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定朝


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定朝
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』ほか


概略
定朝 (じょうちょう)は平安時代後期に活躍した仏師。彫りが浅く、平行して流れる衣文や瞑想的な表情などの作風は「仏の本様」と称せられる。のちに「定朝様」として日本の彫刻の規範とされ、定朝の表現を踏襲した作例が多く造られた。?年~天喜5年(?~1057)

人物史
初めて寺院から独立した工房を構え、有力貴族や寺院の造像を行った康尚の子といわれる。藤原道長?の法成寺の造像に加わり、道長?の没後は子の頼通?のもとで活躍する。永承3年(1048)には興福寺中金堂・南円堂の復興造像を手掛け、天喜元年(1053)には平等院鳳凰堂の阿弥陀如来像を造像するなど、藤原氏?一族の造仏に従事した。万寿3年(1126)には後一条天皇の中宮威子の御産御祈の等身仏の造像を手掛ける。その際、統率下に20人の大仏師と各5人の小仏師が組織されていたことが記録に知られており、すでに充実した工房組織を持ち、大規模かつ大量な造像をこなしていたという。また、仏師の社会的地位を大きく向上させ、仏師としてはじめて僧綱位を得た(僧綱位は僧に与えられる位で、法橋・法眼・法印の順に高位となる。法成寺の造像賞として法橋、興福寺の復興で法眼に叙された)。京都七条に工房を持ったことから、工房は「七条佛所」とも呼ばれ、跡が七条東洞院に残る。墓所と伝えられている場所は二箇所あり、ひとつは大正9年(1920)に上品蓮台寺?に移転され、もうひとつは廬山寺?にある。

作風と代表的な作品
平等院鳳凰堂の阿弥陀如来坐像は定朝の代表作であり、現存する唯一の作品である。全体に穏やかさが漂う表現で顔は丸顔に温和な表情、肉付きの薄い扁平な胸、膝を広く低く安定感を持たせ、衣文線も流れる様に浅く平行に流すという、いわゆる「定朝様式」が見られる。また仏像の需要が急増したことに対応するため、流れ作業が可能な寄木造の技法を完成させて量産体制を確立し、一木造では不可能である大型の造像をも可能にした。

阿弥陀如来坐像  平等院所蔵  国宝


その他

リンク


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