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小堀遠州
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小堀遠州
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』ほか
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概略
小堀遠州(こぼりえんしゅう)は江戸時代の茶人で「綺麗さび」と呼ばれる遠州流茶道の祖。建築家、作庭家としても有名。号は宗甫、孤篷庵。天正7年~正保4年(1579~1647)
小堀遠州(こぼりえんしゅう)は江戸時代の茶人で「綺麗さび」と呼ばれる遠州流茶道の祖。建築家、作庭家としても有名。号は宗甫、孤篷庵。天正7年~正保4年(1579~1647)
人物史
近江国(現滋賀県)生まれ。幼名を作助、元服の後、正一(のち政一)と名乗る。近江国坂田郡小堀村(現長浜市)の土豪である父小堀新介正次はもと浅井長政の家臣であった。浅井家が滅亡した後、長浜城主となった羽柴秀吉に仕える。その後、正次は秀吉の弟秀長の家老となり、政一も共に大和郡山城に移ることになる。秀長の死後、正次は秀吉直参となって京都伏見に移り、この頃に古田織部?から茶道を学んだという。関ヶ原の戦いでは徳川家康に通じ、その功により備中松山城を賜って代官として松山(現岡山県高梁市)に赴く。慶長9年(1604)父の死後、政一はその遺領1万2千石を継いだ。その後徳川将軍家の茶道指南役となり、慶長13年(1608)に駿府城作事奉行をつとめ、その功により諸太夫従五位下遠江守に。これにより「遠州」と呼ばれる。また、後水尾天皇をはじめとする寛永文化サロンの中心人物となった遠州は、作事奉行として桂離宮?、仙洞御所?、二条城、名古屋城などの建築・造園にも才能を発揮した。伏見奉行屋敷にて69歳で没す。墓は伏見八科峠の仏国寺、江州上野の小堀家墓地にある。遠州の茶道は遠州流として続いている。
近江国(現滋賀県)生まれ。幼名を作助、元服の後、正一(のち政一)と名乗る。近江国坂田郡小堀村(現長浜市)の土豪である父小堀新介正次はもと浅井長政の家臣であった。浅井家が滅亡した後、長浜城主となった羽柴秀吉に仕える。その後、正次は秀吉の弟秀長の家老となり、政一も共に大和郡山城に移ることになる。秀長の死後、正次は秀吉直参となって京都伏見に移り、この頃に古田織部?から茶道を学んだという。関ヶ原の戦いでは徳川家康に通じ、その功により備中松山城を賜って代官として松山(現岡山県高梁市)に赴く。慶長9年(1604)父の死後、政一はその遺領1万2千石を継いだ。その後徳川将軍家の茶道指南役となり、慶長13年(1608)に駿府城作事奉行をつとめ、その功により諸太夫従五位下遠江守に。これにより「遠州」と呼ばれる。また、後水尾天皇をはじめとする寛永文化サロンの中心人物となった遠州は、作事奉行として桂離宮?、仙洞御所?、二条城、名古屋城などの建築・造園にも才能を発揮した。伏見奉行屋敷にて69歳で没す。墓は伏見八科峠の仏国寺、江州上野の小堀家墓地にある。遠州の茶道は遠州流として続いている。
作風と代表的な作品
書画、和歌にもすぐれた遠州は、王朝文化の理念と茶道を結びつけた宮廷風の雅の茶である、「綺麗さび」という幽玄・有心の茶道を完成させた。また遠州は作事奉行として、江戸幕府の命により数多くの作庭をこなしたが、現存するものは少ない。また遠州作と伝わるものも、大半は伝承の域を出ない。また建築家としても非凡な才能を発揮し、茶席などを設計した。
書画、和歌にもすぐれた遠州は、王朝文化の理念と茶道を結びつけた宮廷風の雅の茶である、「綺麗さび」という幽玄・有心の茶道を完成させた。また遠州は作事奉行として、江戸幕府の命により数多くの作庭をこなしたが、現存するものは少ない。また遠州作と伝わるものも、大半は伝承の域を出ない。また建築家としても非凡な才能を発揮し、茶席などを設計した。
その他
京都検定出題
平成16年(2004)第1回京都検定3級出題
「南禅寺の塔頭、金地院の「鶴亀の庭」の作者は誰といわれているか。」
「南禅寺の塔頭、金地院の「鶴亀の庭」の作者は誰といわれているか。」