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空海
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空海(弘法大師)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)、『うちのお寺は真言宗』(双葉社・1997)ほか
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)、『うちのお寺は真言宗』(双葉社・1997)ほか
概略
空海(くうかい)は、弘法大師(こうぼうだいし)の諡号で知られる日本真言宗?の開祖として著名な僧。書道家としても能筆で知られ、嵯峨天皇・橘逸勢と共に三筆のひとりに数えられる。俗名は佐伯真魚(さえきのまお)。宝亀5年~承和2年(774~835)
空海(くうかい)は、弘法大師(こうぼうだいし)の諡号で知られる日本真言宗?の開祖として著名な僧。書道家としても能筆で知られ、嵯峨天皇・橘逸勢と共に三筆のひとりに数えられる。俗名は佐伯真魚(さえきのまお)。宝亀5年~承和2年(774~835)
人物史
讃岐国(現香川県)の豪族・佐伯氏の子として生まれた。母親は阿刀氏の出身。15歳で桓武天皇の皇子、伊予親王の家庭教師であった母方の舅である阿刀大足について論語、孝経、史伝、文章等を学び、18歳で京の大学に入った。大学での勉学だけでは飽き足らず、20歳を過ぎた頃から山林での修行に入ったという。24歳で儒教・道教・仏教の比較思想論でもある『聾瞽指帰(ろうこしいき)』を著して俗世の教えが真実でないことを示し、正式に大学を辞した。これ以降、入唐までの空海の足取りは不明である。吉野の金峯山や四国の石鎚山などを中心に山林修行を重ねると共に、幅広く仏教思想を学んだという。空海の得度に関しては、延暦12年(793)に槇尾山寺で出家した、という説が古くからとなえられていたが、現在では延暦23年(804)、入唐直前の年に東大寺戒壇院で得度受戒したという説が有力視されている。また空海という名をいつから名乗っていたのかは定かではない。延暦23年(804)、正規の遣唐使の留学僧(期間20年の予定)として唐に渡る。空海が突然留学僧として浮上する過程は、今日なお謎を残している。遣唐使一行には橘逸勢やのちに天台宗?を開く最澄も含まれていた。唐で空海が師事したのは、まず醴泉寺の印度僧、般若三蔵。密教?を学ぶために必須の梵語を学んでいる。その後密教?の第七祖である青龍寺の恵果和尚を訪ね、以降約半年にわたって師事することになる。6月に大悲胎蔵の学法灌頂、7月に金剛界の灌頂を受ける。8月には伝法阿闍梨位の灌頂を受け、「この世の一切を遍く照らす最上の者」を意味する遍照金剛(へんじょうこんごう)の灌頂名を与えられた。この名は後世、空海を尊崇する真言として唱えられるようになる。
20年の留学の予定を2年で切り上げ、大同元年(806)、日本に帰国した空海は真言?密教?と密教?美術を体系的にもたらした最初の人物となった。帰国後、留学期間を切り上げたことが罪にあたるとされ、しばらくは入京の許可が得られず数年間大宰府に滞在することを余儀なくされたが、平城天皇が退位し嵯峨天皇が即位すると、許されて高雄山寺(現神護寺)の住職に就任。空海の入京には最澄の尽力・支援があったといわれている。その後二人は新しい時代の仏教を背負う者同士として友好的な交流を持ち、密教?の分野に限っては、むしろ最澄が空海に対して弟子としての礼を取った。やがて疎遠になり、弘仁7年(816)初頭を最後に訣別、同年7月には、嵯峨天皇から土地を賜り、弟子を派遣して高野山の開創に着手する。弘仁9年(818)11月、空海自身が勅許後はじめて高野山にのぼり翌年まで滞在した。弘仁10年(819)春には七里四方に結界を結び、伽藍建立をはじめる。弘仁12年(821)には、満濃池(現在の香川県にある日本最大の農業用溜め池)の改修を指揮して、アーチ型堤防など当時の最新工法を駆使し工事を成功に導く。弘仁14年(823)正月、嵯峨天皇に賜った東寺を密教?の根本道場と定め、寺名を教王護国寺と改めた。さらに日本最初の民間学校である綜芸種智院を開き、教育の機会均等を実現する。天長元年(824)には、勅命により神泉苑?で祈雨法を修した。承和2年(835)、高野山にて62歳で没。弘法大師の名は、その86年後、醍醐天皇から賜った諡号である。歴史上、天皇から下賜された大師号は全27名におよぶが、一般的に大師といえばほとんどの場合弘法大師を指す。空海を知らなくても「弘法さん」「お大師さん」を知る人は数多い。
讃岐国(現香川県)の豪族・佐伯氏の子として生まれた。母親は阿刀氏の出身。15歳で桓武天皇の皇子、伊予親王の家庭教師であった母方の舅である阿刀大足について論語、孝経、史伝、文章等を学び、18歳で京の大学に入った。大学での勉学だけでは飽き足らず、20歳を過ぎた頃から山林での修行に入ったという。24歳で儒教・道教・仏教の比較思想論でもある『聾瞽指帰(ろうこしいき)』を著して俗世の教えが真実でないことを示し、正式に大学を辞した。これ以降、入唐までの空海の足取りは不明である。吉野の金峯山や四国の石鎚山などを中心に山林修行を重ねると共に、幅広く仏教思想を学んだという。空海の得度に関しては、延暦12年(793)に槇尾山寺で出家した、という説が古くからとなえられていたが、現在では延暦23年(804)、入唐直前の年に東大寺戒壇院で得度受戒したという説が有力視されている。また空海という名をいつから名乗っていたのかは定かではない。延暦23年(804)、正規の遣唐使の留学僧(期間20年の予定)として唐に渡る。空海が突然留学僧として浮上する過程は、今日なお謎を残している。遣唐使一行には橘逸勢やのちに天台宗?を開く最澄も含まれていた。唐で空海が師事したのは、まず醴泉寺の印度僧、般若三蔵。密教?を学ぶために必須の梵語を学んでいる。その後密教?の第七祖である青龍寺の恵果和尚を訪ね、以降約半年にわたって師事することになる。6月に大悲胎蔵の学法灌頂、7月に金剛界の灌頂を受ける。8月には伝法阿闍梨位の灌頂を受け、「この世の一切を遍く照らす最上の者」を意味する遍照金剛(へんじょうこんごう)の灌頂名を与えられた。この名は後世、空海を尊崇する真言として唱えられるようになる。
20年の留学の予定を2年で切り上げ、大同元年(806)、日本に帰国した空海は真言?密教?と密教?美術を体系的にもたらした最初の人物となった。帰国後、留学期間を切り上げたことが罪にあたるとされ、しばらくは入京の許可が得られず数年間大宰府に滞在することを余儀なくされたが、平城天皇が退位し嵯峨天皇が即位すると、許されて高雄山寺(現神護寺)の住職に就任。空海の入京には最澄の尽力・支援があったといわれている。その後二人は新しい時代の仏教を背負う者同士として友好的な交流を持ち、密教?の分野に限っては、むしろ最澄が空海に対して弟子としての礼を取った。やがて疎遠になり、弘仁7年(816)初頭を最後に訣別、同年7月には、嵯峨天皇から土地を賜り、弟子を派遣して高野山の開創に着手する。弘仁9年(818)11月、空海自身が勅許後はじめて高野山にのぼり翌年まで滞在した。弘仁10年(819)春には七里四方に結界を結び、伽藍建立をはじめる。弘仁12年(821)には、満濃池(現在の香川県にある日本最大の農業用溜め池)の改修を指揮して、アーチ型堤防など当時の最新工法を駆使し工事を成功に導く。弘仁14年(823)正月、嵯峨天皇に賜った東寺を密教?の根本道場と定め、寺名を教王護国寺と改めた。さらに日本最初の民間学校である綜芸種智院を開き、教育の機会均等を実現する。天長元年(824)には、勅命により神泉苑?で祈雨法を修した。承和2年(835)、高野山にて62歳で没。弘法大師の名は、その86年後、醍醐天皇から賜った諡号である。歴史上、天皇から下賜された大師号は全27名におよぶが、一般的に大師といえばほとんどの場合弘法大師を指す。空海を知らなくても「弘法さん」「お大師さん」を知る人は数多い。
その他
弘法大師に関することわざ・慣用句略
「弘法にも筆の誤り」
天皇からの勅命を得、大内裏応天門の額を書くことになったが、「応」の一番上の点を書き忘れてしまった。大師は筆を投げつけて書き直しをされた。現在残っているこのことわざの意味は「たとえ大人物であっても、誰にでも間違いはあるもの」ということだけであるが、本来は「さすが大師、書き直し方さえも常人とは違う」というほめ言葉の意味も含まれている。
「弘法筆を選ばず」
文字を書くのが上手な人間は、筆の良し悪しを問わないということ。但し空海自身は、よい書を書くためにはその時々によって筆を使い分けるべきであると言ったと伝えられている。
「護摩の灰」
弘法大師が焚いた護摩の灰と称する灰を、ご利益があるといって売りつける、旅の詐欺師をいう。
天皇からの勅命を得、大内裏応天門の額を書くことになったが、「応」の一番上の点を書き忘れてしまった。大師は筆を投げつけて書き直しをされた。現在残っているこのことわざの意味は「たとえ大人物であっても、誰にでも間違いはあるもの」ということだけであるが、本来は「さすが大師、書き直し方さえも常人とは違う」というほめ言葉の意味も含まれている。
「弘法筆を選ばず」
文字を書くのが上手な人間は、筆の良し悪しを問わないということ。但し空海自身は、よい書を書くためにはその時々によって筆を使い分けるべきであると言ったと伝えられている。
「護摩の灰」
弘法大師が焚いた護摩の灰と称する灰を、ご利益があるといって売りつける、旅の詐欺師をいう。
京都検定出題
平成17年(2005)第2回京都検定2級出題
「平安時代の能書家として評判の高い三筆は、空海、嵯峨天皇と、もうひとりは誰か。」
「平安時代の能書家として評判の高い三筆は、空海、嵯峨天皇と、もうひとりは誰か。」
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