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最澄


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最澄(伝教大師)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)、『うちのお寺は天台宗』(双葉社・1997)ほか


概略
最澄 (さいちょう)は、 伝教大師 (でんぎょうだいし)の諡号で知られる日本天台宗?の開祖として著名な僧。俗名は三津首広野(みつのおびとひろの)。神護景雲元年~弘仁13年(767~822 ※天平神護2年(766)生説もあり)

人物史
近江国(現滋賀県)に生まれ、12歳で近江国分寺に入り出家。15歳で得度し、最澄と名付けられた。20歳からは比叡山に篭り、学問と修行に専念する日々を送る。延暦7年(788)、現在の延暦寺の根本中堂となる一乗止観院を設立。その後、桓武天皇に認められ、天皇の側に出仕して祈念や仏法を講じる内供奉(ないぐぶ)に就任。桓武天皇は国内での天台宗?の興隆を求めたが、最澄は経典の不備等を理由に延暦23年(804)に唐へ渡り、経典を入手するとともに密教?を学んだ。延暦25年(806)に日本天台宗?の開宗が正式に許可されるが、仏教者としての最澄が生涯かけて果たせなかった念願は、比叡山に大乗戒壇を設立することであった。すなわち、奈良の旧仏教から完全に独立して、延暦寺において独自に僧を養成することができるようにしようということである。最澄の説く天台?の思想は「一向大乗」すなわち、すべての者が菩薩であり、成仏(悟りを開く)することができるというもので、奈良の旧仏教の思想とは相容れなかった。当時の日本では僧の地位は国家資格であり、国家公認の僧となるための儀式を行う「戒壇」は日本に3箇所(奈良・東大寺、筑紫・観世音寺、下野・薬師寺)しか存在しなかったため、天台宗?が独自に僧の養成をすることはできなかったのである。最澄は自らの仏教理念を示した『山家学生式』(さんげがくしょうしき)の中で、比叡山で得度した者は12年間山を下りずに籠山修行に専念させ、修行の終わった者はその適性に応じて、比叡山で後進の指導に当たらせ、あるいは日本各地で仏教界のリーダーとして活動させたいと主張した。
正統密教?を受け継いだ空海が唐より帰国して以来、自分の密教?は不十分であると考えた最澄は、自身も空海に密教を学ぶことになる。空海との交流はしばらく続いたが、経典の貸出(「いつまでも経典を読むだけでは密教?は体得できない」と、空海が貸出を拒否)や弟子の心変わり(空海に預けた最澄の弟子が、空海の元に留まった)などをめぐってやがて関係は断絶した。弘仁13年(822)6月4日、比叡山の中道院で没。没後7日目、大乗戒壇設立は、弟子の光定と、藤原冬嗣?、良岑安世の斡旋により勅許が下った。貞観8年(866)、伝教大師の諡号が贈られた。

その他

リンク


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