「勧修寺」(2008/08/28 (木) 11:03:22) の最新版変更点
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&sizex(6){&bold(){勧修寺}}
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』ほか
&ref(kokedra.jpg) &ref(kokedera2.jpg)
&sizex(5){&color(red){概略}}
&bold(){勧修寺}(かじゅうじ)は、京都市山科区にある[[門跡]]寺院で[[真言宗]]山階派の大本山。山号を亀甲山と称する。開基(創立者)は醍醐天皇、開山(初代住職)は承俊、本尊は[[千手観音]]。寺名は「かんしゅうじ」と読まれることがあるが、寺では「かじゅうじ」を正式の呼称としている。
&sizex(5){&color(red){歴史}}
創建の時期については諸説あるが、寺伝によると昌泰3年(900)に醍醐天皇の生母[[藤原胤子>藤原氏]]の追善のため、[[胤子>藤原氏]]の祖父(醍醐天皇には曽祖父にあたる)である宮道弥益(みやじいやます)の邸宅を寺に改めて、天皇等身の[[千手観音]]像を安置したという。寺名は外祖父[[藤原高藤>藤原氏]]の諡号をとって勧修寺と号した。開山である承俊律師は東大寺出身の法相宗の僧。南北朝時代、後伏見天皇の第7皇子である寛胤法親王が入寺してから、代々法親王が入寺する[[宮門跡>門跡]]寺院としての地位が確立し、広大な寺域を有することになった。文明2年(1470)の兵火によって堂宇のほとんどを焼失し、また[[豊臣秀吉>豊臣氏]]が[[伏見城]]を築いた際、寺地内を貫通する形で伏見街道を敷いたために、寺地は分割され衰退する(名石はすべて[[醍醐寺三宝院>醍醐寺]]に運ばれたという説もある)。のちに[[徳川氏]]と皇室の援助により江戸時代に入ってようやく復興された。現存の主な建物はその時に移築されたものである。
#blockquote(){『今昔物語集』には次のような[[藤原高藤>藤原氏]]と[[胤子>藤原氏]]の説話が伝えられている。
鷹狩が趣味であった[[高藤>藤原氏]]は、南山階(現京都市山科区)へ鷹狩に向かった際、雨宿りのため通りかかった宮道弥益の屋敷を訪れた。勧められるままに宮道邸に泊した[[高藤>藤原氏]]は弥益の娘、列子に一目惚れし、一夜の契りを結んだ。翌日、鷹狩から帰らぬ息子を心配して待っていた父・[[良門>藤原氏]]は激怒し、今後鷹狩に行くことを厳禁した。それから6年後、[[高藤>藤原氏]]はようやく列子と再会する。列子は娘を連れていた。6年前の一夜の契りで宿した子であった。この娘が後に宇多天皇の女御となり、醍醐天皇の生母ともなった[[藤原胤子>藤原氏]]である。}
&sizex(5){&color(red){伽藍}}
山門へ至る参道の両側には白壁の築地塀が続き、[[門跡]]寺院の格式を表わしている。境内北側には宸殿、書院、五大堂、本堂などが建つ。境内南側は氷室池を中心とした庭園であり、池に面して楼閣風の観音堂が建つ。
***宸殿
元禄10年(1697)に明正天皇の旧殿を下賜されたもので、明正殿とも呼ばれる。入母屋造、桟瓦葺。内部は書院造である。明治以降は小学校として利用されていた。内部は通常非公開。
***書院
元禄10年(1697)に明正天皇の旧殿を下賜されたものというが、貞享3年(1686)に後西院天皇の旧御殿を移築したものという説もある。入母屋造、こけら葺。一の間の違棚は「勧修寺棚」として知られる。「近江八景図」や「龍田川紅葉図」などの障壁画は、作風から[[土佐派]]の画家によるものとされ、寺伝では「近江八景図」が[[土佐光起>土佐派]]、「龍田川紅葉図」が[[光起>土佐派]]の子[[光成>土佐派]]の筆という。書院前の庭には樹齢750年と伝わる「ハイビャクシン」という名木と、「勧修寺型灯籠」と呼ばれる[[徳川光圀>徳川氏]]寄進という雪見灯籠がある。書院内は通常非公開。
***本堂
寛文12年(1672)に[[近衛家>藤原氏]]の建物を移築したものという。本尊[[千手観音]]立像は醍醐天皇の等身像と伝えるが、現存の像は室町時代頃の作である。
***庭園・観音堂
約2万平方メートルの氷室池を中心とする[[池泉舟遊式庭園>池泉回遊式庭園]]で、池には大小3つの島が浮かぶ。水際には杜若や花菖蒲、睡蓮、蓮などが四季折々に咲き、雄大な自然を有する典型的な平安時代の庭園の趣きを見せる。古くは1月2日に氷室池に張った氷を宮中に献上し、その厚さによって五穀豊穣を占ったという。鳳凰をいただいた観音堂は昭和2年(1927)の再建で、大悲閣や望京楼とも呼ばれる。
&sizex(5){&color(red){主な塔頭}}
***佛光院
養父の凶刃で両腕を切り落とされてのち出家するも、不屈の精神で字を習得し、口で筆を持ったという故・大石順教尼が再興した。内部は通常非公開。
&sizex(5){&color(red){文化財}}
***国宝
なし
***重要文化財(建造物)
書院
***重要文化財(美術工芸品)
蓮花蒔絵経筥 紙本墨書仁王経良賁疏(伝[[空海]]筆)
&sizex(5){&color(red){拝観情報}}
住所 京都市山科区勧修寺仁王堂町27-6
電話番号 075-571-0048
拝観時間 9:00~16:00
拝観料 400円
アクセス 地下鉄東西線「小野」下車徒歩6分
駐車場 駐車場あり(無料)
&sizex(5){&color(red){主な行事}}
&sizex(5){&color(red){その他}}
&sizex(5){&color(red){リンク}}
----
#amazon(text,image,4862490301)
&sizex(6){&bold(){勧修寺}}
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』ほか
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&bold(){勧修寺}(かじゅうじ)は、京都市山科区にある[[門跡]]寺院で[[真言宗]]山階派の大本山。山号を亀甲山と称する。開基(創立者)は醍醐天皇、開山(初代住職)は承俊、本尊は[[千手観音]]。寺名は「かんしゅうじ」と読まれることがあるが、寺では「かじゅうじ」を正式の呼称としている。
&sizex(5){&color(red){歴史}}
創建の時期については諸説あるが、寺伝によると昌泰3年(900)に醍醐天皇の生母[[藤原胤子>藤原氏]]の追善のため、[[胤子>藤原氏]]の祖父(醍醐天皇には曽祖父にあたる)である宮道弥益(みやじいやます)の邸宅を寺に改めて、天皇等身の[[千手観音]]像を安置したという。寺名は外祖父[[藤原高藤>藤原氏]]の諡号をとって勧修寺と号した。開山である承俊律師は東大寺出身の法相宗の僧。南北朝時代、後伏見天皇の第7皇子である寛胤法親王が入寺してから、代々法親王が入寺する[[宮門跡>門跡]]寺院としての地位が確立し、広大な寺域を有することになった。文明2年(1470)の兵火によって堂宇のほとんどを焼失し、また[[豊臣秀吉>豊臣氏]]が[[伏見城]]を築いた際、寺地内を貫通する形で伏見街道を敷いたために、寺地は分割され衰退する(名石はすべて[[醍醐寺三宝院>醍醐寺]]に運ばれたという説もある)。のちに[[徳川氏]]と皇室の援助により江戸時代に入ってようやく復興された。現存の主な建物はその時に移築されたものである。
#blockquote(){『今昔物語集』には次のような[[藤原高藤>藤原氏]]と[[胤子>藤原氏]]の説話が伝えられている。
鷹狩が趣味であった[[高藤>藤原氏]]は、南山階(現京都市山科区)へ鷹狩に向かった際、雨宿りのため通りかかった宮道弥益の屋敷を訪れた。勧められるままに宮道邸に泊した[[高藤>藤原氏]]は弥益の娘、列子に一目惚れし、一夜の契りを結んだ。翌日、鷹狩から帰らぬ息子を心配して待っていた父・[[良門>藤原氏]]は激怒し、今後鷹狩に行くことを厳禁した。それから6年後、[[高藤>藤原氏]]はようやく列子と再会する。列子は娘を連れていた。6年前の一夜の契りで宿した子であった。この娘が後に宇多天皇の女御となり、醍醐天皇の生母ともなった[[藤原胤子>藤原氏]]である。}
&sizex(5){&color(red){伽藍}}
山門へ至る参道の両側には白壁の築地塀が続き、[[門跡]]寺院の格式を表わしている。境内北側には宸殿、書院、五大堂、本堂などが建つ。境内南側は氷室池を中心とした庭園であり、池に面して楼閣風の観音堂が建つ。
***宸殿
元禄10年(1697)に明正天皇の旧殿を下賜されたもので、明正殿とも呼ばれる。入母屋造、桟瓦葺。内部は書院造である。明治以降は小学校として利用されていた。内部は通常非公開。
***書院
元禄10年(1697)に明正天皇の旧殿を下賜されたものというが、貞享3年(1686)に後西院天皇の旧御殿を移築したものという説もある。入母屋造、こけら葺。一の間の違棚は「勧修寺棚」として知られる。「近江八景図」や「龍田川紅葉図」などの障壁画は、作風から[[土佐派]]の画家によるものとされ、寺伝では「近江八景図」が[[土佐光起>土佐派]]、「龍田川紅葉図」が[[光起>土佐派]]の子[[光成>土佐派]]の筆という。書院前の庭には樹齢750年と伝わる「ハイビャクシン」という名木と、「勧修寺型灯籠」と呼ばれる[[徳川光圀>徳川氏]]寄進という雪見灯籠がある。書院内は通常非公開。
***本堂
寛文12年(1672)に[[近衛家>藤原氏]]の建物を移築したものという。本尊[[千手観音]]立像は醍醐天皇の等身像と伝えるが、現存の像は室町時代頃の作である。
***庭園・観音堂
約2万平方メートルの氷室池を中心とする[[池泉舟遊式庭園>池泉回遊式庭園]]で、池には大小3つの島が浮かぶ。水際には杜若や花菖蒲、睡蓮、蓮などが四季折々に咲き、雄大な自然を有する典型的な平安時代の庭園の趣きを見せる。古くは1月2日に氷室池に張った氷を宮中に献上し、その厚さによって五穀豊穣を占ったという。鳳凰をいただいた観音堂は昭和2年(1927)の再建で、大悲閣や望京楼とも呼ばれる。
&sizex(5){&color(red){主な塔頭}}
***佛光院
養父の凶刃で両腕を切り落とされてのち出家するも、不屈の精神で字を習得し、口で筆を持ったという故・大石順教尼が再興した。内部は通常非公開。
&sizex(5){&color(red){文化財}}
***国宝
なし
***重要文化財(建造物)
書院
***重要文化財(美術工芸品)
蓮花蒔絵経筥 紙本墨書仁王経良賁疏(伝[[空海]]筆)
&sizex(5){&color(red){拝観情報}}
住所 京都市山科区勧修寺仁王堂町27-6
電話番号 075-571-0048
拝観時間 9:00~16:00
拝観料 400円
アクセス 地下鉄東西線「小野」下車徒歩6分
駐車場 駐車場あり(無料)
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