「宗峰妙超」(2008/09/08 (月) 17:53:57) の最新版変更点
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&sizex(6){&bold(){宗峰妙超}}
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』ほか
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&sizex(5){&color(red){概略}}
&bold(){宗峰妙超}(しゅうほうみょうちょう)は鎌倉時代末期の[[臨済宗]]の僧。開山(初代住職)として[[大徳寺]]を創建する。諱は妙超、道号は宗峰、諡号は興禅大燈国師。師の南浦紹明(大応国師)から宗峰妙超(大燈国師)、のちに[[妙心寺]]の開山となる弟子の[[関山慧玄]]へと流れる純禅の系統を「応燈関」といい、現在、日本[[臨済宗]]はほとんどこの法系に属する。弘安5年~延元2年/建武4年(1282~1337)
&sizex(5){&color(red){人物史}}
弘安5年(1282)に播磨国(現兵庫県)守護・赤松氏の家臣である浦上家(うらのえ)の子として生まれた。11歳の時に書写山圓教寺で[[天台>天台宗]]を学ぶが、のち禅にめざめ、鎌倉の高峰顕日(こうほうけんにち)や京の南浦紹明(なんぽじょうみん)に参禅。南浦紹明が鎌倉の建長寺に移るにしたがって宗峰も鎌倉入りし、徳治2年(1307)には師から印可(師の法を受け継いだというお墨付き)を得る。嗣法の後、約20年草庵にあって京都で乞食行(こつじきぎょう)の修行に励み、托鉢と坐禅の日々を送る。禅風は厳格で、容赦ない厳しさをもって人に接し、深く自己の悟境を掘り下げていくことを重視し、唐代の禅風の復活を志向した。自ら公案をつくって弟子を育成し、教化においてはほとんど方便(釈迦の説法)を使わず、正面より禅の極みを打ち出した。正和4年(1315)、一族の赤松則村(円心)の帰依を受け(元応元年=1319説も)、洛北紫野の地に小堂を建立した。これが[[大徳寺]]の起源とされる。また花園天皇は宗峰妙超に帰依し、正中2年(1325年)に[[大徳寺]]を祈願所とする院宣を発している。このころ、正中の宗論にて顕密の学僧を論破して名声を高めた。建武4年(1337)、病に伏し重態となるが、花園法皇の求めに応じて、没後に花園法皇が師とすべき禅僧として、弟子の[[関山慧玄]]を推挙する。花園法皇が離宮を禅寺とした際、その山号寺号を正法山[[妙心寺]]と命名した。その年の12月22日に死去。[[妙心寺]]では、この年を開創の年とし、宗峰妙超の遺命を受けた[[関山慧玄]]が開山となっている。著作に『大燈国師語録』『仮名法語』『祥雲夜話』など。
&sizex(5){&color(red){その他}}
***京都検定出題
平成16年(2004)第1回京都検定3級出題
「大徳寺は、鎌倉時代末期に( )が創建。建武の親政を断行した( )の帰依を受け、(中略)一時荒廃したが、一休宗純が堺の豪商( )の援助で復興した(後略)。」
平成17年(2005)第2回京都検定2級出題
「苔寺で知られる西芳寺の庭園を造った僧侶は誰か。 (ア)関山慧玄 (イ)春屋妙葩 (ウ)夢窓疎石 (エ)宗峰妙超」
&sizex(5){&color(red){リンク}}
臨済禅・黄檗禅オフィシャル http://www.rinnou.net/
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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』ほか
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&sizex(5){&color(red){概略}}
&bold(){宗峰妙超}(しゅうほうみょうちょう)は鎌倉時代末期の[[臨済宗]]の僧。開山(初代住職)として[[大徳寺]]を創建する。諱は妙超、道号は宗峰、諡号は興禅大燈国師。師の[[南浦紹明]]([[大応国師>南浦紹明]])から宗峰妙超(大燈国師)、のちに[[妙心寺]]の開山となる弟子の[[関山慧玄]]へと流れる純禅の系統を「応燈関」といい、現在、日本[[臨済宗]]はほとんどこの法系に属する。弘安5年~延元2年/建武4年(1282~1337)
&sizex(5){&color(red){人物史}}
弘安5年(1282)に播磨国(現兵庫県)守護・赤松氏の家臣である浦上家(うらのえ)の子として生まれた。11歳の時に書写山圓教寺で[[天台>天台宗]]を学ぶが、のち禅にめざめ、鎌倉の高峰顕日や京の[[南浦紹明]]に参禅。[[南浦紹明]]が鎌倉の建長寺に移るにしたがって宗峰も鎌倉入りし、徳治2年(1307)には師から印可(師の法を受け継いだというお墨付き)を得る。嗣法の後、約20年草庵にあって京都で乞食行(こつじきぎょう)の修行に励み、托鉢と坐禅の日々を送る。禅風は厳格で、容赦ない厳しさをもって人に接し、深く自己の悟境を掘り下げていくことを重視し、唐代の禅風の復活を志向した。自ら公案をつくって弟子を育成し、教化においてはほとんど方便(釈迦の説法)を使わず、正面より禅の極みを打ち出した。正和4年(1315)、一族の赤松則村(円心)の帰依を受け(元応元年=1319説も)、洛北紫野の地に小堂を建立した。これが[[大徳寺]]の起源とされる。また花園天皇は宗峰妙超に帰依し、正中2年(1325年)に[[大徳寺]]を祈願所とする院宣を発している。このころ、正中の宗論にて顕密の学僧を論破して名声を高めた。建武4年(1337)、病に伏し重態となるが、花園法皇の求めに応じて、没後に花園法皇が師とすべき禅僧として、弟子の[[関山慧玄]]を推挙する。花園法皇が離宮を禅寺とした際、その山号寺号を正法山[[妙心寺]]と命名した。その年の12月22日に死去。[[妙心寺]]では、この年を開創の年とし、宗峰妙超の遺命を受けた[[関山慧玄]]が開山となっている。著作に『大燈国師語録』『仮名法語』『祥雲夜話』など。
&sizex(5){&color(red){その他}}
***京都検定出題
平成16年(2004)第1回京都検定3級出題
「大徳寺は、鎌倉時代末期に( )が創建。建武の親政を断行した( )の帰依を受け、(中略)一時荒廃したが、一休宗純が堺の豪商( )の援助で復興した(後略)。」
平成17年(2005)第2回京都検定2級出題
「苔寺で知られる西芳寺の庭園を造った僧侶は誰か。 (ア)関山慧玄 (イ)春屋妙葩 (ウ)夢窓疎石 (エ)宗峰妙超」
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臨済禅・黄檗禅オフィシャル http://www.rinnou.net/
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