「応仁の乱」(2008/09/09 (火) 14:27:20) の最新版変更点
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&sizex(6){&bold(){応仁の乱(応仁・文明の乱)}}
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』ほか
&sizex(5){&color(red){概略}}
&bold(){応仁の乱}(おうにんのらん)とは室町時代、8代将軍[[足利義政>足利氏]]のときに起こった内乱である。室町幕府管領の細川勝元と山名持豊(出家して宗全)らの有力守護大名が争い、九州など一部の地方を除く全国に拡大し、日本が戦国時代に入るきっかけとなった。&bold(){応仁・文明の乱}(おうにん・ぶんめいのらん)とも呼ばれる。
&sizex(5){&color(red){乱の推移}}
[[義政>足利氏]]は守護大名を統率する覇気に乏しく、幕政は実力者の管領家細川勝元・四職家山名宗全、正室日野富子に左右されていた。飢饉や政治的混乱に倦んだ[[義政>足利氏]]は将軍を引退して隠遁生活を送ることを夢見るようになり、29歳になって後継男子がないことを理由に将軍職を僧となっていた実弟の[[義尋>足利氏]]に譲ることを思い立った。[[義尋>足利氏]]はまだ若い[[義政>足利氏]]に後継男子誕生の可能性があることを考え、将軍就任要請を固辞し続けたが、「今後男子が生まれても僧門に入れ、家督を継承させない」と説得され、寛正5年(1464)、還俗して名を[[足利義視>足利氏]]と改め、細川勝元の後見を得て今出川邸に移った。翌年、[[義政>足利氏]]と富子との間に[[足利義尚>足利氏]]が誕生すると、実子[[義尚>足利氏]]の将軍職擁立を切望する富子は山名宗全に接近し、[[義視>足利氏]]の将軍職就任を阻止しようと暗躍する。[[義視>足利氏]]の後見人である勝元と[[義尚>足利氏]]を推す宗全の対立は激化し、将軍家の家督争いは全国の守護大名を勝元派と宗全派に二分する事態となり、衝突は避け難いものになっていった。
この頃、三管領のひとつ畠山家では、畠山義就とその従兄弟の畠山政長との家督継承権をめぐる闘争が激化していた。康正元年(1455)頃、政長と手を組んだ細川勝元の策謀によって義就は追放され、政長が畠山家総領を継承したものの、義就は宗全を頼って復権を願い出ていた。文正2年(1467)、宗全に懐柔された[[義政>足利氏]]が、政長や勝元の断りなしに、花の御所に義就を招いてこれを赦免、義就の畠山家総領を認め、政長に屋敷の明け渡しを要求する。政長はこれに反発して管領を辞任。勝元は[[義政>足利氏]]から義就追討令を出させようとするが、富子が事前に察知して宗全に情報を漏らしたため失敗した。政局を有利に運んだ宗全は兵を集め、内裏と花の御所を囲んで[[義政>足利氏]]に政長や勝元らの追放を願い出た。[[義政>足利氏]]は勝元追放は認めなかったが、諸大名が加担しないことを条件に義就による政長への攻撃を認めた。[[義政>足利氏]]から廃嫡され賊軍扱いされた政長は、自邸に火を放つと兵を率いて[[上御霊社>上御霊神社]]の森に陣を敷いた。[[上御霊社>上御霊神社]]は花の御所に近接し、竹林に囲まれて南側には[[相国寺]]の堀があるという、戦いに適した立地であった。参戦を禁じられた勝元と宗全だが、命を守った勝元に対して、宗全は命に背いて出兵、義就軍に加勢して政長軍を攻撃した。戦いは夕刻まで続いたが、政長は夜半に社に火をかけ自害を装って逃走する。
合戦の後、勝元はしばらく鳴りを潜めていたが、四国などの自領の兵を京都へ集結させると電撃的に動く。花の御所を押さえて[[義政>足利氏]]らを確保し、本陣を置いて宗全追討の命を[[義政>足利氏]]に要請。遅れを取った宗全は大宮五辻一帯にあった自邸に本陣を置いたため、両軍の位置関係から細川方は「東軍」、山名方は「西軍」と呼ばれた(現在、[[西陣]]と呼ばれる地域はこれに由来し、山名邸のあたりは山名町の名が残る)。兵力は『応仁記』によれば東軍が16万、西軍が11万以上であったと記されている。市街戦が開始され、今出川堀川周辺にあった[[知恩寺]]や[[革堂]]([[行願寺>革堂]])、[[誓願寺]]が焼失した。翌年には戦火は洛外にも拡大し、[[伏見稲荷大社]]や[[吉田神社]]などが焼失。開戦当初は東軍が優勢で、洛中から西軍を駆逐するも、山名軍8万と周防国守護(現山口県)大内政弘が水軍を率いて入京したため西軍が勢力を回復。花の御所に攻め入って将軍を奪還しようと進軍し、[[相国寺]]周辺で激戦となった。戦いは両軍に多くの死傷者を出したが、勝敗を決するには至らなかった。
その後、突然[[義視>足利氏]]が東軍を出奔する。[[義視>足利氏]]の出奔は[[義政>足利氏]]や後見人の細川勝元が[[義視>足利氏]]の廃嫡と[[義尚>足利氏]]の将軍職就任に傾いたことが大きな原因であったと見られている。勝元や[[義政>足利氏]]に説得されて[[義視>足利氏]]は一旦東軍に帰陣するが、再度出奔して[[比叡山>延暦寺]]に登った。勝元が[[義視>足利氏]]を事実上追放したのである。西軍は東軍に対抗するために、[[比叡山>延暦寺]]から[[義視>>足利氏]]を迎え入れて新将軍として擁立する。対立構図が180度入れ替わり、諸勢力は自己の利に従って離散集合をくり返した。このような状況下で身を賭して戦いに貢献しようとする者は少なく、東軍の骨皮道賢のように盗賊や凶悪人を多く含んだ集団が跋扈し、京都の市街地は放火・略奪を繰り返されて荒廃した。かつて大義名分に掲げられていたはずの、守護大名らが獲得を目指した幕府権力そのものも著しく失墜したため、もはや獲得するものは何もなかった。こうして応仁の乱は大義名分を失い、東西両軍の間には厭戦気分が漂うようになる。
文明5年(1473)に宗全、勝元が相次いで死去し、翌年に宗全の子山名政豊と勝元の子細川政元の間に和睦が成立した。[[義政>足利氏]]は[[義尚>足利氏]]に将軍職を譲って隠居した。その後も東軍は畠山政長・赤松政則、西軍は畠山義就・大内政弘を中心に惰性的な小競り合いを続けていたが、文明9年(1477)に大内政弘が軍を撤収したことによって西軍は事実上解体し、京都での戦闘は収束した。数十万の兵士が都に集結し、11年にも渡って惰性的に争いを続けてきた挙句、勝敗のつかないまま和睦成立と言う形でしか決着はつかなかった。西軍の解体はわずか1日で終わったと伝えられている。西軍に担ぎ上げられた[[義視>足利氏]]は美濃国(現岐阜県)に亡命した(後日[[義尚>足利氏]]と[[義政>足利氏]]の死後に上洛し、子の[[義材>足利氏]]([[義稙>足利氏]])を10代将軍に擁立して実権を握るも、[[義政>足利氏]]の死から1年後に病死する)。
&sizex(5){&color(red){乱後の社会の変化}}
応仁の乱によって京都の市街地及び周辺は焼け野原となり、多くの文化財が失われた。被害を免れた建物は、僅かに[[千本釈迦堂]]本堂、[[東寺]]宝蔵、[[広隆寺]]講堂、[[醍醐寺]]五重塔のみである。京都を追われた公家や民衆は、京都周辺の山科や宇治、大津、奈良、堺といった都市に疎開していった。文明11年(1479)に室町殿や内裏の復興が開始されたものの、都市の荒廃による環境悪化によって、疫病や火災、盗賊、一揆などが頻発し、幕府による京都の再建は順調とは言えなかった。再興の真の立役者となったのは商人を中心とする新興の市民階層、町衆である。明応9年(1500)には彼らの手によって疫病平癒の祭、[[祇園祭]]が再興される。煌びやかに飾り立てられて町を練り歩く山鉾は、京都の復興のシンボルであった。社会は真の実力者が支配階級を駆逐するという下克上の風潮が大勢を占め、力を失った守護大名は没落してゆく。下克上は全国に拡散され、日本は戦国の乱世に突入する。形骸化した室町幕府は乱終結から100年足らずで滅亡することになる。
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&bold(){応仁の乱}(おうにんのらん)とは室町時代、8代将軍[[足利義政>足利氏]]のときに起こった内乱である。室町幕府管領の細川勝元と山名持豊(出家して宗全)らの有力守護大名が争い、九州など一部の地方を除く全国に拡大し、日本が戦国時代に入るきっかけとなった。&bold(){応仁・文明の乱}(おうにん・ぶんめいのらん)とも呼ばれる。
&sizex(5){&color(red){乱の推移}}
[[義政>足利氏]]は守護大名を統率する覇気に乏しく、幕政は実力者の管領家細川勝元・四職家山名宗全、正室日野富子に左右されていた。飢饉や政治的混乱に倦んだ[[義政>足利氏]]は将軍を引退して隠遁生活を送ることを夢見るようになり、29歳になって後継男子がないことを理由に将軍職を僧となっていた実弟の[[義尋>足利氏]]に譲ることを思い立った。[[義尋>足利氏]]はまだ若い[[義政>足利氏]]に後継男子誕生の可能性があることを考え、将軍就任要請を固辞し続けたが、「今後男子が生まれても僧門に入れ、家督を継承させない」と説得され、寛正5年(1464)、還俗して名を[[足利義視>足利氏]]と改め、細川勝元の後見を得て今出川邸に移った。翌年、[[義政>足利氏]]と富子との間に[[足利義尚>足利氏]]が誕生すると、実子[[義尚>足利氏]]の将軍職擁立を切望する富子は山名宗全に接近し、[[義視>足利氏]]の将軍職就任を阻止しようと暗躍する。[[義視>足利氏]]の後見人である勝元と[[義尚>足利氏]]を推す宗全の対立は激化し、将軍家の家督争いは全国の守護大名を勝元派と宗全派に二分する事態となり、衝突は避け難いものになっていった。
この頃、三管領のひとつ畠山家では、畠山義就とその従兄弟の畠山政長との家督継承権をめぐる闘争が激化していた。康正元年(1455)頃、政長と手を組んだ細川勝元の策謀によって義就は追放され、政長が畠山家総領を継承したものの、義就は宗全を頼って復権を願い出ていた。文正2年(1467)、宗全に懐柔された[[義政>足利氏]]が、政長や勝元の断りなしに、花の御所に義就を招いてこれを赦免、義就の畠山家総領を認め、政長に屋敷の明け渡しを要求する。政長はこれに反発して管領を辞任。勝元は[[義政>足利氏]]から義就追討令を出させようとするが、富子が事前に察知して宗全に情報を漏らしたため失敗した。政局を有利に運んだ宗全は兵を集め、内裏と花の御所を囲んで[[義政>足利氏]]に政長や勝元らの追放を願い出た。[[義政>足利氏]]は勝元追放は認めなかったが、諸大名が加担しないことを条件に義就による政長への攻撃を認めた。[[義政>足利氏]]から廃嫡され賊軍扱いされた政長は、自邸に火を放つと兵を率いて[[上御霊社>上御霊神社]]の森に陣を敷いた。[[上御霊社>上御霊神社]]は花の御所に近接し、竹林に囲まれて南側には[[相国寺]]の堀があるという、戦いに適した立地であった。参戦を禁じられた勝元と宗全だが、命を守った勝元に対して、宗全は命に背いて出兵、義就軍に加勢して政長軍を攻撃した。戦いは夕刻まで続いたが、政長は夜半に社に火をかけ自害を装って逃走する。
合戦の後、勝元はしばらく鳴りを潜めていたが、四国などの自領の兵を京都へ集結させると電撃的に動く。花の御所を押さえて[[義政>足利氏]]らを確保し、本陣を置いて宗全追討の命を[[義政>足利氏]]に要請。遅れを取った宗全は大宮五辻一帯にあった自邸に本陣を置いたため、両軍の位置関係から細川方は「東軍」、山名方は「西軍」と呼ばれた(現在、[[西陣]]と呼ばれる地域はこれに由来し、山名邸のあたりは山名町の名が残る)。兵力は『応仁記』によれば東軍が16万、西軍が11万以上であったと記されている。市街戦が開始され、今出川堀川周辺にあった[[知恩寺]]や[[革堂]]([[行願寺>革堂]])、[[誓願寺]]が焼失した。翌年には戦火は洛外にも拡大し、[[伏見稲荷大社]]や[[吉田神社]]などが焼失。開戦当初は東軍が優勢で、洛中から西軍を駆逐するも、山名軍8万と周防国守護(現山口県)大内政弘が水軍を率いて入京したため西軍が勢力を回復。花の御所に攻め入って将軍を奪還しようと進軍し、[[相国寺]]周辺で激戦となった。戦いは両軍に多くの死傷者を出したが、勝敗を決するには至らなかった。
その後、突然[[義視>足利氏]]が東軍を出奔する。[[義視>足利氏]]の出奔は[[義政>足利氏]]や後見人の細川勝元が[[義視>足利氏]]の廃嫡と[[義尚>足利氏]]の将軍職就任に傾いたことが大きな原因であったと見られている。勝元や[[義政>足利氏]]に説得されて[[義視>足利氏]]は一旦東軍に帰陣するが、再度出奔して[[比叡山>延暦寺]]に登った。勝元が[[義視>足利氏]]を事実上追放したのである。西軍は東軍に対抗するために、[[比叡山>延暦寺]]から[[義視>>足利氏]]を迎え入れて新将軍として擁立する。対立構図が180度入れ替わり、諸勢力は自己の利に従って離散集合をくり返した。このような状況下で身を賭して戦いに貢献しようとする者は少なく、東軍の骨皮道賢のように盗賊や凶悪人を多く含んだ集団が跋扈し、京都の市街地は放火・略奪を繰り返されて荒廃した。かつて大義名分に掲げられていたはずの、守護大名らが獲得を目指した幕府権力そのものも著しく失墜したため、もはや獲得するものは何もなかった。こうして応仁の乱は大義名分を失い、東西両軍の間には厭戦気分が漂うようになる。
文明5年(1473)に宗全、勝元が相次いで死去し、翌年に宗全の子山名政豊と勝元の子細川政元の間に和睦が成立した。[[義政>足利氏]]は[[義尚>足利氏]]に将軍職を譲って隠居した。その後も東軍は畠山政長・赤松政則、西軍は畠山義就・大内政弘を中心に惰性的な小競り合いを続けていたが、文明9年(1477)に大内政弘が軍を撤収したことによって西軍は事実上解体し、京都での戦闘は収束した。数十万の兵士が都に集結し、11年にも渡って惰性的に争いを続けてきた挙句、勝敗のつかないまま和睦成立と言う形でしか決着はつかなかった。西軍の解体はわずか1日で終わったと伝えられている。西軍に担ぎ上げられた[[義視>足利氏]]は美濃国(現岐阜県)に亡命した(後日[[義尚>足利氏]]と[[義政>足利氏]]の死後に上洛し、子の[[義材>足利氏]]([[義稙>足利氏]])を10代将軍に擁立して実権を握るも、[[義政>足利氏]]の死から1年後に病死する)。
&sizex(5){&color(red){乱後の社会の変化}}
応仁の乱によって京都の市街地及び周辺は焼け野原となり、多くの文化財が失われた。被害を免れた建物は、僅かに[[千本釈迦堂]]本堂、[[東寺]]宝蔵、[[広隆寺]]講堂、[[醍醐寺]]五重塔のみである。京都を追われた公家や民衆は、京都周辺の山科や宇治、大津、奈良、堺といった都市に疎開していった。文明11年(1479)に室町殿や[[内裏>京都御所]]の復興が開始されたものの、都市の荒廃による環境悪化によって、疫病や火災、盗賊、一揆などが頻発し、幕府による京都の再建は順調とは言えなかった。再興の真の立役者となったのは商人を中心とする新興の市民階層、町衆である。明応9年(1500)には彼らの手によって疫病平癒の祭、[[祇園祭]]が再興される。煌びやかに飾り立てられて町を練り歩く山鉾は、京都の復興のシンボルであった。社会は真の実力者が支配階級を駆逐するという下克上の風潮が大勢を占め、力を失った守護大名は没落してゆく。下克上は全国に拡散され、日本は戦国の乱世に突入する。形骸化した室町幕府は乱終結から100年足らずで滅亡することになる。
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