「清凉寺」(2008/12/16 (火) 14:42:05) の最新版変更点
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&sizex(6){&bold(){清凉寺(嵯峨釈迦堂)}}
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&sizex(5){&color(red){概略}}
&bold(){清凉寺}(せいりょうじ)は、京都市右京区嵯峨にある[[浄土宗]]の寺院。山号を五台山(ごだいさん)と称する。開基(創立者)は奝然(ちょうねん)、開山(初代住職)はその弟子の盛算(じょうさん)である。本尊は[[釈迦如来]]。&bold(){嵯峨釈迦堂}(さがしゃかどう)の名でも知られ、中世以来[[融通念仏>融通念仏宗]]の道場としても知られている。宗派は初め華厳宗、後に[[浄土宗]]となる。
&sizex(5){&color(red){歴史}}
この寺の歴史には、[[阿弥陀如来]]を本尊とする棲霞寺(せいかじ)と、[[釈迦如来]]を本尊とする清凉寺というふたつの寺院が関係する。この地には嵯峨天皇の皇子、左大臣源融の別荘、栖霞観(せいかかん)があった。源融の一周忌に当たる寛平8年(896)に、融が生前に造立発願して果たせなかった[[阿弥陀三尊>阿弥陀如来]]像を子息が造り、これを安置した阿弥陀堂を棲霞寺と号した。棲霞寺草創から数十年後、宋に渡って五台山清凉寺で修行していた奝然(ちょうねん)という東大寺出身の僧が、宋への渡航中に台州の開元寺で、現地の仏師に命じて[[釈迦如来]]像を謹刻させた。その像は、古代優塡王(うてんおう)が釈迦の在世中に栴檀(せんだん)の木で造らせたという由緒を持つ霊像を模刻したもので、「インド~中国~日本」と伝来したことから「三国伝来の[[釈迦如来]]像」と呼ばれる。奝然は、永延元年(987)に帰国後、京都の愛宕山を中国の五台山に見立て、愛宕山麓にこの像を安置する寺を建立しようとした。しかし、その願いを達しないまま長和5年(1016)に没したため、彼の遺志を継いだ弟子の盛算が棲霞寺の境内に建立したのが清凉寺である。享禄3年(1530)に円誉が清凉寺に入り、初めて十二時の念仏を勤修してより[[浄土宗]]の寺となる。釈迦堂は、慶長7年(1602)に[[豊臣秀頼>豊臣氏]]によって寄進・造営されたが、その後、嵯峨の大火によって釈迦堂以下の伽藍は焼失し、また地震の被害もあって伽藍は荒廃する。のちに[[徳川綱吉>徳川氏]]の母である桂昌院の発願で伽藍の復興が行われた。元禄13年(1700)より、江戸に始まる各地への本尊の出開帳が始まる。[[釈迦如来]]像は篤い信仰を集め、清凉寺は「嵯峨の釈迦堂」と呼ばれて栄えた。一方、母体であった棲霞寺は次第に衰微したが、今に残る阿弥陀堂や[[阿弥陀三尊>阿弥陀如来]]像に、その名残りをとどめている。
&sizex(5){&color(red){伽藍}}
境内正面に釈迦堂があり、東側には阿弥陀堂と霊宝館、西側には嵯峨薬師寺がある。本堂への参道の西側には多宝塔と法隆寺夢殿を模した聖徳太子殿、狂言堂が、参道を挟んだ東側には、堂の正面に傅大士(ふだいし)父子像が安置された一切経蔵(輪蔵)と八宗論池、弁天堂がある。他に[[法然上人>法然]]求道青年像、源融と奝然の墓、嵯峨天皇と檀林皇后の宝塔、[[豊臣秀頼>豊臣氏]]首塚などが点在する。
***仁王門
安永6年(1777)の再建で、入母屋造、本瓦葺。上層内部には十六羅漢像を、下層の左右には金剛力士像を安置する。
***釈迦堂(本堂)
単層入母屋造、本瓦葺。正面・側面ともに七間の建築で、元禄14年(1701)の再建。本尊[[釈迦如来]]立像を江戸に出開帳して再建の資金が集められた。内陣奥の須弥壇には桂昌院の寄進という宮殿厨子を置き、本尊を安置している。本尊[[釈迦如来]]は縄目状の頭髪や同心円状の衣文の形式など、一見して日本の通例の仏像と異なる様式を示す。この様式を持つ像を「清凉寺式[[釈迦>釈迦如来]]像」と呼び、奈良・西大寺本尊像をはじめ全国に100躯近くの模像がある。また、像の体内からは、造像にまつわる資料や奝然の遺品など多くの納入品が発見され、これらも像とともに国宝に指定されている。納入品のうち「五臓六腑(絹製の内臓の模型)」は、医学史の史料としても注目される。奝然の遺品としては、生誕書付(臍の緒書き)や手形を捺した文書なども発見された。本尊は毎月8日に御開帳される。
***阿弥陀堂
本堂の東側にある、棲霞寺本尊の[[阿弥陀三尊>阿弥陀如来]]像を安置していた(現在は霊宝館に安置)。通例の阿弥陀堂とは逆に、本尊が西を向く形で配置されている。寛平7年(895)建立、文久3年(1863)再建。
***多宝塔
元禄13年(1700)に江戸護国寺での出開帳の際に寄進され、元禄16年(1703)に建立された。内部には多宝如来が安置されている。
***狂言堂
毎年4月中旬の土・日に嵯峨大念仏狂言が行われる。これは[[壬生寺]]の円覚上人が弘安2年(1279)に[[融通念仏>融通念仏宗]]を広めるために創始したものといわれ、狂言面と独特の衣装をつけ、素朴な楽器に合わせて念仏を唱えながら演じられる無言劇である。「土蜘蛛」「釈迦如来」「舟弁慶」などの演目が、土地の古老たちが組織する大念仏衆によって伝承されている。重要無形民俗文化財指定。
***霊宝館
棲霞寺の本尊[[阿弥陀三尊>阿弥陀如来]]像をはじめ、本堂[[釈迦如来]]の両脇侍である文殊菩薩騎獅像と帝釈天(伝普賢菩薩)騎象像、釈迦十大弟子像、[[四天王]]像、[[毘沙門天>四天王]]像などの平安期の像が安置されている。本尊[[釈迦如来]]像の体内に封入されていた絹製五臓六腑のレプリカも展示される(本物は本尊の体内に戻されている)。春と秋に公開。
***嵯峨薬師寺
清凉寺の境内に隣接する寺。小野篁(おののたかむら)作という生六道[[地蔵菩薩]]像は、伝説で語られる冥土からの出口の井戸があったという福正寺が明治時代に廃寺となり、明治13年(1880)に薬師寺と合併された際に移されたもの。毎年8月24日に行う地蔵盆は生六道[[地蔵菩薩]]のお祭として行われ、この日に限り本堂が一般公開される。
&sizex(5){&color(red){文化財}}
***国宝
木像[[釈迦如来]]立像及び像内納入品一切 木像[[阿弥陀如来]]及び両脇侍坐像 絹本著色十六羅漢像
***重要文化財(建造物)
なし
***重要文化財(美術工芸品)
木像文殊菩薩騎獅像 木像帝釈天(伝普賢菩薩)騎象像 木像十大弟子像 木像[[四天王]]立像 木像[[毘沙門天>四天王]]立像 木像[[地蔵菩薩]]立像 紙本著色[[融通念仏>融通念仏宗]]縁起 紙本著色釈迦堂縁起(伝[[狩野元信>狩野派]]筆) 源空・証空自筆消息
&sizex(5){&color(red){拝観情報}}
住所 京都市右京区嵯峨釈迦堂藤ノ木町46
電話番号 075-861-0343
拝観時間 9:00~16:00(4・5・10・11月は9:00~17:00)
拝観料 境内自由、本堂拝観400円(霊宝館は別途300円)
アクセス 市バス・京都バス「嵯峨釈迦堂前」下車徒歩2分
駐車場 駐車場あり(800円)
&sizex(5){&color(red){主な行事}}
&sizex(5){&color(red){その他}}
***京都検定出題
平成16年(2004)第1回京都検定2級出題
「室町時代に融通念仏の大道場として知られ、嵯峨釈迦堂とも呼ばれている寺院はどこか。」
平成17年(2005)第2回京都検定3級出題
「大念仏狂言の中で、台詞がはいるものはどれか。 (ア)壬生大念仏狂言 (イ)嵯峨大念仏狂言 (ウ)ゑんま堂大念仏狂言 (エ)神泉苑大念仏狂言」
平成17年(2005)第2回京都検定2級出題
「清凉寺の釈迦如来立像の胎内には、絹製の五臓六腑や経典などが収められていることで知られるが、当時宋から持ち帰ったのは誰か。」
平成17年(2005)第2回京都検定1級出題
「二尊院を東に進むと通称( )といわれている清凉寺がある(後略:)。」
&sizex(5){&color(red){リンク}}
嵯峨薬師寺オフィシャル http://yotsuba.saiin.net/~saga/yakusiji/
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&sizex(5){&color(red){概略}}
&bold(){清凉寺}(せいりょうじ)は、京都市右京区嵯峨にある[[浄土宗]]の寺院。山号を五台山(ごだいさん)と称する。開基(創立者)は奝然(ちょうねん)、開山(初代住職)はその弟子の盛算(じょうさん)である。本尊は[[釈迦如来]]。&bold(){嵯峨釈迦堂}(さがしゃかどう)の名でも知られ、中世以来[[融通念仏>融通念仏宗]]の道場としても知られている。宗派は初め華厳宗、後に[[浄土宗]]となる。
&sizex(5){&color(red){歴史}}
この寺の歴史には、[[阿弥陀如来]]を本尊とする棲霞寺(せいかじ)と、[[釈迦如来]]を本尊とする清凉寺というふたつの寺院が関係する。この地には嵯峨天皇の皇子、左大臣源融の別荘、栖霞観(せいかかん)があった。源融の一周忌に当たる寛平8年(896)に、融が生前に造立発願して果たせなかった[[阿弥陀三尊>阿弥陀如来]]像を子息が造り、これを安置した阿弥陀堂を棲霞寺と号した。棲霞寺草創から数十年後、宋に渡って五台山清凉寺で修行していた奝然(ちょうねん)という東大寺出身の僧が、宋への渡航中に台州の開元寺で、現地の仏師に命じて[[釈迦如来]]像を謹刻させた。その像は、古代優塡王(うてんおう)が釈迦の在世中に栴檀(せんだん)の木で造らせたという由緒を持つ霊像を模刻したもので、「インド~中国~日本」と伝来したことから「三国伝来の[[釈迦如来]]像」と呼ばれる。奝然は、永延元年(987)に帰国後、京都の愛宕山を中国の五台山に見立て、愛宕山麓にこの像を安置する寺を建立しようとした。しかし、その願いを達しないまま長和5年(1016)に没したため、彼の遺志を継いだ弟子の盛算が棲霞寺の境内に建立したのが清凉寺である。享禄3年(1530)に円誉が清凉寺に入り、初めて十二時の念仏を勤修してより[[浄土宗]]の寺となる。釈迦堂は、慶長7年(1602)に[[豊臣秀頼>豊臣氏]]によって寄進・造営されたが、その後、嵯峨の大火によって釈迦堂以下の伽藍は焼失し、また地震の被害もあって伽藍は荒廃する。のちに[[徳川綱吉>徳川氏]]の母である桂昌院の発願で伽藍の復興が行われた。元禄13年(1700)より、江戸に始まる各地への本尊の出開帳が始まる。[[釈迦如来]]像は篤い信仰を集め、清凉寺は「嵯峨の釈迦堂」と呼ばれて栄えた。一方、母体であった棲霞寺は次第に衰微したが、今に残る阿弥陀堂や[[阿弥陀三尊>阿弥陀如来]]像に、その名残りをとどめている。
&sizex(5){&color(red){伽藍}}
境内正面に釈迦堂があり、東側には阿弥陀堂と霊宝館、西側には嵯峨薬師寺がある。本堂への参道の西側には多宝塔と法隆寺夢殿を模した聖徳太子殿、狂言堂が、参道を挟んだ東側には、堂の正面に傅大士(ふだいし)父子像が安置された一切経蔵(輪蔵)と八宗論池、弁天堂がある。他に[[法然上人>法然]]求道青年像、源融と奝然の墓、嵯峨天皇と檀林皇后の宝塔、[[豊臣秀頼>豊臣氏]]首塚などが点在する。
***仁王門
安永6年(1777)の再建で、入母屋造、本瓦葺。上層内部には十六羅漢像を、下層の左右には金剛力士像を安置する。
***釈迦堂(本堂)
単層入母屋造、本瓦葺。正面・側面ともに七間の建築で、元禄14年(1701)の再建。本尊[[釈迦如来]]立像を江戸に出開帳して再建の資金が集められた。内陣奥の須弥壇には桂昌院の寄進という宮殿厨子を置き、本尊を安置している。本尊[[釈迦如来]]は縄目状の頭髪や同心円状の衣文の形式など、一見して日本の通例の仏像と異なる様式を示す。この様式を持つ像を「清凉寺式[[釈迦>釈迦如来]]像」と呼び、奈良・西大寺本尊像をはじめ全国に100躯近くの模像がある。また、像の体内からは、造像にまつわる資料や奝然の遺品など多くの納入品が発見され、これらも像とともに国宝に指定されている。納入品のうち「五臓六腑(絹製の内臓の模型)」は、医学史の史料としても注目される。奝然の遺品としては、生誕書付(臍の緒書き)や手形を捺した文書なども発見された。本尊は毎月8日に御開帳される。
***阿弥陀堂
本堂の東側にある、棲霞寺本尊の[[阿弥陀三尊>阿弥陀如来]]像を安置していた(現在は霊宝館に安置)。通例の阿弥陀堂とは逆に、本尊が西を向く形で配置されている。寛平7年(895)建立、文久3年(1863)再建。
***多宝塔
元禄13年(1700)に江戸護国寺での出開帳の際に寄進され、元禄16年(1703)に建立された。内部には多宝如来が安置されている。
***狂言堂
毎年4月中旬の土・日に嵯峨大念仏狂言が行われる。これは[[壬生寺]]の円覚上人が弘安2年(1279)に[[融通念仏>融通念仏宗]]を広めるために創始したものといわれ、狂言面と独特の衣装をつけ、素朴な楽器に合わせて念仏を唱えながら演じられる無言劇である。「土蜘蛛」「釈迦如来」「舟弁慶」などの演目が、土地の古老たちが組織する大念仏衆によって伝承されている。重要無形民俗文化財指定。
***霊宝館
棲霞寺の本尊[[阿弥陀三尊>阿弥陀如来]]像をはじめ、本堂[[釈迦如来]]の両脇侍である文殊菩薩騎獅像と帝釈天(伝普賢菩薩)騎象像、釈迦十大弟子像、[[四天王]]像、[[毘沙門天>四天王]]像などの平安期の像が安置されている。本尊[[釈迦如来]]像の体内に封入されていた絹製五臓六腑のレプリカも展示される(本物は本尊の体内に戻されている)。春と秋に公開。
***嵯峨薬師寺
清凉寺の境内に隣接する寺。小野篁(おののたかむら)作という生六道[[地蔵菩薩]]像は、伝説で語られる冥土からの出口の井戸があったという福正寺が明治時代に廃寺となり、明治13年(1880)に薬師寺と合併された際に移されたもの。毎年8月24日に行う地蔵盆は生六道[[地蔵菩薩]]のお祭として行われ、この日に限り本堂が一般公開される。
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***国宝
木像[[釈迦如来]]立像及び像内納入品一切 木像[[阿弥陀如来]]及び両脇侍坐像 絹本著色十六羅漢像
***重要文化財(建造物)
なし
***重要文化財(美術工芸品)
木像文殊菩薩騎獅像 木像帝釈天(伝普賢菩薩)騎象像 木像十大弟子像 木像[[四天王]]立像 木像[[毘沙門天>四天王]]立像 木像[[地蔵菩薩]]立像 紙本著色[[融通念仏>融通念仏宗]]縁起 紙本著色釈迦堂縁起(伝[[狩野元信>狩野派]]筆) 源空・証空自筆消息
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住所 京都市右京区嵯峨釈迦堂藤ノ木町46
電話番号 075-861-0343
拝観時間 9:00~16:00(4・5・10・11月は9:00~17:00)
拝観料 境内自由、本堂拝観400円(霊宝館は別途300円)
アクセス 市バス・京都バス「嵯峨釈迦堂前」下車徒歩2分
駐車場 駐車場あり(800円)
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&sizex(5){&color(red){その他}}
***京都検定出題
平成16年(2004)第1回京都検定2級出題
「室町時代に融通念仏の大道場として知られ、嵯峨釈迦堂とも呼ばれている寺院はどこか。」
平成17年(2005)第2回京都検定3級出題
「大念仏狂言の中で、台詞がはいるものはどれか。 (ア)壬生大念仏狂言 (イ)嵯峨大念仏狂言 (ウ)ゑんま堂大念仏狂言 (エ)神泉苑大念仏狂言」
平成17年(2005)第2回京都検定2級出題
「清凉寺の釈迦如来立像の胎内には、絹製の五臓六腑や経典などが収められていることで知られるが、当時宋から持ち帰ったのは誰か。」
平成17年(2005)第2回京都検定1級出題
「二尊院を東に進むと通称( )といわれている清凉寺がある(後略:)。」
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嵯峨薬師寺オフィシャル http://yotsuba.saiin.net/~saga/yakusiji/
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