「南禅寺」(2008/09/02 (火) 17:36:06) の最新版変更点
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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』ほか
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&sizex(5){&color(red){概略}}
&bold(){南禅寺}(なんぜんじ)は、京都市左京区南禅寺福地町にある[[臨済宗]]南禅寺派大本山の寺院。山号は瑞龍山、寺号は正式に「太平興国南禅禅寺」と称する。本尊は[[釈迦如来]]、開基(創立者)は亀山法皇、開山(初代住職)は[[無関普門]]([[大明国師>無関普門]])である。皇室の発願になる禅寺としては日本最初のもので、[[京都五山>五山制度]]の上位(第一位の[[天龍寺]]よりさらに上に位置する)の別格扱いの寺院として、最も高い格式を誇る。
&sizex(5){&color(red){歴史}}
正応4年(1291)、亀山法皇は禅林寺殿を寺にあらため、当時80歳の[[無関普門]]を開山として「龍安山禅林禅寺」と名づけた。伝承によれば、この頃禅林寺殿に夜な夜な妖怪変化が出没して亀山法皇を悩ましたが、[[無関普門]]が弟子を引き連れて入り、座禅をしただけで妖怪は退散したので、法皇は[[無関>無関普門]]を開山に請じたという。開山として招かれたのは[[無関>無関普門]]の没年であったため、[[無関>無関普門]]の死去に伴い、伽藍の建設は実質的には2世住職の規庵祖円(南院国師)に引き継がれ、永仁7年(1299)頃に寺観が整った。当初の「龍安山禅林禅寺」を「太平興国南禅禅寺」という寺号に改めたのは正安年間(1299~1302)のことという。正中2年(1325)には[[夢窓疎石]]が住している。建武元年(1334)には後醍醐天皇によって[[京都五山>五山制度]]の第一とされた。至徳3年(1385)、[[足利義満>足利氏]]は自らの建立した[[相国寺]]を[[五山>五山制度]]の第二位に、さらに南禅寺を「別格」として五山の上位に位置付けた。当時は約10万坪の境内に塔頭子院数十を擁したという。明徳4年(1393)、文安4年(1447)、応仁元年(1467)と火災で主要伽藍を焼失して衰退。[[応仁の乱]]以降は再建も思うにまかせなかったが、慶長10年(1605)、[[以心崇伝]]([[金地院崇伝>以心崇伝]])が入寺したのち、[[崇伝>以心崇伝]]と[[徳川家>徳川氏]]の外護のもと主要伽藍が復興された。のちに明治期の廃仏毀釈により寺領が大幅に縮小されたものの、現在でも12ヵ寺の塔頭を抱える大寺院である。
&sizex(5){&color(red){伽藍}}
***方丈
大方丈と小方丈からなる。大方丈は天正年間(1573~1592)に建てられた[[女院御所>京都御所]]の対面御殿を下賜・移築されたもので、入母屋造、こけら葺。屋根のゆるやかな勾配や高欄をめぐらせた広縁などに住宅風の趣を残す。内部には[[狩野派]]による障壁画があり、柳の間、麝香の間、御昼の間、花鳥の間(西の間)、鶴の間、鳴滝の間の6室にある襖、壁貼付など計160余面が絢爛豪華に彩られている。これらは[[旧御所>京都御所]]の障壁画を引き継いだものであるが、移築に際し配置構成が大幅に変更されており、本来ひと続きであった襖が別々の部屋に配置されているものも多い。大方丈南庭は[[小堀遠州]]作と伝わる[[枯山水庭園]]で、[[龍安寺]]方丈庭園と同じく「虎の子渡しの庭」の別称でも呼ばれ、国の[[名勝>名勝・特別名勝]]に指定されている。また方丈の西側には[[枯山水庭園]]の「如心庭」が、小方丈の隣には苔むした坪庭「六道庭」もある。小方丈は寛永年間(1624~1644)の建築。障壁画は[[狩野探幽>狩野派]]作と伝わるが、作風からは数名の絵師による作と思われる。
***法堂
[[豊臣秀頼>豊臣氏]]が寄進した法堂が明治28年(1895)に焼失したため、明治42年(1909)に再建されたもの。一重裳階付、入母屋造、本瓦葺の禅宗様建築。仏殿も兼ねており、問禅や行事、法要の行なわれる場所である。須弥壇中央には[[釈迦如来]]像、文殊菩薩騎獅子像、普賢菩薩騎象像を安置する。天井には[[今尾景年]]による雲龍図が描かれている。
***三門
歌舞伎『楼門五三桐』で石川五右衛門が「絶景かな」と見得を切るシーンで有名な門(これは架空の話で、三門は五右衛門の死後に建てられた)。五間三戸の二重門で、入母屋造、本瓦葺の典型的な禅宗様。別名「天下竜門」。大坂夏の陣で戦死した武士の冥福を祈るため、津藩主藤堂高虎が寄進したもので、寛永5年(1628)の建築。上層は「五鳳楼」と称され、須弥壇には仏師左京による宝冠[[釈迦如来]]像を中心に脇侍の月蓋長者(がつがいちょうじゃ)、善財童子と十六羅漢像のほか、藤堂家の位牌、大坂の陣の戦死者の位牌を安置する。天井画は[[狩野探幽>狩野派]]の筆と伝わり、天人や鳳凰などが極彩色で描かれている。また門前の巨大な石灯籠は佐久間勝之の奉献したもので高さ6m余。大ささでは東洋一といわれており、「佐久間玄藩の片灯寵」と呼ばれる。
***本坊(庫裏)
寛正年間(1789~1801)の再建という。本坊左手の大玄関は、国賓を迎えるときに使用される。右手にある滝の間では、清涼の滝を眺めながら抹茶をいただける(有料)。
***勅使門
境内の一番西側に建ち、切妻造、檜皮葺の四脚門。御所の「日の御門」を寛永18年(1641)に移築したもの。
***水路閣
琵琶湖からトンネルをくぐって山科、蹴上、南禅寺横を通る[[琵琶湖疏水]]は、南禅寺より北に折れて[[哲学の道]]沿いに北上する。水路を通すため境内に2基の橋台と13基の橋脚に支えられた全長93mの水路閣が造られた。ローマの水道橋を手本とし、赤レンガが築かれた西洋建築。
&sizex(5){&color(red){主な塔頭}}
***南禅院
境内から水路閣をくぐった南側にある。南禅寺の発祥地ともいえる亀山天皇の離宮跡に建つ。方丈は元禄16年(1703)に[[桂昌院>徳川氏]]の寄進によって再建された。入母屋造、こけら葺で、内陣中央には亀山天皇像が安置され、[[狩野養朴>狩野派]]([[常信>狩野派]])とその子[[如川>狩野派]]([[周信>狩野派]])と[[隨川>狩野派]]([[岑信>狩野派]])の筆になる水墨画の襖絵がある。南禅寺山を背にした庭園は当時のおもかげを残した鎌倉時代末の[[池泉回遊式庭園]]で、鶴亀、蓬莱、神仙の4島を配する曹源池を中心に北東隅には滝石組を備える。国の[[名勝>名勝・特別名勝]]及び[[史跡>史跡・特別史跡]]に指定されている。
***天授庵
三門の南側にある。[[無関普門]]を祀る塔所で、暦応3年(1340)に光厳天皇の勅許を得た南禅寺第15世住持、虎関師錬が創建した。現在の建物は[[応仁の乱]]で焼失後に、慶長7年(1602)細川藤孝(幽斎)が再建したもの。本堂の32面の襖絵は伝[[長谷川等伯]]筆(非公開)。[[枯山水>枯山水庭園]]の本堂前庭(東庭、渕黙庭とも)と[[池泉回遊式庭園]]の書院南庭がある。前庭は明治期の作庭ながら、幾何学模様の石畳は創建当時のものと考えられている。南庭は南北朝時代の特色を留め、秋の紅葉が美しい。
***金地院
境内の南西角に位置する。本尊は[[地蔵菩薩]]。応永年間(1394~1428)に南禅寺第68世住持、大業徳基が鷹峯に創建、慶長10年(1605)頃、[[以心崇伝]]によって現在地に移転して再興された。方丈は[[伏見城]]の遺構を移築したもの。上段の間は床や違い棚、附書院などを備え、折上格天井という豪華な造り。襖絵は[[狩野探幽>狩野派]]と弟[[尚信>狩野派]]の作と伝わる。小書院の奥には[[長谷川等伯]]の筆という「老松図」「猿猴捉月図」が描かれている。三畳台目の茶席「八窓席」は[[小堀遠州]]が設計した。方丈の南側、[[小堀遠州]]の作庭による「鶴亀の庭」は、白砂に鶴島と亀島の石組を配した[[枯山水庭園]]。両島の間にある大きな平石は、境内の南側奥に祀られた東照宮を遥拝するための「礼拝石(らいはいせき)」で鶴島の前には弧を描く切石の飛び石がある。国の[[特別名勝>名勝・特別名勝]]に指定されている。
&sizex(5){&color(red){文化財}}
***国宝
南禅寺方丈 亀山天皇宸翰禅林寺御祈願文案 絹本著色秋景冬景山水図(金地院所蔵) 紙本墨画渓陰小築図(金地院所蔵)
***重要文化財(建造物)
南禅寺三門 南禅寺勅使門 金地院本堂 金地院茶室(八窓席) 東照宮
***重要文化財(美術工芸品)
木造[[聖観音]]立像 大方丈障壁画 絹本著色[[大明国師>無関普門]]像 南院国師像 絹本著色釈迦十六善神像 紙本墨画達磨像 絹本著色仏涅槃図 絹本墨画江山漁舟図 絹本淡彩葉山李翺問答図 紙本著色群虎図(小方丈障壁画、伝[[狩野探幽>狩野派]]筆) 絹本墨画聖僧文殊像 絹本著色[[大明国師>無関普門]]像 鎌倉彫牡丹模様香盒 紙本墨書清凉殿拝領由緒書 南禅寺一切経 南禅寺仏殿指図 木造亀山天皇御坐像(南禅院所蔵) 木造一山一寧坐像(南禅院所蔵) 絹本著色細川幽斎・夫人像(天授庵所蔵) 絹本著色平田慈均像(天授庵所蔵) 紙本墨書淡彩[[聖一国師>円爾弁円]]像(天授庵所蔵) 絹本著色[[無関普門]]像(天授庵所蔵) 方丈襖絵(禅機図・商山四晧図・松鶴図、伝[[長谷川等伯]]筆、天授庵所蔵) 紙本墨画山水図([[狩野元信>狩野派]]筆、金地院所蔵) 紙本墨画山水図(金地院所蔵) 紙本墨書[[本光国師>以心崇伝]]日記(金地院所蔵) 紙本墨書異国日記(金地院所蔵) 紙本墨書異国渡海御朱印帳・異国近年御書草案(金地院所蔵) 紙本墨書異国日記御記録雑記(金地院所蔵) 紙本墨書慶長十九年林道春及び五山衆試文稿(金地院所蔵) 紙本墨書濃比須般国へノ返書案([[以心崇伝]]筆、金地院所蔵) 武家諸法度草稿([[以心崇伝]]筆、金地院所蔵) 絹本著色細川蓮丸像(聴松院所蔵) 絹本著色天境霊致像(聴松院所蔵)
#blockquote(){大方丈障壁画120面は、以下の4件に分けて重要文化財に指定されている。
(1) 廿四孝図14面、琴棋及群仙図17面(各紙本金地著色)
(2) 瀑布図8面、宮嬪図8面、桜花渓流図6面、梅竹禽鳥図4面(各紙本金地著色)
(3) 瀑布垂柳白鵞図8面、牡丹麝香猫図5面、松鷹白鷺図10面、松紫陽花図4面、枇杷雉子図4面、菊萩図6面(各紙本著色)
(4) 群鶴図10面、桃花小禽図4面、白梅禽鳥図4面、水辺鴨雁図4面、桧鴛鴦図2面、桐花小禽図2面(各紙本著色)}
***特別名勝
金地院庭園
***名勝
南禅寺方丈庭園 南禅院庭園
***史跡
南禅寺庭園
&sizex(5){&color(red){拝観情報}}
住所 京都市左京区南禅寺福地町86
電話番号 075-771-0365(南禅寺)、075-771-0365(南禅院)、075-771-0744(天授庵)、075-771-3511(金地院)
拝観時間 南禅寺 8:40~17:00(12月1~2月は8:40~16:30)
南禅院 8:40~17:00(12月~2月は8:40~16:30)
天授庵 9:00~17:00(冬期は9:00~16:30)
金地院 8:30~17:00(12月~2月は8:30~16:30)
拝観料 境内自由、方丈拝観500円、三門拝観500円、南禅院拝観300円、天授庵拝観400円
金地院拝観400円、茶席の拝観は原則として事前申込みが必要だが、時期によって公開されている
アクセス 市バス「南禅寺・永観堂道」下車徒歩5~10分
地下鉄東西線「蹴上駅」下車徒歩5~10分
駐車場 駐車場あり(120分以内1,000円)
&sizex(5){&color(red){主な行事}}
1月1日 改旦祝聖
2月15日 涅槃会
10月5日 達摩忌
11月11日~12日 開山忌
12月8日 成道会
&sizex(5){&color(red){その他}}
***ライトアップ・夜間拝観
南禅寺天授庵で11月中旬~下旬に行われる。
***京都検定出題
平成16年(2004)第1回京都検定3級出題
「南禅寺の塔頭、金地院の「鶴亀の庭」の作者は誰といわれているか。」
平成17年(2005)第2回京都検定3級出題
「琵琶湖疏水の支流にある水路閣は、明治21年(1888)ローマ帝国の水道を参考に建築されたといわれるが、どの寺院の境内にあたるか。」
「南禅寺は( )が正応4年(1291)に( )を開山に迎えて(中略)京都五山の( )とされ、至徳3年(1386)には( )により五山の上に格付けされて繁栄した。江戸時代初期、塔頭金地院の( )が徳川家康の外交、寺社政策のブレーンとして重用されたことから(後略)」
平成17年(2005)第2回京都検定2級出題
「華道や茶道に造詣が深く、昭和を代表する造園家である重森三玲が造った庭園はどれか。 (ア)金地院「鶴亀の庭」 (イ)東福寺「八相の庭」 (ウ)城南宮「平安の庭」 (エ)本法寺「三巴の庭」
平成17年(2005)第2回京都検定1級出題
「寛永5年(1628)に再建された南禅寺の三門は、誰の寄進によるものか。」
&sizex(5){&color(red){リンク}}
南禅寺オフィシャル http://nanzenji.com/
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&sizex(6){&bold(){南禅寺}}
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』ほか
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&bold(){南禅寺}(なんぜんじ)は、京都市左京区南禅寺福地町にある[[臨済宗]]南禅寺派大本山の寺院。山号は瑞龍山、寺号は正式に「太平興国南禅禅寺」と称する。本尊は[[釈迦如来]]、開基(創立者)は亀山法皇、開山(初代住職)は[[無関普門]]([[大明国師>無関普門]])である。皇室の発願になる禅寺としては日本最初のもので、[[京都五山>五山制度]]の上位(第一位の[[天龍寺]]よりさらに上に位置する)の別格扱いの寺院として、最も高い格式を誇る。
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正応4年(1291)、亀山法皇は禅林寺殿を寺にあらため、当時80歳の[[無関普門]]を開山として「龍安山禅林禅寺」と名づけた。伝承によれば、この頃禅林寺殿に夜な夜な妖怪変化が出没して亀山法皇を悩ましたが、[[無関普門]]が弟子を引き連れて入り、座禅をしただけで妖怪は退散したので、法皇は[[無関>無関普門]]を開山に請じたという。開山として招かれたのは[[無関>無関普門]]の没年であったため、[[無関>無関普門]]の死去に伴い、伽藍の建設は実質的には2世住職の規庵祖円(南院国師)に引き継がれ、永仁7年(1299)頃に寺観が整った。当初の「龍安山禅林禅寺」を「太平興国南禅禅寺」という寺号に改めたのは正安年間(1299~1302)のことという。正中2年(1325)には[[夢窓疎石]]が住している。建武元年(1334)には後醍醐天皇によって[[京都五山>五山制度]]の第一とされた。至徳3年(1385)、[[足利義満>足利氏]]は自らの建立した[[相国寺]]を[[五山>五山制度]]の第二位に、さらに南禅寺を「別格」として五山の上位に位置付けた。当時は約10万坪の境内に塔頭子院数十を擁したという。明徳4年(1393)、文安4年(1447)、応仁元年(1467)と火災で主要伽藍を焼失して衰退。[[応仁の乱]]以降は再建も思うにまかせなかったが、慶長10年(1605)、[[以心崇伝]]([[金地院崇伝>以心崇伝]])が入寺したのち、[[崇伝>以心崇伝]]と[[徳川家>徳川氏]]の外護のもと主要伽藍が復興された。のちに明治期の廃仏毀釈により寺領が大幅に縮小されたものの、現在でも12ヵ寺の塔頭を抱える大寺院である。
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***方丈
大方丈と小方丈からなる。大方丈は天正年間(1573~1592)に建てられた[[女院御所>京都御所]]の対面御殿を下賜・移築されたもので、入母屋造、こけら葺。屋根のゆるやかな勾配や高欄をめぐらせた広縁などに住宅風の趣を残す。内部には[[狩野派]]による障壁画があり、柳の間、麝香の間、御昼の間、花鳥の間(西の間)、鶴の間、鳴滝の間の6室にある襖、壁貼付など計160余面が絢爛豪華に彩られている。これらは[[旧御所>京都御所]]の障壁画を引き継いだものであるが、移築に際し配置構成が大幅に変更されており、本来ひと続きであった襖が別々の部屋に配置されているものも多い。大方丈南庭は[[小堀遠州]]作と伝わる[[枯山水庭園]]で、[[龍安寺]]方丈庭園と同じく「虎の子渡しの庭」の別称でも呼ばれ、国の[[名勝>名勝・特別名勝]]に指定されている。また方丈の西側には[[枯山水庭園]]の「如心庭」が、小方丈の隣には苔むした坪庭「六道庭」もある。小方丈は寛永年間(1624~1644)の建築。障壁画は[[狩野探幽>狩野派]]作と伝わるが、作風からは数名の絵師による作と思われる。
***法堂
[[豊臣秀頼>豊臣氏]]が寄進した法堂が明治28年(1895)に焼失したため、明治42年(1909)に再建されたもの。一重裳階付、入母屋造、本瓦葺の禅宗様建築。仏殿も兼ねており、問禅や行事、法要の行なわれる場所である。須弥壇中央には[[釈迦如来]]像、文殊菩薩騎獅子像、普賢菩薩騎象像を安置する。天井には[[今尾景年]]による雲龍図が描かれている。
***三門
歌舞伎『楼門五三桐』で石川五右衛門が「絶景かな」と見得を切るシーンで有名な門(これは架空の話で、三門は五右衛門の死後に建てられた)。五間三戸の二重門で、入母屋造、本瓦葺の典型的な禅宗様。別名「天下竜門」。大坂夏の陣で戦死した武士の冥福を祈るため、津藩主藤堂高虎が寄進したもので、寛永5年(1628)の建築。上層は「五鳳楼」と称され、須弥壇には仏師左京による宝冠[[釈迦如来]]像を中心に脇侍の月蓋長者(がつがいちょうじゃ)、善財童子と十六羅漢像のほか、藤堂家の位牌、大坂の陣の戦死者の位牌を安置する。天井画は[[狩野探幽>狩野派]]の筆と伝わり、天人や鳳凰などが極彩色で描かれている。また門前の巨大な石灯籠は佐久間勝之の奉献したもので高さ6m余。大ささでは東洋一といわれており、「佐久間玄藩の片灯寵」と呼ばれる。
***本坊(庫裏)
寛正年間(1789~1801)の再建という。本坊左手の大玄関は、国賓を迎えるときに使用される。右手にある滝の間では、清涼の滝を眺めながら抹茶をいただける(有料)。
***勅使門
境内の一番西側に建ち、切妻造、檜皮葺の四脚門。御所の「日の御門」を寛永18年(1641)に移築したもの。
***水路閣
琵琶湖からトンネルをくぐって山科、蹴上、南禅寺横を通る[[琵琶湖疏水]]は、南禅寺より北に折れて[[哲学の道]]沿いに北上する。水路を通すため境内に2基の橋台と13基の橋脚に支えられた全長93mの水路閣が造られた。ローマの水道橋を手本とし、赤レンガが築かれた西洋建築。
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***南禅院
境内から水路閣をくぐった南側にある。南禅寺の発祥地ともいえる亀山天皇の離宮跡に建つ。方丈は元禄16年(1703)に[[桂昌院>徳川氏]]の寄進によって再建された。入母屋造、こけら葺で、内陣中央には亀山天皇像が安置され、[[狩野養朴>狩野派]]([[常信>狩野派]])とその子[[如川>狩野派]]([[周信>狩野派]])と[[隨川>狩野派]]([[岑信>狩野派]])の筆になる水墨画の襖絵がある。南禅寺山を背にした庭園は当時のおもかげを残した鎌倉時代末の[[池泉回遊式庭園]]で、鶴亀、蓬莱、神仙の4島を配する曹源池を中心に北東隅には滝石組を備える。国の[[名勝>名勝・特別名勝]]及び[[史跡>史跡・特別史跡]]に指定されている。
***天授庵
三門の南側にある。[[無関普門]]を祀る塔所で、暦応3年(1340)に光厳天皇の勅許を得た南禅寺第15世住持、虎関師錬が創建した。現在の建物は[[応仁の乱]]で焼失後に、慶長7年(1602)細川藤孝(幽斎)が再建したもの。本堂の32面の襖絵は伝[[長谷川等伯]]筆(非公開)。[[枯山水>枯山水庭園]]の本堂前庭(東庭、渕黙庭とも)と[[池泉回遊式庭園]]の書院南庭がある。前庭は明治期の作庭ながら、幾何学模様の石畳は創建当時のものと考えられている。南庭は南北朝時代の特色を留め、秋の紅葉が美しい。
***金地院
境内の南西角に位置する。本尊は[[地蔵菩薩]]。応永年間(1394~1428)に南禅寺第68世住持、大業徳基が鷹峯に創建、慶長10年(1605)頃、[[以心崇伝]]によって現在地に移転して再興された。方丈は[[伏見城]]の遺構を移築したもの。上段の間は床や違い棚、附書院などを備え、折上格天井という豪華な造り。襖絵は[[狩野探幽>狩野派]]と弟[[尚信>狩野派]]の作と伝わる。小書院の奥には[[長谷川等伯]]の筆という「老松図」「猿猴捉月図」が描かれている。三畳台目の茶席「八窓席」は[[小堀遠州]]が設計した。方丈の南側、[[小堀遠州]]の作庭による「鶴亀の庭」は、白砂に鶴島と亀島の石組を配した[[枯山水庭園]]。両島の間にある大きな平石は、境内の南側奥に祀られた東照宮を遥拝するための「礼拝石(らいはいせき)」で鶴島の前には弧を描く切石の飛び石がある。国の[[特別名勝>名勝・特別名勝]]に指定されている。
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***国宝
南禅寺方丈 亀山天皇宸翰禅林寺御祈願文案 絹本著色秋景冬景山水図(金地院所蔵) 紙本墨画渓陰小築図(金地院所蔵)
***重要文化財(建造物)
南禅寺三門 南禅寺勅使門 金地院本堂 金地院茶室(八窓席) 東照宮
***重要文化財(美術工芸品)
木造[[聖観音]]立像 大方丈障壁画 絹本著色[[大明国師>無関普門]]像 南院国師像 絹本著色釈迦十六善神像 紙本墨画達磨像 絹本著色仏涅槃図 絹本墨画江山漁舟図 絹本淡彩葉山李翺問答図 紙本著色群虎図(小方丈障壁画、伝[[狩野探幽>狩野派]]筆) 絹本墨画聖僧文殊像 絹本著色[[大明国師>無関普門]]像 鎌倉彫牡丹模様香盒 紙本墨書清凉殿拝領由緒書 南禅寺一切経 南禅寺仏殿指図 木造亀山天皇御坐像(南禅院所蔵) 木造一山一寧坐像(南禅院所蔵) 絹本著色細川幽斎・夫人像(天授庵所蔵) 絹本著色平田慈均像(天授庵所蔵) 紙本墨書淡彩[[聖一国師>円爾弁円]]像(天授庵所蔵) 絹本著色[[無関普門]]像(天授庵所蔵) 方丈襖絵(禅機図・商山四晧図・松鶴図、伝[[長谷川等伯]]筆、天授庵所蔵) 紙本墨画山水図([[狩野元信>狩野派]]筆、金地院所蔵) 紙本墨画山水図(金地院所蔵) 紙本墨書[[本光国師>以心崇伝]]日記(金地院所蔵) 紙本墨書異国日記(金地院所蔵) 紙本墨書異国渡海御朱印帳・異国近年御書草案(金地院所蔵) 紙本墨書異国日記御記録雑記(金地院所蔵) 紙本墨書慶長十九年林道春及び五山衆試文稿(金地院所蔵) 紙本墨書濃比須般国へノ返書案([[以心崇伝]]筆、金地院所蔵) 武家諸法度草稿([[以心崇伝]]筆、金地院所蔵) 絹本著色細川蓮丸像(聴松院所蔵) 絹本著色天境霊致像(聴松院所蔵)
#blockquote(){大方丈障壁画120面は、以下の4件に分けて重要文化財に指定されている。
(1) 廿四孝図14面、琴棋及群仙図17面(各紙本金地著色)
(2) 瀑布図8面、宮嬪図8面、桜花渓流図6面、梅竹禽鳥図4面(各紙本金地著色)
(3) 瀑布垂柳白鵞図8面、牡丹麝香猫図5面、松鷹白鷺図10面、松紫陽花図4面、枇杷雉子図4面、菊萩図6面(各紙本著色)
(4) 群鶴図10面、桃花小禽図4面、白梅禽鳥図4面、水辺鴨雁図4面、桧鴛鴦図2面、桐花小禽図2面(各紙本著色)}
***特別名勝
金地院庭園
***名勝
南禅寺方丈庭園 南禅院庭園
***史跡
南禅寺庭園
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住所 京都市左京区南禅寺福地町86
電話番号 075-771-0365(南禅寺)、075-771-0365(南禅院)、075-771-0744(天授庵)、075-771-3511(金地院)
拝観時間 南禅寺 8:40~17:00(12月1~2月は8:40~16:30)
南禅院 8:40~17:00(12月~2月は8:40~16:30)
天授庵 9:00~17:00(冬期は9:00~16:30)
金地院 8:30~17:00(12月~2月は8:30~16:30)
拝観料 境内自由、方丈拝観500円、三門拝観500円、南禅院拝観300円、天授庵拝観400円
金地院拝観400円、茶席の拝観は原則として事前申込みが必要だが、時期によって公開されている
アクセス 市バス「南禅寺・永観堂道」下車徒歩5~10分
地下鉄東西線「蹴上駅」下車徒歩5~10分
駐車場 駐車場あり(120分以内1,000円)
&sizex(5){&color(red){主な行事}}
1月1日 改旦祝聖
2月15日 涅槃会
10月5日 達摩忌
11月11日~12日 開山忌
12月8日 成道会
&sizex(5){&color(red){その他}}
***ライトアップ・夜間拝観
南禅寺天授庵で11月中旬~下旬に行われる。
***京都検定出題
平成16年(2004)第1回京都検定3級出題
「南禅寺の塔頭、金地院の「鶴亀の庭」の作者は誰といわれているか。」
平成17年(2005)第2回京都検定3級出題
「琵琶湖疏水の支流にある水路閣は、明治21年(1888)ローマ帝国の水道を参考に建築されたといわれるが、どの寺院の境内にあたるか。」
「南禅寺は( )が正応4年(1291)に( )を開山に迎えて(中略)京都五山の( )とされ、至徳3年(1386)には( )により五山の上に格付けされて繁栄した。江戸時代初期、塔頭金地院の( )が徳川家康の外交、寺社政策のブレーンとして重用されたことから(後略)」
平成17年(2005)第2回京都検定2級出題
「華道や茶道に造詣が深く、昭和を代表する造園家である重森三玲が造った庭園はどれか。 (ア)金地院「鶴亀の庭」 (イ)東福寺「八相の庭」 (ウ)城南宮「平安の庭」 (エ)本法寺「三巴の庭」
平成17年(2005)第2回京都検定1級出題
「寛永5年(1628)に再建された南禅寺の三門は、誰の寄進によるものか。」
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南禅寺オフィシャル http://nanzenji.com/
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