京都観光データベース@ wiki内検索 / 「法金剛院」で検索した結果
-
ほ
...寺(てんりゅうじ) 法金剛院?(ほうこんごういん) 芳春院(ほうしゅんいん)→大徳寺(だいとくじ) 法然院?(ほうねんいん) 法輪寺?(ほうりんじ) 神社 豊国神社(ほうこくじんじゃ) 城・御所離宮 地名・園池 人物 法然?(ほうねん) 仏像 語句 -
十一面観音
...像 重要文化財 法金剛院?坐像 重要文化財 大報恩寺(千本釈迦堂)像 重要文化財 奈良・長谷寺本尊像 重要文化財 十一面観音巡礼 -
名勝・特別名勝
...ている。 法金剛院?青女滝・五位山 平安時代の庭園遺構で滝石組が完全に残る唯一のもの。 二条城二の丸庭園 桃山様式を代表する池泉回遊式庭園で、小堀遠州の作とされるが詳細は不明。 西本願寺大書院庭園 桃山様式や手法を伝える枯山水式庭園?で、近年の調査で江戸時代初期の作庭とされる。御影堂を借景にしている点が特徴で、大きな屋根を中国江西省にある廬山に見立てている。 西芳寺(苔寺)庭園 上段の枯山水庭園と下段の池泉回遊式庭園からなり、夢窓疎石が作庭した。枯山水庭園の石組には夢窓疎石が作庭した当時の面影が残っているとされる。黄金池の周囲は100種類以上の苔で埋め尽されているが、苔は当初からあったのではなく、江戸末期になって現在のような景観となった。 醍醐寺三宝院庭園 豊臣秀吉自らが設計したと伝わる雄大な池泉回遊式および池泉観... -
鹿王院
鹿王院 出典 京都府教育委員会編『鹿王院文書目録』(京都府教育委員会・1997)、鹿王院文書研究会編『鹿王院文書の研究』(思文閣出版・2000)、『国史大辞典』、『京都市の文化財 記念物』(京都市文化観光局文化部文化財・1992)ほか 概略 鹿王院(ろくおういん)は、京都市右京区嵯峨北堀町にある臨済宗?系の単立寺院。 山号は覚雄山、本尊は釈迦如来、開山(初代住職)は春屋妙葩、開基(創立者)は室町幕府3代将軍である足利義満。 歴史 鹿王院は、康暦2年(1380)に足利義満が建立した大福田宝幢寺の開山塔として創建されたことに始まる。開山の春屋妙葩は夢窓疎石の俗甥にあたり、貞和元年(1346)より天龍寺雲居庵の塔主となった。夢窓の没後、春屋妙葩は義堂周信とともに夢窓門下の中枢として天龍寺・臨川寺焼失後の復旧に尽力するなど活躍したが、応安2年(1369)に延暦寺衆... -
大日如来
大日如来 出典 フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』、佐和隆研著『仏像図典(増補版)』(吉川弘文館・1990) 概略 大日如来(だいにちにょらい)は両界曼荼羅の本尊で大乗仏教?における如来のひとつ。空海の開いた真言宗?において最高絶対的存在で、大毘盧遮那成仏神変加持経(大日経)の教主、毘盧遮那如来でもある。不動明王は大日如来の化身、あるいはその内証(内心の決意)を表現したものであるとみなされている。 名称 サンスクリット語のマハー・ヴァイローチャナ(Maha Vairocana)の音訳のまま摩訶毘盧遮那となった。その光明が遍く照らすところから遍照如来とも呼ばれ、その智慧の光は日神(ひのかみ)の威力をはるかに上まわるところから、その意をとって大日如来と呼ばれるのが一般的。「大日」という漢訳は、インドの密教僧の善無畏とその弟子の一行の案出。な... -
明王
明王(五大明王) 出典 フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』ほか 概略 明王(みょうおう)は仏を信じない民衆を力をもって導く慈悲の怒りに満ちた仏で、人間界と仏の世界を隔てる天界の中の、火生三昧という炎の世界に住むという。密教?から仏教に導入されたため、前身は古代インドにおけるヒンズー教の神々に見ることができる。五大明王(ごだいみょうおう)は、数多い明王の中でも中心的役割を担う五尊の明王のことで、不動明王・降三世明王・軍荼利明王・大威徳明王・金剛夜叉明王を指す。 名称 不動明王が火生三昧の中心に位置し、東を降三世明王、南を軍荼利明王、西を大威徳明王、北を金剛夜叉明王の四尊が守護する。この編成は真言宗?に伝承される密教?(東密)のものであり、天台宗?に伝承される密教?(台密)においては金剛夜叉明王の代わりに烏枢沙摩明王(うずさまみょうおう)が... -
慶派
慶派 出典 フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』、日本仏像史(2001・美術出版社)ほか 概略 慶派(けいは)は、平安末期から鎌倉時代に仏像彫刻史の新様式を打ち立てた仏師の一派。この派の祖である康慶は、定朝の系譜を継ぐ正系仏師の中の奈良仏師の傍流。名前に慶の字がつく者が多いことから慶派と呼ばれ、工房を京都七条に持ったことから、七条佛所ともいわれた。源頼朝に重用され、平氏の南都焼き討ちで焼失した興福寺や東大寺の復興作業を一手に担う。鎌倉政権が平氏や貴族たちと親密な関係にあった円派や院派などの仏師を敬遠したことに加え、従来の定朝様が形式に流れて迫力を失っていたこと、慶派のダイナミックな意匠が武家好みであり、新たな時代表現を感じさせたことなど、様々な条件が合致したことにより慶派一門の隆盛が始まることとなる。作品は躍動的造形を大胆に取り入れた男性的な表現を... -
四天王
四天王 出典 フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』、猪川和子編『日本の美術240 四天王』(至文堂・1986)、佐和隆研著『仏像図典(増補版)』(吉川弘文館・1990) 概略 四天王(してんのう)は須弥山の中腹、欲界の第六天の四方を守護する天部で、東方持国天、南方増長天、西方広日天、北方多聞天をいう。武器を手に甲胃をつけた武将形で、邪鬼を踏みつけるように立つ。日本において、多聞天のみが独尊像として造像安置される場合は毘沙門天と呼ぶのが通例で、民間信仰においては七福神のひとつにも数えられている。 名称 東方の持国天は「国を支える者=持国」という意味である「ダータラシュトラ」が和名となって提頭頼咤天(だいずらいた・Dhrtarastra)に、南方の増長天は「大きく育つ=増長」という意味である「ヴィルーダッカ」が毘楼勒叉天(びるろくしゃ・Vir... -
空海
空海(弘法大師) 出典 フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)、『うちのお寺は真言宗』(双葉社・1997)ほか 概略 空海(くうかい)は、弘法大師(こうぼうだいし)の諡号で知られる日本真言宗?の開祖として著名な僧。書道家としても能筆で知られ、嵯峨天皇・橘逸勢と共に三筆のひとりに数えられる。俗名は佐伯真魚(さえきのまお)。宝亀5年~承和2年(774~835) 人物史 讃岐国(現香川県)の豪族・佐伯氏の子として生まれた。母親は阿刀氏の出身。15歳で桓武天皇の皇子、伊予親王の家庭教師であった母方の舅である阿刀大足について論語、孝経、史伝、文章等を学び、18歳で京の大学に入った。大学での勉学だけでは飽き足らず、20歳を過ぎた頃から山林での修行に入ったという。24歳で儒教・道教・仏教の比較思想論でもある『聾瞽指帰(ろうこしいき)』を著して俗世の教えが真... -
西国三十三箇所
西国三十三箇所 出典 フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』ほか 概略 西国三十三箇所(さいごくさんじゅうさんかしょ)とは、和歌山県・奈良県・京都府・大阪府・兵庫県・滋賀県・岐阜県に跨る33ヵ所の観音霊場のこと。718年、長谷寺の開基、徳道上人によって始められたと伝えられる。その後一時廃れるが、永延2年(998)、花山法皇によって復興される。時代によって寺の出入りがあるものの、江戸時代に場所、順位が固定した。のち坂東三十三箇所、秩父三十四箇所が成立し、百箇所観音ができあがる。 三十三箇所一覧 No. 山号 山号の読み 寺院名 寺院名の読み 通称 所在地 1 那智山 なちさん 青岸渡寺 せいがんとじ 和歌山県東牟婁郡那智勝浦町 2 紀三井山 きみいさん 金剛宝寺 こんごうほうじ 紀三井寺 和歌山県和歌山市 3 風猛山 ふうもうさん 粉河寺 こかわ... -
智積院
智積院 出典 フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』、林田光禅編『智積院誌』(総本山智積院・1915)、村山正栄編『智積院史』(弘法大師遠忌事務局・1934)、京都市埋蔵文化センター編『総本山智積院境内祥雲寺客殿跡の発掘調査』(真言宗智山派総本山智積院・1995)、京都府教育庁文化財保護課編『京都府の近世社寺建築』(京都府教育委員会・1983)、『日本庭園史大系』14(社会思想社・1973)、『日本古寺美術全集』25(集英社・1981)ほか 概略 智積院(ちしゃくいん)は、京都市東山区東瓦町にある真言宗?智山派総本山の寺院。山号は五百仏頂山(いほぶっちょうさん)、本尊は大日如来、開基・開山は玄宥(げんゆう)である。川崎大師の通称で知られる平間寺や成田不動として知られる成田山新勝寺などを末寺に持つ。長谷川派による国宝の金碧障壁画を所蔵することで特に有名... -
毘沙門堂
出雲寺(毘沙門堂) 出典 村山修一著『比叡山史』(東京美術・1994)、『京都市の文化財 -建造物・文化財環境保全地区-』(京都市文化観光局・1992)ほか 概略 出雲寺(いずもじ)は、京都市山科区安朱稲荷山町にある天台宗?延暦寺派の寺院で天台五門跡?のひとつ。毘沙門天を本尊とすることから毘沙門堂(びしゃもんどう)という通称で親しまれている。山号は護法山、開基と開山は行基と伝わる。宸殿前にある樹齢百数十年のしだれ桜は特に有名。 歴史 文武天皇の御願による大宝3年(703)の創建と伝え、はじめ出雲路の地にあったとするが同時代史料にみえず、詳細は不明。一時廃絶し、建久6年(1195)に平親範が太秦にあった平等寺、五辻にあった尊重寺、伏見にあった護法寺の三ヵ寺を統合して平安京外東北の出雲路に寺院を建立したという。この三ヵ寺はいずれも桓武平氏ゆかりの寺院で、出雲路... -
龍安寺
龍安寺 出典 フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』、重森千靑著『京の庭』(ウェッジ・2003)ほか 概略 龍安寺(りょうあんじ)は、京都府京都市右京区にある臨済宗?妙心寺派の寺院。山号は大雲山。本尊は釈迦如来、開基(創立者)は細川勝元、開山(初代住職)は義天玄承である。古都京都の文化財の一部として世界遺産に登録されている。 歴史 龍安寺は、室町幕府の管領、守護大名で応仁の乱の東軍総帥でもあった細川勝元が宝徳2年(1450)に創建した禅寺である。衣笠山山麓に位置する龍安寺の所在地は、藤原北家?の流れを汲む徳大寺実能?以来、徳大寺?家の山荘であったところを、細川勝元が譲り受けたもの。初代住職として妙心寺第5世住持の義天玄承(玄詔)を迎えた。龍安寺の開山は実質的にはこの義天玄承とされているが、義天自身は2世に退き、自分の師の日峰宗舜を開山に立て... -
三十三間堂
蓮華王院(三十三間堂) 出典 フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』ほか 概略 蓮華王院(れんげおういん)は、京都市東山区にある寺院。本堂の内陣の柱間が三十三あるため、三十三間堂(さんじゅうさんげんどう)の通称で知られる。本尊は千手観音、開基(創立者)は後白河上皇。1,001躯の千手観音を安置する本堂は特に有名。現在は同じ東山区にある天台宗?の妙法院?が所有、管理している。 歴史 この地には後白河上皇の離宮、法住寺殿があった。広大な法住寺殿の一画に建てられたのが蓮華王院であり、上皇の勅願により平清盛が私財を投じて長寛2年(1164)に創建された。当時は五重塔などが建つ本格的な寺院だったが、建長元年(1249)の火災で焼失。辛うじて千手観音立像と二十八部衆像を救出したという。建長3年(1251)に後嵯峨上皇の勅願で再建が開始され、仏像の復興に... -
延暦寺
延暦寺 出典 フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』ほか 概略 延暦寺(えんりゃくじ)は、滋賀県大津市坂本本町にある天台宗?の本山寺院。山号は比叡山、本尊は薬師如来、開基(創立者)は最澄。標高848.3mの比叡山全域を境内とし、「延暦寺」とは比叡山の山上から東麓にかけた境内の東塔(とうどう)、西塔(さいとう)、横川(よかわ)の三塔と、東塔の北谷・東谷・南谷・西谷・無動寺谷、西塔の東谷・南谷・南尾谷・北尾谷・北谷、横川の香芳谷・解脱谷・戒心谷・都率谷・般若谷・飯室谷の十六谷に点在する堂塔の総称である。滋賀県側の山麓の坂本地区には本坊の滋賀院、「里坊」と呼ばれる子院群がある。日本仏教の代表的な聖地であり、古都京都の文化財の一部として世界遺産に登録されている。 歴史 比叡山は古代から山岳信仰の山であり、東麓にある日吉大社には、比叡山の地主神である... -
善峯寺
善峯寺 出典 フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』、井上光貞著『日本浄土教成立史の研究』(山川出版社・1956)、京都府教育庁文化財保護課編『京都府の近世社寺建築』(京都府教育委員会・1983)、『王朝の仏画と儀礼』(京都国立博物館・1998)ほか 概略 善峯寺(よしみねでら)は、京都市西京区大原野小塩町にある天台宗?系単立の善峯観音宗の寺院。山号は西山、本尊は千手観音、開基(創立者)・開山は恵心僧都の高弟、源算。西国三十三箇所観音霊場の第20番札所で、桜や紫陽花、紅葉の名所としても有名。 歴史 草創は寺伝によると天台宗?の僧、源算が長元3年(1030)に伽藍を建立した(長元2年(1029)とも)のが始まりという。源算は因幡国(現鳥取県)の人で、出家して比叡山で授戒した。源算が比叡山を降り、西山に道場を建立しようとしたところ、霊夢に助成の... -
清凉寺
清凉寺(嵯峨釈迦堂) 出典 フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』ほか 概略 清凉寺(せいりょうじ)は、京都市右京区嵯峨にある浄土宗?の寺院。山号を五台山(ごだいさん)と称する。開基(創立者)は奝然(ちょうねん)、開山(初代住職)はその弟子の盛算(じょうさん)である。本尊は釈迦如来。嵯峨釈迦堂(さがしゃかどう)の名でも知られ、中世以来融通念仏?の道場としても知られている。宗派は初め華厳宗、後に浄土宗?となる。 歴史 この寺の歴史には、阿弥陀如来を本尊とする棲霞寺(せいかじ)と、釈迦如来を本尊とする清凉寺というふたつの寺院が関係する。この地には嵯峨天皇の皇子、左大臣源融の別荘、栖霞観(せいかかん)があった。源融の一周忌に当たる寛平8年(896)に、融が生前に造立発願して果たせなかった阿弥陀三尊像を子息が造り、これを安置した阿弥陀堂を棲霞寺と号... -
神護寺
神護寺 出典 フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』ほか 概略 神護寺(じんごじ)は、京都市右京区高雄にある高野山真言宗?別格本山の寺院。山号を高雄山と号する。本尊は薬師如来、開基は和気清麻呂である。京都市街の北西、 愛宕山(924m)山系の高雄山の中腹に位置する山岳寺院で、清滝川に架かる高雄橋から長い参道を歩いた先の山中に金堂、多宝塔、大師堂などの堂宇が建つ。空海が教王護国寺(東寺)や高野山の経営に当たる前に一時住した寺であり、最澄もここで法華経の講義をしたことがある。秋には6万坪の山内全域が錦秋に彩られ、紅葉の名所として特に著名。高雄(高尾)の神護寺、槇尾の西明寺、栂尾の高山寺を合わせ「三尾」とも呼ばれる。 歴史 神護寺は「神願寺」と「高雄山寺」というふたつの寺院が天長元年(824)に合併してできた寺である。神願寺は、和気清麻呂により... -
東寺
教王護国寺(東寺) 出典 フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』ほか 概略 教王護国寺(きょうおうごこくじ)は、京都市南区九条町にある真言宗?の寺院。一般には通称の東寺(とうじ)で知られる。山号は八幡山、本尊は薬師如来。2万3000点にのぼる寺宝を所有する屈指の大寺院。古都京都の文化財の一部として世界遺産に登録されている。 歴史 8世紀末、平安京?の正門にあたる羅城門の東西に「東寺」と「西寺」(さいじ)という2つの寺院の建立が計画された。これら2つの寺院は、それぞれ平安京の左京と右京を守る王城鎮護の寺、さらには東国と西国とを守る国家鎮護の寺という意味合いを持った官立寺院であった。このうち東寺は後に空海(弘法大師)に下賜され、真言?密教?の根本道場として栄えた。弘法大師に対する信仰の高まりとともに「お大師様の寺」として庶民の信仰を集めるように... -
大覚寺
大覚寺 出典 フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』、大覚寺史資料編纂室『大覚寺文書』上・下(大覚寺・1980)、中村直勝監修『大覚寺』(主婦の友社・1975)、『日本古寺美術全集』14(集英社・1982)、『日本美術絵画全集』12(集英社・1981)ほか 概略 大覚寺(だいかくじ)は、京都市右京区嵯峨大沢町にある真言宗?大覚寺派の大本山の寺院。山号は嵯峨山、本尊は不動明王を中心とした五大明王、開基(創立者)は嵯峨天皇、開山(初代住職)は淳和天皇の第2皇子恒寂入道親王である。嵯峨天皇の離宮を寺に改めた皇室ゆかりの門跡?寺院で、後宇多法皇が院政を行ったため嵯峨御所とも称された。嵯峨天皇に始まるという華道の嵯峨御流を今に伝える。 歴史 空海、橘逸勢と並んで三筆に数えられた嵯峨天皇の離宮であった嵯峨院に、嵯峨天皇の信任を得ていた空海が五大明王を安... -
大徳寺
大徳寺 出典 フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』ほか 概略 大徳寺(だいとくじ)は、京都市北区紫野にある臨済宗?大徳寺派大本山の寺院。山号を龍宝山と称する。本尊は釈迦如来、開基(創立者)は宗峰妙超(しゅうほうみょうちょう)。茶の湯の文化と縁が深いことから「大徳寺の茶づら」とも呼ばれた。境内には仏殿、法堂をはじめとする中心伽藍のほか、20ヵ寺を超える塔頭寺院が建ち並び、建造物、庭園、障壁画、茶道具、書画など多くの文化財を今に伝えている。 歴史 開祖である宗峰妙超は、鎌倉の高峰顕日(こうほうけんにち)や京の南浦紹明?(なんぽじょうみん)に参禅し、徳治2年(1307)には師から印可を得る。播磨国(現兵庫県)守護・赤松氏の家臣である浦上(うらのえ)家の出身であった縁で、正和4年(1315)、赤松則村(円心)の帰依を受け(元応元年=1319説も)... -
醍醐寺
醍醐寺 出典 フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』ほか 概略 醍醐寺(だいごじ)は、京都市伏見区醍醐にある真言宗?醍醐派総本山の寺院。山号を醍醐山(深雪山とも)と称する。本尊は薬師如来、開基(創立者)は理源大師聖宝(しょうぼう)。伏見区東方に広がる醍醐山(笠取山)に200万坪以上の広大な境内をもち、伽藍は山上の上醍醐と山麓の下醍醐にわかれて建ち並んでいる。寺宝10余万点、うち国宝・重要文化財107件約4万点を所有する屈指の大寺院。古都京都の文化財の一部として世界遺産に登録されている。 歴史 寺伝によると、創建は貞観16年(874)、空海の孫弟子にあたる理源大師聖宝が霊感を得て笠取山に登り、准胝観音?並びに如意輪観音を造って祀ったのが最初という。聖宝は同山頂付近を「醍醐山」と名付けた。延喜7年(907)には醍醐天皇の御願寺となって飛躍的に発... - @wiki全体から「法金剛院」で調べる