内廊下の北に12畳の玄関の間を配し、また内廊下の南、正面には軒唐破風を載せた車寄を備える。使者の間は内廊下の北に15畳の主室と12畳の次の間を並べ、主室には牡丹唐獅子の金碧障壁画を飾る。
&sizex(5){&color(red){主な塔頭}}
***双林院(山科聖天)
寛文5年(1665)に再建。本尊として秘仏の大聖歓喜天(聖天)を祀ることから山科聖天とも呼ばれる。歓喜天は頭部が象で首から下は人間の姿をし、二体が向かい合って抱擁していることから、夫婦和合、子授けの神として信仰されている。
&sizex(5){&color(red){文化財}}
***国宝
なし
***重要文化財(建造物)
なし
***重要文化財(美術工芸品)
紙本墨書洞院公定日記 注大涅槃経 紙本墨書篆隷文体
&sizex(5){&color(red){拝観情報}}
住所 京都市山科区安朱稲荷山町18
電話番号 075-581-0328
拝観時間 8:30~17:00(12月~2月は16:30)
拝観料 500円
アクセス JR東海道本線・地下鉄東西線「山科駅」下車徒歩20分
駐車場 無料駐車場あり
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