「東福寺」(2008/10/03 (金) 14:50:18) の最新版変更点
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&sizex(6){&bold(){東福寺}}
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』ほか
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&sizex(5){&color(red){概略}}
&bold(){東福寺}(とうふくじ)は、京都市東山区本町にある[[臨済宗]]東福寺派大本山の寺院。山号は慧日山(えにちさん)、本尊は[[釈迦如来]]、開基(創立者)は[[九条道家>藤原氏]]、開山(初代住職)は[[聖一国師>円爾弁円]]、[[円爾弁円]](えんにべんねん)である。[[京都五山>五山制度]]の第四位の禅寺として中世、近世を通じて栄え、特に巨大な建造物群を有したことから「東福寺の伽藍づら」とも呼ばれた。また『元亨釈書』の著者である虎関師錬(こかんしれん)や、室町時代に画僧として活躍し、その後の仏画や水墨画に多大な影響を及ぼした[[吉山明兆]]ら多くの名僧も輩出する。寺名は奈良の東大寺、興福寺の二大寺から1字ずつ取っている。
&sizex(5){&color(red){歴史}}
東福寺が建つ地には、延長2年(924)に[[藤原忠平>藤原氏]]によって建てられた[[藤原氏]]の氏寺、[[法性寺]]の巨大な伽藍があった。嘉禎2年(1236)、[[九条道家>藤原氏]](鎌倉4代将軍[[藤原頼経>藤原氏]]の父)は、この地に高さ5丈(約15m)の[[釈迦如来]]像を安置する大寺院を建立することを発願する。開山として宋での修行を終えて帰国していた[[円爾弁円]]が迎えられた。まず[[釈迦如来]]像を安置する仏殿の建設が延応元年(1239)から始められ、完成したのは建長7年(1255)であった。工事は30年以上続き、法堂が完成したのは文永10年(1273)である。元応元年(1319)、建武元年(1334)、延元元年(1336)と相次ぐ火災のために本尊と伽藍の大部分を焼失し、のちに[[九条家>藤原氏]]、[[足利家>足利氏]]、[[徳川家>徳川氏]]などの援助により復興された。特に仏殿本尊の[[釈迦三尊>釈迦如来]]像は新大仏寺の名で喧伝された上、室町幕府4代将軍[[足利義持>足利氏]]、[[豊臣秀吉>豊臣氏]]、[[徳川家康>徳川氏]]らによって保護されたため、以後明治期まで兵火を受けることがなかった。明治14年(1881)の火災で本尊をはじめ仏殿、法堂、方丈、庫裏などが焼失したため、現在の本堂、方丈、庫裏などは明治以降の再建である。本尊は再興されていないが、東福寺に保管されている長さ2mの巨大な仏手は、旧本尊像の左手部分が火災から救出されたものと推定されている(創建時の本尊ではなく、14世紀に再興された本尊の遺物)。なお、三門をはじめ東司、浴室、禅堂などは焼け残ったため、中世の建物が現存している。廃仏毀釈で規模が縮小されたとはいえ、主要伽藍の周辺に計25ヵ寺の塔頭寺院がある。
&sizex(5){&color(red){伽藍}}
***三門
五間三戸の二重門で、入母屋造、本瓦葺。両脇に山廊を備えた雄大な門で、現存する禅寺の三門としては日本最古のものである。階上の桟唐戸などには禅宗様(唐様)も見られるものの、全体の構造は大仏様(天竺様)の意匠。応永12~15年(1405~1408)ごろに[[足利義持>足利氏]]によって再建された。正面縁の大額「妙雲閣」は[[義持>足利氏]]の筆。楼上には[[宝冠釈迦如来>釈迦如来]]像と脇侍の月蓋長者(がつがいちょうじゃ)と善財童子、十六羅漢像を安置する。天井や梁、柱には飛天や飛龍が極彩色で描かれており、寺伝では[[明兆>吉山明兆]]と門人の筆という。
***仏殿(本堂・法堂とも)
昭和9年(1934)の再建。入母屋造、本瓦葺、裳階付。高さ25.5m、間口41.4mと昭和期の木造建築としては最大のものという。禅宗様の桟唐戸や鏡天井、裳階の窓は和様の連子窓、破風の妻飾りは法隆寺南大門風と多くの様式が組み合わされている。天井絵の雲龍図は[[堂本印象]]の筆。本尊[[釈迦三尊>釈迦如来]]像は明治14年(1881)の火災後に[[万寿寺]]から移されたもので、鎌倉時代の作である。
***方丈・方丈庭園
方丈は明治23年(1890)の再建。東西南北の4つからなる庭園「八相の庭」がある。近代の造園家、[[重森三玲]]が手掛けた庭園で、昭和14年(1939)に作られた。南庭は巨石と砂紋によって四仙島と八海を表した[[枯山水庭園]]、西庭は皐月の刈り込みを市松模様に配した「井田の庭」、北庭は石と苔を幾何学的に配した「市松の庭」、東庭は東司の柱石を利用した「北斗七星の庭」。南庭には昭憲皇太后の寄進と伝わる向唐破風の唐門(恩賜門とも)がある。
***庫裏
明治14年(1881)の火災で焼けたため、明治42年(1909)に再興された。方丈唐門とともに、昭憲皇太后から下賜されたものと伝わる。
***禅堂
貞和3年(1347)の再建。「僧堂」や「選佛場」とも呼ばれる坐禅専修の道場。現存する最大最古の禅堂で、桁行35m、梁間14m、単層、裳階付で切妻造、本瓦葺。鎌倉風の花頭窓と格子窓、弓形の木を並べた波欄間、鏡天井の意匠。
***東司・浴室
東司は三門の西側に位置する禅宗式の便所で、通称「百雪隠」。桁行約35m、梁間14mで、切妻造、本瓦葺。室町時代唯一の東司の遺構として貴重なもの。浴室は三門の東側にあり、前面を入母屋造、後方を切妻造にした単層本瓦葺の建物。入口には両開きの桟唐戸、左右に連子窓を設ける。内部中央は鏡天井、その他は化粧屋根裏とし、土間を入った奥左右には腰掛けを設け、中央板敷を洗い場とする蒸し風呂となっている。京都最古の浴室建築の遺構。
***仁王門
境内の一番北にある門で、[[万寿寺]]にあったものが移築された。三間一戸の八脚門で、切妻造、本瓦葺。
***六波羅門・勅使門
共に本坊伽藍の最南端にある惣門。六波羅門は、もとは北条氏の六波羅探題にあったものを移築したことからこの名があり、元弘3年(1333)に[[足利高氏(尊氏)>足利氏]]が六波羅探題を攻め滅ぼした際の矢庇の痕が残っている。勅使門は六波羅門の東隣に建ち、東西に向いた門で、勅使参向の出入に使用した門。現在は閉ざされている。
***経蔵
三門、禅堂、東司などとともに旧観を残す宝形造りの瀟洒な建造物。[[円爾弁円]]が宋から持ち帰った一千余りの典籍を所蔵する。
***五社成就宮・十三重石塔
東福寺の鎮守社。石清水、賀茂、稲荷、春日、日吉の五社神を祀るので五社明神社とも呼ばれる。成就宮前にある石塔は、高さ4.5mの花崗岩製。康永2年(1343)に東福寺創立祈願のため造立されたもの。
***通天橋・臥雲橋・偃月橋
伽藍の北には洗玉澗という渓谷があり、西から臥雲橋、通天橋、偃月橋(えんげつきょう)という名前の3本の橋が架かる。通天橋を渡ると開山堂(常楽庵)に至る。天授6年(1380)、[[春屋妙葩]]が谷を渡る労苦から僧を救うため架けたと伝わり、歩廊入口には[[春屋妙葩]]の筆という「通天橋」の扁額を掲げる。南宋の径山(きんざん)の橋を模したという。その後、幾度か架け替えられ、現在のものは昭和34年(1959)に台風によって倒壊したのち昭和36年(1961)に再建したもの。洗玉澗付近は紅葉の名所として知られる。偃月橋は本坊より塔頭の龍吟庵と即宗院に至る橋で、単層切妻造、桟瓦葺。
***開山堂(常楽庵)・普門院
洗玉澗を越えた境内の北側に位置する。文政2年(1819)の焼失後、文政9年(1826年)までに再建された。開山堂は、別名常楽庵とも呼ばれ、関白[[一条忠良>藤原氏]]によって再建された。屋上に閣を持ち、正面柱間八間、内部は瓦敷で開山[[聖一国師>円爾弁円]]像を安置する。上層の「伝衣閣(でんねかく)」は内部左右いっぱいに壇を設け、中央に[[阿弥陀如来]]像、右に[[薬師如来]]像、左に布袋像を安置する。普門院は寝殿造風の建物で、内部は三室に仕切られ、その襖絵は花鳥草花・唐人物を主題とし74面からなる(現在は収蔵庫に収納)。普門院の前庭には西側に[[枯山水庭園]]と東側に[[池泉鑑賞式庭園>池泉回遊式庭園]]がある。[[枯山水>枯山水庭園]]は約100坪の広さの白砂に市松の砂紋をつけ、鶴島、亀島を象った石組を配している。対面の池庭は築山風で、池には亀島を配し、枯滝を設ける江戸中期作の庭園。
***愛染堂
開山堂の西、南正面にして立つ丹塗りの八角小円堂で、単層、こけら葺。もとは[[万寿寺]]の愛染堂だったが、昭和9年(1934)の室戸台風で倒壊し、その後現在の地に移された。内部は瓦敷、鏡天井とし、須弥壇上に宝塔形の厨子を置き、[[愛染明王>明王]]を祀る。
&sizex(5){&color(red){主な塔頭}}
***龍吟庵
東福寺第3世住持、[[無関普門]]([[大明国師>無関普門]]、[[南禅寺]]の開山)の住居跡。方丈は入母屋造、こけら葺。柱間中央に両開き板唐戸の入口を設け、両端の柱間には遣戸をはめ込むなど書院造に寝殿造風の名残を留めた、現存最古の方丈建築。背面に開山堂があり、[[大明国師>無関普門]]坐像を安置する。方丈の東西南側は、いずれも[[枯山水庭園]]となっており、昭和39年(1964)に[[重森三玲]]によって作庭された。西庭は海中の龍が黒雲を得て昇天する姿を石組であらわしている。通常非公開だが、11月に期間限定公開される。
***光明院
「波心庭」という名の[[重森三玲]]作の[[枯山水庭園]]が有名。「虹の苔寺」とも称されるほど苔が美しい。
***芬陀院(雪舟寺)
書院前庭は優美な苔庭で[[雪舟]]作と伝わる。「茶関白」とも呼ばれた[[一条経通>藤原氏]]が、父の菩提を弔うために定山祖禅を開山に元亨年間(1321~1324)ごろ創建した[[一条家>藤原氏]]の菩提寺。18世紀に焼失し、現在の建物は桃園天皇女御恭礼門院の旧殿を移築し、明治32年(1899)に改築したもの。書院の背後にある茶室、図南亭(となんてい)は[[一条昭良(恵観)>藤原氏]]好みといわれる躙口のないもので、昭和44年(1969)に復元された。扁額は[[石川丈山]]の筆。東庭は[[重森三玲]]が作庭した。
***霊雲院
東福寺第80世住持となった岐陽方秀が山内に営んだ隠居所「不二庵」を後に改名したもの。書院前庭は「九山八海の庭(霊の庭)」という[[枯山水庭園]]で、[[重森三玲]]の修復。中央には熊本藩主細川忠利・光尚父子から寄進された名石「細川候遺愛石」が配されている。書院西側には赤い鞍馬砂の雲紋がモダンな「臥雲の庭」があり、こちらも[[重森三玲]]の手による。
***同聚院
文安年間(1444~1448)に、[[藤原道長>藤原氏]]の建てた[[法性寺]]五大堂跡に建立された。開山は琴江令薫(きんこうれいくん)。本尊の[[不動明王>明王]]坐像は、旧[[法性寺]]五大堂の中尊と伝えられ(他の像は散逸)、仏師[[定朝]]の父康尚が制作にあたったという通称「じゅうまん不動」。「十」の下に「万」を書いて一字で「じゅうまん」と読み、「十万の眷属を率いて衆生を守護し悪事災難を除く」の意味。また境内にはアメリカの大富豪モルガンと結婚した祇園の芸妓、モルガンお雪の墓がある。
***天得院
正平年間(1346~1370)に、東福寺第30世無夢一清が開創した。[[方広寺]]の鐘銘「国家安康 君臣豊楽」を撰文した文英清韓がのちに住持を務めた。天得院はこの件で取り壊されたが、天明9年(1789)に再建された。 桃山様式をとどめる庭は東西にのびた地割に石組を配し、苔が美しい[[枯山水庭園]]。桔梗と二度咲きの萩が有名。6月中旬~7月初旬と11月にのみ特別公開される。
***退耕庵
貞和2年(1346)、東福寺第43世住持である性海霊見が創建した。[[応仁の乱]]で焼失したのち、後に毛利氏の外交僧となる安国寺恵瓊によって再興された。書院に造られた茶室「昨夢軒」では関ヶ原の戦いの謀議が行われたという。茶室に面した南庭は[[枯山水>枯山水庭園]]の「真隠庭」、北庭は[[池泉鑑賞式庭園>池泉回遊式庭園]]。また小野小町ゆかりの寺としても知られ、小町作という「玉章[[地蔵尊>地蔵菩薩]](たまずさじぞうそん)」や「小町百歳像」が伝わる。拝観は要申込。
&sizex(5){&color(red){文化財}}
***国宝
東福寺三門 絹本著色無準師範像 無準師範墨蹟([[円爾>円爾弁円]]印可状) 禅院額字ならびに牌字 宋版太平御覧 宋刊本義楚六帖 龍吟庵方丈
***重要文化財(建造物)
禅堂(選仏場) 偃月橋 鐘楼 月下門(月華門) 東司 浴室 仁王門 六波羅門 十三重石塔 常楽庵(開山堂・昭堂) 三聖寺愛染堂 龍吟庵庫裏 龍吟庵表門
***重要文化財(美術工芸品)
木造僧形坐像 木造[[地蔵菩薩]]坐像 木造[[二天王>四天王]]立像 絹本著色五百羅漢図(伝[[明兆>吉山明兆]]筆) 絹本著色[[釈迦三尊>釈迦如来]]像 絹本著色[[聖一国師>円爾弁円]]像([[明兆>吉山明兆]]筆) 紙本淡彩達磨蝦蟇鉄拐像([[明兆>吉山明兆]]筆) 紙本著色四十祖像([[明兆>吉山明兆]]筆) 絹本墨画維摩居士像 紙本淡彩東福寺伽藍図(伝[[雪舟]]筆) 絹本著色[[藤原道家>藤原氏]]像 紙本墨画[[聖一国師>円爾弁円]]像(伝[[明兆>吉山明兆]]筆) 普門院方丈障壁画 絹本著色[[聖一国師>円爾弁円]]像 絹本著色[[聖一国師>円爾弁円]]像 絹本著色応菴和尚像 梵鐘 朱漆牡丹唐草文透彫卓 東福寺文書 紙本墨書[[聖一国師>円爾弁円]]度牒 紙本墨書[[聖一国師>円爾弁円]]戒牒 紙本墨書無準行状記 紙本支那禅刹図式(寺伝大宋諸山図) 紙本墨書参天台五台山記 宋刊本中庸説 宋刊本仏祖宗派総図 宋刊本圜悟禅師語録 宋刊本仏鑑禅師語録 宋刊本台宗十類因革論 宋刊本四明十義書 宋刊本山家義苑 宋刊本楞伽通義 宋刊本楞伽経 宋刊本四分律比丘尼鈔 宋刊本宗門統要集 紙本墨書元亨釈書 紙本墨書虎関師錬墨蹟 仏鑑禅師墨蹟 宗派図(絹本) 大宗派図 東寺天台大血脈図 東福寺条々 [[聖一国師>円爾弁円]]墨蹟 径山仏鑑禅師行状 普門院蔵書目録 東福寺所伝宋拓碑文 [[九条道家>藤原氏]]惣処分状 東福寺修正看経榜 円尓関係文書 宋版首楞厳経義海 木造[[大明国師>無関普門]]坐像(龍吟庵所蔵) 銅[[無関禅師>無関普門]]骨臓器及び石櫃(龍吟庵) 固山一鞏墨蹟(光明院所蔵) 絹本著色岐陽和尚像(霊雲院所蔵) 宋版仏法大明録(霊雲院所蔵) 宋版十諫書(霊雲院所蔵) 木造[[不動明王>明王]]坐像(同聚院所蔵) 絹本著色性海和尚像(退耕庵所蔵) 紙本墨書永明智覚寿禅師垂誠(退耕庵所蔵) 紙本墨書[[聖一国師>円爾弁円]]忌斎幹縁疏(退耕庵所蔵)
#blockquote(){※重要文化財の絵画、彫刻、工芸品、文書等の多くは本堂東側にある文化財収蔵施設「光明宝殿」に保管されているが一般公開はされていない。また、絵画等の一部は東京と京都の国立博物館に寄託されている。}
&sizex(5){&color(red){拝観情報}}
住所 京都市東山区本町15
電話番号 075-561-0087(東福寺)、075-541-8972(龍吟庵)、075-561-7317(光明院)、075-541-1761(芬陀院)
075-561-4080(霊雲院)、075-561-8821(同聚院)、075-525-3653(天得院)、075-561-0667(退耕庵)
拝観時間 東福寺 9:00~16:00(11月は8:30~16:30)
光明院 8:00~日没
芬陀院 9:00~17:00
霊雲院 9:00~17:00
同聚院 9:00~16:00
天得院 9:30~16:00(6月中旬~7月初旬と11月にのみ公開)
拝観料 境内自由、方丈拝観400円、通天橋拝観400円
光明院拝観は志納、芬陀院拝観300円、霊雲院300円、同聚院200円
アクセス JR奈良線「東福寺」下車徒歩5分
駐車場 駐車場あり(無料)
&sizex(5){&color(red){主な行事}}
&sizex(5){&color(red){その他}}
***京都検定出題
平成16年(2004)第1回京都検定2級出題
「寺院とその塔頭について誤っているものを選びなさい。 (ア)東福寺・光明院 (イ)建仁寺・両足院 (ウ)相国寺・玉鳳院 (エ)東寺・観智院」
平成17年(2005)第2回京都検定3級出題
「東福寺について誤っているものを選びなさい。 (ア)九条道家が九条家の菩提寺として創建。円爾弁円を開山に迎えた (イ)寺名は規模を東大寺、教行を興福寺にならって名づけられた (ウ)境内にある通天橋一帯は紅葉の名所として知られている (エ)武家の信仰が篤かったことから「東福寺の武家づら」といわれている」
平成17年(2005)第2回京都検定2級出題
「鎌倉前期の建築で、鎌倉幕府の六波羅探題の遺構と伝えられる六波羅門のある寺院はどこか。」
「華道や茶道に造詣が深く、昭和を代表する造園家である重森三玲が造った庭園はどれか。 (ア)金地院 鶴亀の庭 (イ)東福寺 八相の庭 (ウ)城南宮 平安の庭 (エ)本法寺 三巴の庭」
&sizex(5){&color(red){リンク}}
東福寺オフィシャル http://www.tofukuji.jp/
天得院オフィシャル http://www.tentokuin.jp/
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&sizex(6){&bold(){東福寺}}
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』ほか
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&bold(){東福寺}(とうふくじ)は、京都市東山区本町にある[[臨済宗]]東福寺派大本山の寺院。山号は慧日山(えにちさん)、本尊は[[釈迦如来]]、開基(創立者)は[[九条道家>藤原氏]]、開山(初代住職)は[[聖一国師>円爾弁円]]、[[円爾弁円]](えんにべんねん)である。[[京都五山>五山制度]]の第四位の禅寺として中世、近世を通じて栄え、特に巨大な建造物群を有したことから「東福寺の伽藍づら」とも呼ばれた。また『元亨釈書』の著者である虎関師錬(こかんしれん)や、室町時代に画僧として活躍し、その後の仏画や水墨画に多大な影響を及ぼした[[吉山明兆]]ら多くの名僧も輩出する。寺名は奈良の東大寺、興福寺の二大寺から1字ずつ取っている。
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東福寺が建つ地には、延長2年(924)に[[藤原忠平>藤原氏]]によって建てられた[[藤原氏]]の氏寺、[[法性寺]]の巨大な伽藍があった。嘉禎2年(1236)、[[九条道家>藤原氏]](鎌倉4代将軍[[藤原頼経>藤原氏]]の父)は、この地に高さ5丈(約15m)の[[釈迦如来]]像を安置する大寺院を建立することを発願する。開山として宋での修行を終えて帰国していた[[円爾弁円]]が迎えられた。まず[[釈迦如来]]像を安置する仏殿の建設が延応元年(1239)から始められ、完成したのは建長7年(1255)であった。工事は30年以上続き、法堂が完成したのは文永10年(1273)である。元応元年(1319)、建武元年(1334)、延元元年(1336)と相次ぐ火災のために本尊と伽藍の大部分を焼失し、のちに[[九条家>藤原氏]]、[[足利家>足利氏]]、[[徳川家>徳川氏]]などの援助により復興された。特に仏殿本尊の[[釈迦三尊>釈迦如来]]像は新大仏寺の名で喧伝された上、室町幕府4代将軍[[足利義持>足利氏]]、[[豊臣秀吉>豊臣氏]]、[[徳川家康>徳川氏]]らによって保護されたため、以後明治期まで兵火を受けることがなかった。明治14年(1881)の火災で本尊をはじめ仏殿、法堂、方丈、庫裏などが焼失したため、現在の本堂、方丈、庫裏などは明治以降の再建である。本尊は再興されていないが、東福寺に保管されている長さ2mの巨大な仏手は、旧本尊像の左手部分が火災から救出されたものと推定されている(創建時の本尊ではなく、14世紀に再興された本尊の遺物)。なお、三門をはじめ東司、浴室、禅堂などは焼け残ったため、中世の建物が現存している。廃仏毀釈で規模が縮小されたとはいえ、主要伽藍の周辺に計25ヵ寺の塔頭寺院がある。
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***三門
五間三戸の二重門で、入母屋造、本瓦葺。両脇に山廊を備えた雄大な門で、現存する禅寺の三門としては日本最古のものである。階上の桟唐戸などには禅宗様(唐様)も見られるものの、全体の構造は大仏様(天竺様)の意匠。応永12~15年(1405~1408)ごろに[[足利義持>足利氏]]によって再建された。正面縁の大額「妙雲閣」は[[義持>足利氏]]の筆。楼上には[[宝冠釈迦如来>釈迦如来]]像と脇侍の月蓋長者(がつがいちょうじゃ)と善財童子、十六羅漢像を安置する。天井や梁、柱には飛天や飛龍が極彩色で描かれており、寺伝では[[明兆>吉山明兆]]と門人の筆という。
***仏殿(本堂・法堂とも)
昭和9年(1934)の再建。入母屋造、本瓦葺、裳階付。高さ25.5m、間口41.4mと昭和期の木造建築としては最大のものという。禅宗様の桟唐戸や鏡天井、裳階の窓は和様の連子窓、破風の妻飾りは法隆寺南大門風と多くの様式が組み合わされている。天井絵の雲龍図は[[堂本印象]]の筆。本尊[[釈迦三尊>釈迦如来]]像は明治14年(1881)の火災後に[[万寿寺]]から移されたもので、鎌倉時代の作である。
***方丈・方丈庭園
方丈は明治23年(1890)の再建。東西南北の4つからなる庭園「八相の庭」がある。近代の造園家、[[重森三玲]]が手掛けた庭園で、昭和14年(1939)に作られた。南庭は巨石と砂紋によって四仙島と八海を表した[[枯山水庭園]]、西庭は皐月の刈り込みを市松模様に配した「井田の庭」、北庭は石と苔を幾何学的に配した「市松の庭」、東庭は東司の柱石を利用した「北斗七星の庭」。南庭には昭憲皇太后の寄進と伝わる向唐破風の唐門(恩賜門とも)がある。
***庫裏
明治14年(1881)の火災で焼けたため、明治42年(1909)に再興された。方丈唐門とともに、昭憲皇太后から下賜されたものと伝わる。
***禅堂
貞和3年(1347)の再建。「僧堂」や「選佛場」とも呼ばれる坐禅専修の道場。現存する最大最古の禅堂で、桁行35m、梁間14m、単層、裳階付で切妻造、本瓦葺。鎌倉風の花頭窓と格子窓、弓形の木を並べた波欄間、鏡天井の意匠。
***東司・浴室
東司は三門の西側に位置する禅宗式の便所で、通称「百雪隠」。桁行約35m、梁間14mで、切妻造、本瓦葺。室町時代唯一の東司の遺構として貴重なもの。浴室は三門の東側にあり、前面を入母屋造、後方を切妻造にした単層本瓦葺の建物。入口には両開きの桟唐戸、左右に連子窓を設ける。内部中央は鏡天井、その他は化粧屋根裏とし、土間を入った奥左右には腰掛けを設け、中央板敷を洗い場とする蒸し風呂となっている。京都最古の浴室建築の遺構。
***仁王門
境内の一番北にある門で、[[万寿寺]]にあったものが移築された。三間一戸の八脚門で、切妻造、本瓦葺。
***六波羅門・勅使門
共に本坊伽藍の最南端にある惣門。六波羅門は、もとは北条氏の六波羅探題にあったものを移築したことからこの名があり、元弘3年(1333)に[[足利高氏(尊氏)>足利氏]]が六波羅探題を攻め滅ぼした際の矢庇の痕が残っている。勅使門は六波羅門の東隣に建ち、東西に向いた門で、勅使参向の出入に使用した門。現在は閉ざされている。
***経蔵
三門、禅堂、東司などとともに旧観を残す宝形造りの瀟洒な建造物。[[円爾弁円]]が宋から持ち帰った一千余りの典籍を所蔵する。
***五社成就宮・十三重石塔
東福寺の鎮守社。石清水、賀茂、稲荷、春日、日吉の五社神を祀るので五社明神社とも呼ばれる。成就宮前にある石塔は、高さ4.5mの花崗岩製。康永2年(1343)に東福寺創立祈願のため造立されたもの。
***通天橋・臥雲橋・偃月橋
伽藍の北には洗玉澗という渓谷があり、西から臥雲橋、通天橋、偃月橋(えんげつきょう)という名前の3本の橋が架かる。通天橋を渡ると開山堂(常楽庵)に至る。天授6年(1380)、[[春屋妙葩]]が谷を渡る労苦から僧を救うため架けたと伝わり、歩廊入口には[[春屋妙葩]]の筆という「通天橋」の扁額を掲げる。南宋の径山(きんざん)の橋を模したという。その後、幾度か架け替えられ、現在のものは昭和34年(1959)に台風によって倒壊したのち昭和36年(1961)に再建したもの。洗玉澗付近は紅葉の名所として知られる。偃月橋は本坊より塔頭の龍吟庵と即宗院に至る橋で、単層切妻造、桟瓦葺。
***開山堂(常楽庵)・普門院
洗玉澗を越えた境内の北側に位置する。文政2年(1819)の焼失後、文政9年(1826年)までに再建された。開山堂は、別名常楽庵とも呼ばれ、関白[[一条忠良>藤原氏]]によって再建された。屋上に閣を持ち、正面柱間八間、内部は瓦敷で開山[[聖一国師>円爾弁円]]像を安置する。上層の「伝衣閣(でんねかく)」は内部左右いっぱいに壇を設け、中央に[[阿弥陀如来]]像、右に[[薬師如来]]像、左に布袋像を安置する。普門院は寝殿造風の建物で、内部は三室に仕切られ、その襖絵は花鳥草花・唐人物を主題とし74面からなる(現在は収蔵庫に収納)。普門院の前庭には西側に[[枯山水庭園]]と東側に[[池泉鑑賞式庭園>池泉回遊式庭園]]がある。[[枯山水>枯山水庭園]]は約100坪の広さの白砂に市松の砂紋をつけ、鶴島、亀島を象った石組を配している。対面の池庭は築山風で、池には亀島を配し、枯滝を設ける江戸中期作の庭園。
***愛染堂
開山堂の西、南正面にして立つ丹塗りの八角小円堂で、単層、こけら葺。もとは[[万寿寺]]の愛染堂だったが、昭和9年(1934)の室戸台風で倒壊し、その後現在の地に移された。内部は瓦敷、鏡天井とし、須弥壇上に宝塔形の厨子を置き、[[愛染明王>明王]]を祀る。
&sizex(5){&color(red){主な塔頭}}
***龍吟庵
東福寺第3世住持、[[無関普門]]([[大明国師>無関普門]]、[[南禅寺]]の開山)の住居跡。方丈は入母屋造、こけら葺。柱間中央に両開き板唐戸の入口を設け、両端の柱間には遣戸をはめ込むなど書院造に寝殿造風の名残を留めた、現存最古の方丈建築。背面に開山堂があり、[[大明国師>無関普門]]坐像を安置する。方丈の東西南側は、いずれも[[枯山水庭園]]となっており、昭和39年(1964)に[[重森三玲]]によって作庭された。西庭は海中の龍が黒雲を得て昇天する姿を石組であらわしている。通常非公開だが、11月に期間限定公開される。
***光明院
「波心庭」という名の[[重森三玲]]作の[[枯山水庭園]]が有名。「虹の苔寺」とも称されるほど苔が美しい。
***芬陀院(雪舟寺)
「茶関白」とも呼ばれた[[一条経通>藤原氏]]が、父の菩提を弔うために定山祖禅を開山に元亨年間(1321~1324)ごろ創建した[[一条家>藤原氏]]の菩提寺。18世紀に焼失し、現在の建物は桃園天皇女御恭礼門院の旧殿を移築し、明治32年(1899)に改築したもの。書院前庭は優美な苔庭で[[雪舟]]作と伝わる。書院の背後にある茶室、図南亭(となんてい)は[[一条昭良(恵観)>藤原氏]]好みといわれる躙口のないもので、昭和44年(1969)に復元された。扁額は[[石川丈山]]の筆。東庭は[[重森三玲]]が作庭した。
***霊雲院
東福寺第80世住持となった岐陽方秀が山内に営んだ隠居所「不二庵」を後に改名したもの。書院前庭は「九山八海の庭(霊の庭)」という[[枯山水庭園]]で、[[重森三玲]]の修復。中央には熊本藩主細川忠利・光尚父子から寄進された名石「細川候遺愛石」が配されている。書院西側には赤い鞍馬砂の雲紋がモダンな「臥雲の庭」があり、こちらも[[重森三玲]]の手による。
***同聚院
文安年間(1444~1448)に、[[藤原道長>藤原氏]]の建てた[[法性寺]]五大堂跡に建立された。開山は琴江令薫(きんこうれいくん)。本尊の[[不動明王>明王]]坐像は、旧[[法性寺]]五大堂の中尊と伝えられ(他の像は散逸)、仏師[[定朝]]の父康尚が制作にあたったという通称「じゅうまん不動」。「十」の下に「万」を書いて一字で「じゅうまん」と読み、「十万の眷属を率いて衆生を守護し悪事災難を除く」の意味。また境内にはアメリカの大富豪モルガンと結婚した祇園の芸妓、モルガンお雪の墓がある。
***天得院
正平年間(1346~1370)に、東福寺第30世無夢一清が開創した。[[方広寺]]の鐘銘「国家安康 君臣豊楽」を撰文した文英清韓がのちに住持を務めた。天得院はこの件で取り壊されたが、天明9年(1789)に再建された。 桃山様式をとどめる庭は東西にのびた地割に石組を配し、苔が美しい[[枯山水庭園]]。桔梗と二度咲きの萩が有名。6月中旬~7月初旬と11月にのみ特別公開される。
***退耕庵
貞和2年(1346)、東福寺第43世住持である性海霊見が創建した。[[応仁の乱]]で焼失したのち、後に毛利氏の外交僧となる安国寺恵瓊によって再興された。書院に造られた茶室「昨夢軒」では関ヶ原の戦いの謀議が行われたという。茶室に面した南庭は[[枯山水>枯山水庭園]]の「真隠庭」、北庭は[[池泉鑑賞式庭園>池泉回遊式庭園]]。また小野小町ゆかりの寺としても知られ、小町作という「玉章[[地蔵尊>地蔵菩薩]](たまずさじぞうそん)」や「小町百歳像」が伝わる。拝観は要申込。
&sizex(5){&color(red){文化財}}
***国宝
東福寺三門 絹本著色無準師範像 無準師範墨蹟([[円爾>円爾弁円]]印可状) 禅院額字ならびに牌字 宋版太平御覧 宋刊本義楚六帖 龍吟庵方丈
***重要文化財(建造物)
禅堂(選仏場) 偃月橋 鐘楼 月下門(月華門) 東司 浴室 仁王門 六波羅門 十三重石塔 常楽庵(開山堂・昭堂) 三聖寺愛染堂 龍吟庵庫裏 龍吟庵表門
***重要文化財(美術工芸品)
木造僧形坐像 木造[[地蔵菩薩]]坐像 木造[[二天王>四天王]]立像 絹本著色五百羅漢図(伝[[明兆>吉山明兆]]筆) 絹本著色[[釈迦三尊>釈迦如来]]像 絹本著色[[聖一国師>円爾弁円]]像([[明兆>吉山明兆]]筆) 紙本淡彩達磨蝦蟇鉄拐像([[明兆>吉山明兆]]筆) 紙本著色四十祖像([[明兆>吉山明兆]]筆) 絹本墨画維摩居士像 紙本淡彩東福寺伽藍図(伝[[雪舟]]筆) 絹本著色[[藤原道家>藤原氏]]像 紙本墨画[[聖一国師>円爾弁円]]像(伝[[明兆>吉山明兆]]筆) 普門院方丈障壁画 絹本著色[[聖一国師>円爾弁円]]像 絹本著色[[聖一国師>円爾弁円]]像 絹本著色応菴和尚像 梵鐘 朱漆牡丹唐草文透彫卓 東福寺文書 紙本墨書[[聖一国師>円爾弁円]]度牒 紙本墨書[[聖一国師>円爾弁円]]戒牒 紙本墨書無準行状記 紙本支那禅刹図式(寺伝大宋諸山図) 紙本墨書参天台五台山記 宋刊本中庸説 宋刊本仏祖宗派総図 宋刊本圜悟禅師語録 宋刊本仏鑑禅師語録 宋刊本台宗十類因革論 宋刊本四明十義書 宋刊本山家義苑 宋刊本楞伽通義 宋刊本楞伽経 宋刊本四分律比丘尼鈔 宋刊本宗門統要集 紙本墨書元亨釈書 紙本墨書虎関師錬墨蹟 仏鑑禅師墨蹟 宗派図(絹本) 大宗派図 東寺天台大血脈図 東福寺条々 [[聖一国師>円爾弁円]]墨蹟 径山仏鑑禅師行状 普門院蔵書目録 東福寺所伝宋拓碑文 [[九条道家>藤原氏]]惣処分状 東福寺修正看経榜 円尓関係文書 宋版首楞厳経義海 木造[[大明国師>無関普門]]坐像(龍吟庵所蔵) 銅[[無関禅師>無関普門]]骨臓器及び石櫃(龍吟庵) 固山一鞏墨蹟(光明院所蔵) 絹本著色岐陽和尚像(霊雲院所蔵) 宋版仏法大明録(霊雲院所蔵) 宋版十諫書(霊雲院所蔵) 木造[[不動明王>明王]]坐像(同聚院所蔵) 絹本著色性海和尚像(退耕庵所蔵) 紙本墨書永明智覚寿禅師垂誠(退耕庵所蔵) 紙本墨書[[聖一国師>円爾弁円]]忌斎幹縁疏(退耕庵所蔵)
#blockquote(){※重要文化財の絵画、彫刻、工芸品、文書等の多くは本堂東側にある文化財収蔵施設「光明宝殿」に保管されているが一般公開はされていない。また、絵画等の一部は東京と京都の国立博物館に寄託されている。}
&sizex(5){&color(red){拝観情報}}
住所 京都市東山区本町15
電話番号 075-561-0087(東福寺)、075-541-8972(龍吟庵)、075-561-7317(光明院)、075-541-1761(芬陀院)
075-561-4080(霊雲院)、075-561-8821(同聚院)、075-525-3653(天得院)、075-561-0667(退耕庵)
拝観時間 東福寺 9:00~16:00(11月は8:30~16:30)
光明院 8:00~日没
芬陀院 9:00~17:00
霊雲院 9:00~17:00
同聚院 9:00~16:00
天得院 9:30~16:00(6月中旬~7月初旬と11月にのみ公開)
拝観料 境内自由、方丈拝観400円、通天橋拝観400円
光明院拝観は志納、芬陀院拝観300円、霊雲院300円、同聚院200円
アクセス JR奈良線「東福寺」下車徒歩5分
駐車場 駐車場あり(無料)
&sizex(5){&color(red){主な行事}}
&sizex(5){&color(red){その他}}
***京都検定出題
平成16年(2004)第1回京都検定2級出題
「寺院とその塔頭について誤っているものを選びなさい。 (ア)東福寺・光明院 (イ)建仁寺・両足院 (ウ)相国寺・玉鳳院 (エ)東寺・観智院」
平成17年(2005)第2回京都検定3級出題
「東福寺について誤っているものを選びなさい。 (ア)九条道家が九条家の菩提寺として創建。円爾弁円を開山に迎えた (イ)寺名は規模を東大寺、教行を興福寺にならって名づけられた (ウ)境内にある通天橋一帯は紅葉の名所として知られている (エ)武家の信仰が篤かったことから「東福寺の武家づら」といわれている」
平成17年(2005)第2回京都検定2級出題
「鎌倉前期の建築で、鎌倉幕府の六波羅探題の遺構と伝えられる六波羅門のある寺院はどこか。」
「華道や茶道に造詣が深く、昭和を代表する造園家である重森三玲が造った庭園はどれか。 (ア)金地院 鶴亀の庭 (イ)東福寺 八相の庭 (ウ)城南宮 平安の庭 (エ)本法寺 三巴の庭」
&sizex(5){&color(red){リンク}}
東福寺オフィシャル http://www.tofukuji.jp/
天得院オフィシャル http://www.tentokuin.jp/
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