「泉涌寺」(2008/10/06 (月) 11:18:05) の最新版変更点
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&sizex(6){&bold(){泉涌寺}}
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』ほか
&ref(sennyuji.jpg) &ref(sennyuji2.jpg) &ref(sennyuji3.jpg)
&sizex(5){&color(red){概略}}
&bold(){泉涌寺}(せんにゅうじ)は、京都市東山区泉涌寺山内町にある[[真言宗]]泉涌寺派総本山の寺院。山号は東山(とうざん)または泉山(せんざん)。本尊は[[釈迦如来]]、[[阿弥陀如来]]、[[弥勒如来]]の三世仏。平安時代の草創と伝えるが、実質的な開基(創立者)は鎌倉時代の月輪大師俊芿(がちりんだいししゅんじょう)である。東山三十六峰の南端にあたる月輪山の山麓に広がる寺域内には、鎌倉時代の後堀河天皇、四条天皇、江戸時代の後水尾天皇以下幕末に至る歴代天皇の陵墓があり、皇室の菩提寺として「御寺(みてら)」とも呼ばれている。
&sizex(5){&color(red){歴史}}
[[仁和寺]]、[[大覚寺]]などとともに皇室ゆかりの寺院として知られるが、草創の時期や事情についてはあまり明らかではない。伝承によれば、斉衡3年(856)、左大臣[[藤原緒嗣>藤原氏]](おつぐ)が、自らの山荘に神修上人を開山として草創。当初は法輪寺と称し、後に仙遊寺と改めたという。別の伝承は開創者を[[空海]]とする。すなわち、[[空海]]が天長年間(824~834)に、この地に草創した法輪寺が起源であり、斉衡2年(855)、[[藤原緒嗣>藤原氏]]によって再興され、仙遊寺と改めたとするものである。鎌倉時代の建保6年(1218)、源頼朝の家臣で豊前国守護の宇都宮信房が、荒廃していた仙遊寺を俊芿に寄進し、多くの人々の寄付を得てこの地に大伽藍を造営した。その際に霊泉が湧いたので、寺号を泉涌寺としたという。俊芿は肥後国(現熊本県)出身の学僧で、正治元年(1199)に宋へ渡り、足かけ13年の滞在で天台と律を学び、建暦元年(1211年)日本へ帰国する。彼は宋から多くの文物をもたらし、泉涌寺の伽藍はすべて宋風につくられることになった。2世の湛海も2度宋へと渡り、仏舎利をはじめ楊貴妃観音像や十六羅漢像のほか、多くの経典や仏画を持ち帰った。貞応3年・元仁元年(1224)には後堀河天皇により皇室の祈願寺と定められて皇室との結びつきが強まり、御堀河天皇の皇子、四条天皇の陵墓「月輪陵」が泉涌寺内に築かれた。江戸時代には後水尾天皇以後、幕末の孝明天皇までの歴代天皇が山内に葬られた。[[応仁の乱]]による焼失をはじめ、諸堂はたびたびの火災で焼失しており、現存の堂宇は近世以降の再建である。
&sizex(5){&color(red){伽藍}}
***大門
慶長年間(1596~1614)に造営された[[内裏>京都御所]]の四脚門を移築したもの。切妻造、本瓦葺。南宋の書家、張即之(ちょうそくし)の筆による山号「東山」の額が掲げられている。
***仏殿
寛文8年(1668)、[[徳川家綱>徳川氏]]の援助で再建したもの。一重裳階付の入母屋造、本瓦葺。正面中央に両開きの桟唐戸、左右両端に花頭窓がつく禅宗様の建物。本尊は過去・現在・来世を表わす[[釈迦如来]]、[[阿弥陀如来]]、[[弥勒如来]]を安置する。天井の雲龍図と本尊背後の白衣観音図は[[狩野探幽>狩野派]]の筆という。
***舎利殿
[[京都御所]]の清涼殿を移築し、正面は中央に桟唐戸、その両脇二間ずつは蔀、両端は花頭窓という禅宗様の建物へと大幅に改装された。二重屋根、本瓦葺。俊芿の弟子湛海が、建長7年(1255)に南宋慶元府の白蓮寺から請来したという仏牙舎利(釈尊の歯)と南宋時代の作という韋駄天像と伝月蓋長者像が安置されている。仏殿とともに、寛文8年(1668)に[[徳川家綱>徳川氏]]の援助で再建された。天井に描かれた雲龍図は[[狩野山雪>狩野派]]筆で、鳴き龍として名高い。通常非公開。
***霊明殿
明治17年(1884)の再建。入母屋、檜皮葺で外観は寝殿造風。天智天皇から昭和天皇に至る歴代天皇皇后の尊牌(位牌)を安置する。通常非公開。
***御座所・御座所庭園
安政2年(1855)に建立され、明治天皇が使用していた[[旧御所>京都御所]]の御里御殿を明治17年(1884)に移築したもの。玉座の間や皇族の間、勅使の間などの襖絵の多くは[[狩野派]]が手掛けている。庭園は元禄年間(1688~1704)に造られた[[池泉鑑賞式庭園>池泉回遊式庭園]]で、月輪陵の前庭も兼ねる。
***海会堂
御座所と同じく[[旧御所>京都御所]]から移築した建物で、歴代天皇と皇后の念持仏(守り本尊)を安置する。
***楊貴妃観音堂
本尊の[[聖観音]]像は中国・唐の玄宗皇帝が楊貴妃を偲んで彫らせたと伝えられる美しい仏像で、楊貴妃観音像と呼ばれている。建長7年(1255)に請来された。長い間100年に一度だけ公開するという秘仏であったが、請来から700年目の昭和30年(1955)から一般に公開されている。作風や材質など、明らかに日本の仏像とは異質で、寺伝どおり中国・南宋時代の作と考えられている。また脇侍として6躯の羅漢像を安置する。
***心照殿(宝物館)
平成16年(2004)に完成した泉涌寺が所蔵する宝物を保存・展示する施設。名称は俊芿の国師号「大円覚心照国師」から命名された。国宝に指定されている俊芿の「泉涌寺勧縁疏」をはじめ、歴代天皇の御尊影や遺品などが展示されている。
&sizex(5){&color(red){主な塔頭}}
***今熊野観音寺
恵美須神を祀る。天長年間(824~834)に[[空海]]が創建し、後白河上皇が熊野権現を勧請して、新那智山今熊野観音寺と称したという。本尊[[十一面観音]]像は[[空海]]が熊野権現の化身の老翁から授かったと伝わり、中風や頭痛平癒にご利益がある「頭の観音さん」として有名。[[西国三十三箇所]]観音霊場の第15番札所でもある。
***雲龍院
大黒天を祀る。応安5年(1372)後光巌天皇の勅願によって創建された。[[応仁の乱]]で焼失後、[[御所>京都御所]]の黒戸御殿を移築したが地震で倒壊。後水尾天皇より写経会に必要な仏具の寄付を受けて再興された。本尊は[[薬師如来]]像。庫裏に安置されている鎌倉時代作の大黒天像は左足を一歩踏み出した姿勢がユーモラスで、「走り大黒」と呼ばれている。
***戒光寺
弁財天を祀る。後堀河天皇の勅願寺として猪熊八条に創建され、正保2年(1645)に後水尾天皇の発願により泉涌寺の山内に移された。本尊の[[釈迦如来]]像は[[運慶>慶派]]と[[湛慶>慶派]]の合作で像高10mを誇る丈六仏。境内飛び地にある墓地には新選組を離脱した伊東甲子太郎ら御陵衛士の墓標がある。
***即成院
福禄寿神を祀る。[[藤原頼通>藤原氏]]の三男、橘俊綱の山荘内にあった阿弥陀堂を明治時代にこの地に移転させた。本堂には本尊の[[阿弥陀如来]]像と二十五菩薩像が並び、[[阿弥陀如来]]が来迎するさまをあらわしているという。境内には源平合戦での弓の名手として名高い、那須与一の墓と伝わる宝塔がある。
***来迎院
布袋尊を祀る。開祖は[[空海]]。[[応仁の乱]]で焼失するが、慶長2年(1597)に前田利家によって再建された。大石内蔵助が山科に隠棲した時に建てた茶室「含翠軒」や[[池泉回遊式庭園]]の「含翠庭」がある。現存する茶室は大正14年(1925)に再建されたもので、もともとのものは行方不明という。
***法音院
寿老人を祀る。嘉暦元年(1326)無人如導によって創建された。兵火により焼失したが、寛文4年~5年(1664~1665)に本多正貫夫妻が再建し菩提寺とした。本尊は[[不空羂索観音]]で、現在の本堂は英照皇太后(明治天皇の母)大葬の御須屋を賜ったもの。
***悲田院
[[毘沙門天>四天王]]を祀る。聖徳太子が四天王寺に建てた悲田院を起源とする。[[平安京]]にも病人や孤児の救済施設として東西の悲田院が建てられ、焼失再建の後、正保3年(1646)に泉涌寺山内に移転、復興された。本尊は[[阿弥陀如来]]。境内から京都市内が一望できる。宿坊としても利用可能。
***新善光寺
[[愛染明王>明王]]を祀る。後嵯峨天皇の勅願で一条大宮に建立されたものを[[応仁の乱]]後、この地へ再建されたと伝えられる。 本尊は信濃善光寺の本尊を模刻して造られた[[阿弥陀如来]]像。
***善能寺
本堂は航空機の事故により遭難した遺族により建立された。本尊は[[聖観音]]像。庭園は[[重森三玲]]の作庭。
&sizex(5){&color(red){文化財}}
***国宝
泉涌寺勧縁疏 附法状
***重要文化財(建造物)
大門 仏殿 無縫塔 開山塔及び開山堂 雲龍院本堂
***重要文化財(美術工芸品)
絹本着色道宣律師・元照律師像 絹本着色俊芿律師像 木造観音菩薩坐像(楊貴妃観音)及び木造韋駄天立像・木造伝月蓋長者立像 太刀 中御門天皇宸翰大円覚心照国師号勅書 法華経(雲龍院所蔵) 絹本著色後円融院宸翰(土佐光信筆、雲龍院所蔵) 木造[[釈迦如来]]立像(戒光寺所蔵) 木造浄業坐像(戒光寺所蔵) 木造[[阿弥陀如来]]及び二十五菩薩坐像(即成院所蔵) 木造荒神坐像(来迎院所蔵) 木造護法神立像(来迎院)
&sizex(5){&color(red){拝観情報}}
住所 京都市東山区泉涌寺山内町27
電話番号 075-561-1551(泉涌寺)、075-561-5511(今熊野観音寺)、075-541-3916(雲龍院)、075-561-5209(戒光寺)
075-561-3443(即成院)、075-561-8813(来迎院)、075-551-0961(法音院)、075-561-8781(非田院)、075-561-5109(新善光寺)
拝観時間 泉涌寺 9:00~16:30(12月~2月末は9:00~16:00)
今熊野観音寺 8:00~17:00
雲龍院 9:00~16:30
戒光寺 6:00~17:00
即成院 8:00~17:00
来迎院 9:00~17:00
法音院 9:00~16:30
悲田院 9:00~16:30
新善光寺 9:00~16:30
善能寺 9:00~16:30(12月~2月末は9:00~16:00)
拝観料 伽藍拝観500円、御殿拝観300円
雲龍院200円(写経と抹茶1,000円)、来迎院300円
アクセス 市バス「泉涌寺道」下車徒歩10分
駐車場 駐車場あり(無料)
&sizex(5){&color(red){主な行事}}
&sizex(5){&color(red){その他}}
***京都検定出題
平成16年(2004)第1回京都検定3級出題
「皇室とゆかりが深く、御寺と呼ばれ、皇室の香華院(菩提所)として知られている寺院はどこか。」
平成16年(2004)第1回京都検定2級出題
「泉涌寺の仏殿わきには百人一首で有名な「夜をこめて鳥のそらねははかるとも よに逢坂の関はゆるさじ」の歌碑が建っているが、この歌の作者は誰か。」
平成17年(2005)第2回京都検定2級出題
「泉涌寺は、皇室の香華院(菩提所)として知られるが、最初に御陵が造られた天皇は誰か。」
「仏像の通称について誤っているものを選びなさい。 (ア)証拠の阿弥陀と来迎院 (イ)楊貴妃観音と泉涌寺 (ウ)見返り阿弥陀と永観堂 (エ)泣き弥勒と広隆寺」
&sizex(5){&color(red){リンク}}
泉涌寺オフィシャル http://www.mitera.org/
今熊野観音寺オフィシャル http://www.kannon.jp/
即成院オフィシャル http://www.mitera.com/
----
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&sizex(6){&bold(){泉涌寺}}
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』ほか
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&sizex(5){&color(red){概略}}
&bold(){泉涌寺}(せんにゅうじ)は、京都市東山区泉涌寺山内町にある[[真言宗]]泉涌寺派総本山の寺院。山号は東山(とうざん)または泉山(せんざん)。本尊は[[釈迦如来]]、[[阿弥陀如来]]、[[弥勒如来]]の三世仏。平安時代の草創と伝えるが、実質的な開基(創立者)は鎌倉時代の月輪大師俊芿(がちりんだいししゅんじょう)である。東山三十六峰の南端にあたる月輪山の山麓に広がる寺域内には、鎌倉時代の後堀河天皇、四条天皇、江戸時代の後水尾天皇以下幕末に至る歴代天皇の陵墓があり、皇室の菩提寺として「御寺(みてら)」とも呼ばれている。
&sizex(5){&color(red){歴史}}
[[仁和寺]]、[[大覚寺]]などとともに皇室ゆかりの寺院として知られるが、草創の時期や事情についてはあまり明らかではない。伝承によれば、斉衡3年(856)、左大臣[[藤原緒嗣>藤原氏]](おつぐ)が、自らの山荘に神修上人を開山として草創。当初は法輪寺と称し、後に仙遊寺と改めたという。別の伝承は開創者を[[空海]]とする。すなわち、[[空海]]が天長年間(824~834)に、この地に草創した法輪寺が起源であり、斉衡2年(855)、[[藤原緒嗣>藤原氏]]によって再興され、仙遊寺と改めたとするものである。鎌倉時代の建保6年(1218)、源頼朝の家臣で豊前国守護の宇都宮信房が、荒廃していた仙遊寺を俊芿に寄進し、多くの人々の寄付を得てこの地に大伽藍を造営した。その際に霊泉が湧いたので、寺号を泉涌寺としたという。俊芿は肥後国(現熊本県)出身の学僧で、正治元年(1199)に宋へ渡り、足かけ13年の滞在で天台と律を学び、建暦元年(1211年)日本へ帰国する。彼は宋から多くの文物をもたらし、泉涌寺の伽藍はすべて宋風につくられることになった。2世の湛海も2度宋へと渡り、仏舎利をはじめ楊貴妃観音像や十六羅漢像のほか、多くの経典や仏画を持ち帰った。貞応3年・元仁元年(1224)には後堀河天皇により皇室の祈願寺と定められて皇室との結びつきが強まり、御堀河天皇の皇子、四条天皇の陵墓「月輪陵」が泉涌寺内に築かれた。江戸時代には後水尾天皇以後、幕末の孝明天皇までの歴代天皇が山内に葬られた。[[応仁の乱]]による焼失をはじめ、諸堂はたびたびの火災で焼失しており、現存の堂宇は近世以降の再建である。
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***大門
慶長年間(1596~1614)に造営された[[内裏>京都御所]]の四脚門を移築したもの。切妻造、本瓦葺。南宋の書家、張即之(ちょうそくし)の筆による山号「東山」の額が掲げられている。
***仏殿
寛文8年(1668)、[[徳川家綱>徳川氏]]の援助で再建したもの。一重裳階付の入母屋造、本瓦葺。正面中央に両開きの桟唐戸、左右両端に花頭窓がつく禅宗様の建物。本尊は過去・現在・来世を表わす[[釈迦如来]]、[[阿弥陀如来]]、[[弥勒如来]]を安置する。天井の雲龍図と本尊背後の白衣観音図は[[狩野探幽>狩野派]]の筆という。
***舎利殿
[[京都御所]]の清涼殿を移築し、正面は中央に桟唐戸、その両脇二間ずつは蔀、両端は花頭窓という禅宗様の建物へと大幅に改装された。二重屋根、本瓦葺。俊芿の弟子湛海が、建長7年(1255)に南宋慶元府の白蓮寺から請来したという仏牙舎利(釈尊の歯)と南宋時代の作という韋駄天像と伝月蓋長者像が安置されている。仏殿とともに、寛文8年(1668)に[[徳川家綱>徳川氏]]の援助で再建された。天井に描かれた雲龍図は[[狩野山雪>狩野派]]筆で、鳴き龍として名高い。通常非公開。
***霊明殿
明治17年(1884)の再建。入母屋、檜皮葺で外観は寝殿造風。天智天皇から昭和天皇に至る歴代天皇皇后の尊牌(位牌)を安置する。通常非公開。
***御座所・御座所庭園
安政2年(1855)に建立され、明治天皇が使用していた[[旧御所>京都御所]]の御里御殿を明治17年(1884)に移築したもの。玉座の間や皇族の間、勅使の間などの襖絵の多くは[[狩野派]]が手掛けている。庭園は元禄年間(1688~1704)に造られた[[池泉鑑賞式庭園>池泉回遊式庭園]]で、月輪陵の前庭も兼ねる。
***海会堂
御座所と同じく[[旧御所>京都御所]]から移築した建物で、歴代天皇と皇后の念持仏(守り本尊)を安置する。
***楊貴妃観音堂
本尊の[[聖観音]]像は中国・唐の玄宗皇帝が楊貴妃を偲んで彫らせたと伝えられる美しい仏像で、楊貴妃観音像と呼ばれている。建長7年(1255)に請来された。長い間100年に一度だけ公開するという秘仏であったが、請来から700年目の昭和30年(1955)から一般に公開されている。作風や材質など、明らかに日本の仏像とは異質で、寺伝どおり中国・南宋時代の作と考えられている。また脇侍として6躯の羅漢像を安置する。
***心照殿(宝物館)
平成16年(2004)に完成した泉涌寺が所蔵する宝物を保存・展示する施設。名称は俊芿の国師号「大円覚心照国師」から命名された。国宝に指定されている俊芿の「泉涌寺勧縁疏」をはじめ、歴代天皇の御尊影や遺品などが展示されている。
&sizex(5){&color(red){主な塔頭}}
***今熊野観音寺
恵美須神を祀る。天長年間(824~834)に[[空海]]が創建し、後白河上皇が熊野権現を勧請して、新那智山今熊野観音寺と称したという。本尊[[十一面観音]]像は[[空海]]が熊野権現の化身の老翁から授かったと伝わり、中風や頭痛平癒にご利益がある「頭の観音さん」として有名。[[西国三十三箇所]]観音霊場の第15番札所でもある。
***雲龍院
大黒天を祀る。応安5年(1372)後光巌天皇の勅願によって創建された。[[応仁の乱]]で焼失後、[[御所>京都御所]]の黒戸御殿を移築したが地震で倒壊。後水尾天皇より写経会に必要な仏具の寄付を受けて再興された。本尊は[[薬師如来]]像。庫裏に安置されている鎌倉時代作の大黒天像は左足を一歩踏み出した姿勢がユーモラスで、「走り大黒」と呼ばれている。
***戒光寺
弁財天を祀る。後堀河天皇の勅願寺として猪熊八条に創建され、正保2年(1645)に後水尾天皇の発願により泉涌寺の山内に移された。本尊の[[釈迦如来]]像は[[運慶>慶派]]と[[湛慶>慶派]]の合作で像高10mを誇る丈六仏。境内飛び地にある墓地には新選組を離脱した伊東甲子太郎ら御陵衛士の墓標がある。
***即成院
福禄寿神を祀る。[[藤原頼通>藤原氏]]の三男、橘俊綱の山荘内にあった阿弥陀堂を明治時代にこの地に移転させた。本堂には本尊の[[阿弥陀如来]]像と二十五菩薩像が並び、[[阿弥陀如来]]が来迎するさまをあらわしているという。境内には源平合戦での弓の名手として名高い、那須与一の墓と伝わる宝塔がある。
***来迎院
布袋尊を祀る。開祖は[[空海]]。[[応仁の乱]]で焼失するが、慶長2年(1597)に前田利家によって再建された。大石内蔵助が山科に隠棲した時に建てた茶室「含翠軒」や[[池泉回遊式庭園]]の「含翠庭」がある。現存する茶室は大正14年(1925)に再建されたもので、もともとのものは行方不明という。
***法音院
寿老人を祀る。嘉暦元年(1326)無人如導によって創建された。兵火により焼失したが、寛文4年~5年(1664~1665)に本多正貫夫妻が再建し菩提寺とした。本尊は[[不空羂索観音]]で、現在の本堂は英照皇太后(明治天皇の母)大葬の御須屋を賜ったもの。
***悲田院
[[毘沙門天>四天王]]を祀る。聖徳太子が四天王寺に建てた悲田院を起源とする。[[平安京]]にも病人や孤児の救済施設として東西の悲田院が建てられ、焼失再建の後、正保3年(1646)に泉涌寺山内に移転、復興された。本尊は[[阿弥陀如来]]。境内から京都市内が一望できる。宿坊としても利用可能。
***新善光寺
[[愛染明王>明王]]を祀る。後嵯峨天皇の勅願で一条大宮に建立されたものを[[応仁の乱]]後、この地へ再建されたと伝えられる。 本尊は信濃善光寺の本尊を模刻して造られた[[阿弥陀如来]]像。
***善能寺
本堂は航空機の事故により遭難した遺族により建立された。本尊は[[聖観音]]像。庭園は[[重森三玲]]の作庭。
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***国宝
泉涌寺勧縁疏 附法状
***重要文化財(建造物)
大門 仏殿 無縫塔 開山塔及び開山堂 雲龍院本堂
***重要文化財(美術工芸品)
絹本着色道宣律師・元照律師像 絹本着色俊芿律師像 木造観音菩薩坐像(楊貴妃観音)及び木造韋駄天立像・木造伝月蓋長者立像 太刀 中御門天皇宸翰大円覚心照国師号勅書 法華経(雲龍院所蔵) 絹本著色後円融院宸翰(土佐光信筆、雲龍院所蔵) 木造[[釈迦如来]]立像(戒光寺所蔵) 木造浄業坐像(戒光寺所蔵) 木造[[阿弥陀如来]]及び二十五菩薩坐像(即成院所蔵) 木造荒神坐像(来迎院所蔵) 木造護法神立像(来迎院)
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住所 京都市東山区泉涌寺山内町27
電話番号 075-561-1551(泉涌寺)、075-561-5511(今熊野観音寺)、075-541-3916(雲龍院)、075-561-5209(戒光寺)
075-561-3443(即成院)、075-561-8813(来迎院)、075-551-0961(法音院)、075-561-8781(非田院)、075-561-5109(新善光寺)
拝観時間 泉涌寺 9:00~16:30(12月~2月末は9:00~16:00)
今熊野観音寺 8:00~17:00
雲龍院 9:00~16:30
戒光寺 6:00~17:00
即成院 8:00~17:00
来迎院 9:00~17:00
法音院 9:00~16:30
悲田院 9:00~16:30
新善光寺 9:00~16:30
善能寺 9:00~16:30(12月~2月末は9:00~16:00)
拝観料 伽藍拝観500円、御殿拝観300円
雲龍院200円(写経と抹茶1,000円)、来迎院300円
アクセス 市バス「泉涌寺道」下車徒歩10分
駐車場 駐車場あり(無料)
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***京都検定出題
平成16年(2004)第1回京都検定3級出題
「皇室とゆかりが深く、御寺と呼ばれ、皇室の香華院(菩提所)として知られている寺院はどこか。」
平成16年(2004)第1回京都検定2級出題
「泉涌寺の仏殿わきには百人一首で有名な「夜をこめて鳥のそらねははかるとも よに逢坂の関はゆるさじ」の歌碑が建っているが、この歌の作者は誰か。」
平成17年(2005)第2回京都検定2級出題
「泉涌寺は、皇室の香華院(菩提所)として知られるが、最初に御陵が造られた天皇は誰か。」
「仏像の通称について誤っているものを選びなさい。 (ア)証拠の阿弥陀と来迎院 (イ)楊貴妃観音と泉涌寺 (ウ)見返り阿弥陀と永観堂 (エ)泣き弥勒と広隆寺」
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泉涌寺オフィシャル http://www.mitera.org/
今熊野観音寺オフィシャル http://www.kannon.jp/
即成院オフィシャル http://www.mitera.com/
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