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豊国神社


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豊国神社
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』、『京都府史蹟勝地調査会報告』5(京都府・1923)、村上訒一『日本の美術295 霊廟建築』(至文堂・1995)ほか


概略
豊国神社 (とよくにじんじゃ)は、京都市東山区茶屋町にある神社。俗に「ほうこくじんじゃ」「ほうこくさん」とも呼ばれる。祭神は豊臣秀吉(豊国大明神)。旧社格は別格官幣社。ご利益は立身出世、開運招福など。秀吉に関連のあった土地にも同名の神社がある(大阪城公園・滋賀県長浜市・名古屋市中村区など)。

歴史
慶長3年(1598)8月18日に豊臣秀吉が没すると、遺命により遺体は方広寺?の近くの阿弥陀ヶ峰山頂に葬られた。その麓に方広寺?の鎮守社として建立されたのに始まる。同年9月に起工し、翌年(1599)3月中旬に落成、4月16日に仮殿遷宮、18日には後陽成天皇から正一位の神階と豊国大明神の神号が贈られた。同日正遷宮の式が行われ、徳川家康豊臣秀頼の名代として社参。この正遷宮の式が行われた4月18日と豊臣秀吉の命日である8月18日には慶長20年(1615)まで毎年祭礼が盛大に行われたという。しかし慶長7年(1602)に豊国廟極楽門が徳川家康によって竹生島に運び去られたのをはじめ、豊国廟修理料1,000石のうち200石が智積院祈祷料とされるなど、衰退の兆候をみせていた。慶長20年(1615)年5月に勃発した大坂夏の陣で豊臣家が滅亡すると、豊国神社は幕府により神号が廃されて社領は没収、神体は方広寺?に移された。秀吉室の高台院の懇請により、社殿破却は免れたものの、内陣の釘を打ち付けて扉を閉ざし、朽ち果てるにまかせる処置となった。多くの文書・什器などは方広寺?智積院妙法院?高台寺吉田神社?に分散されたという。明治元年(1868)、明治天皇が大阪に行幸したとき、豊臣秀吉を尊皇の功臣であるとして豊国神社の再興を布告した。明治6年に新日吉神宮?の神楽殿を仮拝殿として再興され、明治9年(18765)には妙法院?より宝物が返却された。明治13年(1880)、方広寺大仏殿?の跡地に社殿が完成し、遷座が行われた。境内の石垣には方広寺大仏殿?建立の際に秀吉が諸大名に命じて集めさせた高さ2mを超える巨石が使われている。

建築物

唐門

桃山期の代表的建築物で、側面入母屋造、前後唐破風造、檜皮葺の絢爛豪華な四脚門。伏見城の遺構と伝わり、南禅寺金地院より移築されたもの。後陽成天皇宸筆「豊国大明神」の勅額がかかる。大徳寺西本願寺の唐門と併せて「三唐門」と呼ばれている。

宝物館

大正14年(1925)に開館。狩野内膳筆「豊国祭礼図屏風」、高台寺蒔絵を施した「蒔絵唐櫃」をはじめとした文書、武具、茶道具、什器類など、秀吉ゆかりの宝物約80点を常設展示している。

貞照神社

本殿南側にある摂社で、秀吉の正室高台院を祭神としている。大正14年(1925)の創建。

豊国廟

豊国神社から東に1kmほど離れた阿弥陀ヶ峰山頂 にある。新日吉神社?の横から参道がはじまり、約560段もの長い石段が続く。石段から先は有料(志納制)。石段を上りきると神門と高さ約10mの巨大な五輪塔がある。創建当時は約30万坪の敷地内に、本殿や舞殿、護摩堂、神宝殿などの殿舎が建ち並んでいたという。

文化財

国宝

唐門

重要文化財(建造物)

なし

重要文化財(美術工芸品)

紙本著色豊国祭礼図(狩野内膳筆) 薙刀直シ刀(無銘、伝粟田口吉光「骨喰」) 蒔絵唐櫃(桐唐草・桐鳳凰・桐薄) 鉄燈籠 黄地菊桐紋付紗綾胴服

史跡

方広寺?石塁及び石塔

拝観情報
住所 京都市東山区大和大路通正面茶屋町530
電話番号 075-561-3802
拝観時間 終日(宝物館9:00~17:00、受付終了16:30)
拝観料 境内自由、宝物館300円
アクセス 市バス「博物館三十三間堂前」下車徒歩3分
駐車場 無料駐車場あり

主な祭事

その他

リンク


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