京都観光データベース@ wiki内検索 / 「融通念仏宗」で検索した結果
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や行
...い) 語句 融通念仏宗?(ゆうずうねんぶつしゅう) -
声明
...られるようになった。融通念仏宗?、浄土宗?、浄土真宗?の声明は、天台?声明の系統である。 真言声明 真言?声明は空海が伝えたものが基礎となり、現在に至っている。 声明が体系化されてきたのは真雅以降である。寛朝はなかでも中興の祖と呼ばれ、声明の作曲・整備につとめた。鎌倉時代までは多くの流派があったが、覚性法親王により四派(本相応院流・新相応院流・醍醐流・中川大進流)にまとめられた。しかし古義真言宗?の声明は江戸時代にかけて衰微・廃絶し、本相応院流・新相応院流・醍醐流は明治中期ごろまでには廃絶した。現在では、智山声明(智積院)、豊山声明(長谷寺)、南山進流(高野山と京都の古義真言宗?寺院)に分別される。 比叡山延暦寺の声明 -
阿弥陀如来
...土宗?や浄土真宗?、融通念仏宗?、時宗?などの浄土教諸宗派が成立するに至った。日本の遺例の場合、阿弥陀如来の像容は立像・坐像とも、白鳳から天平時代では浄土変相図の請来や制作が流行し、印相は釈迦仏のそれと変らない右手施無畏印・左手施願印か、極楽で説法するのを象った転法輪印(説法相)であることが多い。 日本における造像例 阿弥陀如来の信仰を主題とする経典『無量寿経』によると、阿弥陀仏はむかし世自在王仏の時、悟りを得ようと志し、衆生救済のための本願(四十八願)を立て、修行を重ねて仏と成り、阿弥陀仏と呼ばれた。この仏は西方極楽浄土について説法しており、衆生は念仏などによって浄土へ往生することができる、と説いている。その信仰はインド・中央アジア・チベット・中国・日本の仏教において広まった。末法思想?にともなう浄土教?の隆盛により、平安中期以降、急激に阿弥陀如来像の作例は増加する。その... -
清凉寺
清凉寺(嵯峨釈迦堂) 出典 フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』ほか 概略 清凉寺(せいりょうじ)は、京都市右京区嵯峨にある浄土宗?の寺院。山号を五台山(ごだいさん)と称する。開基(創立者)は奝然(ちょうねん)、開山(初代住職)はその弟子の盛算(じょうさん)である。本尊は釈迦如来。嵯峨釈迦堂(さがしゃかどう)の名でも知られ、中世以来融通念仏?の道場としても知られている。宗派は初め華厳宗、後に浄土宗?となる。 歴史 この寺の歴史には、阿弥陀如来を本尊とする棲霞寺(せいかじ)と、釈迦如来を本尊とする清凉寺というふたつの寺院が関係する。この地には嵯峨天皇の皇子、左大臣源融の別荘、栖霞観(せいかかん)があった。源融の一周忌に当たる寛平8年(896)に、融が生前に造立発願して果たせなかった阿弥陀三尊像を子息が造り、これを安置した阿弥陀堂を棲霞寺と号... -
永観堂
禅林寺(永観堂) 出典 フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』ほか 概略 禅林寺(ぜんりんじ)は、京都市左京区永観堂町にある浄土宗?西山禅林寺派総本山の寺院。一般には通称の永観堂(えいかんどう)の名で知られる。山号を聖衆来迎山(しょうじゅらいごうさん)、院号を無量寿院と称する。本尊は阿弥陀如来、開基(創立者)は、空海の高弟の真紹僧都(しんじょうそうず)。古くより「秋はもみじの永観堂」と謳われた紅葉の名所である。 歴史 空海の高弟である真紹僧都が、都における実践道場の建立を志し、五智如来を本尊とする寺院を建立したのが起源とされる。真紹は仁寿3年(853)、歌人・文人であった故・藤原関雄?の邸宅跡を買い取り、ここを寺院とすることにした。10年後の貞観5年(863)、当時の清和天皇より定額寺としての勅許と「禅林寺」の寺号を賜わって公認の寺院となっ... -
三千院
三千院 出典 フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』ほか 概略 三千院(さんぜんいん)は、京都市左京区大原?にある天台宗?の門跡?寺院。円融房、梨本門跡、梶井門跡などとも称する。青蓮院、妙法院?、曼殊院?、毘沙門堂とともに、天台五門跡?のひとつに数えられている。山号は魚山(ぎょざん)、本尊は薬師如来、開基は最澄。境内の往生極楽院は元来別の寺院で12世紀から大原?の地にあったもの。明治4年(1871)に三千院の本坊が移転した際に、その境内に取り込まれた。 歴史 三千院は天台五門跡?の中でも最も歴史が古く、最澄が延暦7年(788)に延暦寺を開いた時に、東塔南谷に「円融房」を開創したのがその起源という。円融房のそばに大きな梨の木があったため、後に「梨本門跡」の別称が生まれた。当時、比叡山内の寺院の多くは、山麓の平地に「里坊」と呼ばれる拠点をもって... -
延暦寺
延暦寺 出典 フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』ほか 概略 延暦寺(えんりゃくじ)は、滋賀県大津市坂本本町にある天台宗?の本山寺院。山号は比叡山、本尊は薬師如来、開基(創立者)は最澄。標高848.3mの比叡山全域を境内とし、「延暦寺」とは比叡山の山上から東麓にかけた境内の東塔(とうどう)、西塔(さいとう)、横川(よかわ)の三塔と、東塔の北谷・東谷・南谷・西谷・無動寺谷、西塔の東谷・南谷・南尾谷・北尾谷・北谷、横川の香芳谷・解脱谷・戒心谷・都率谷・般若谷・飯室谷の十六谷に点在する堂塔の総称である。滋賀県側の山麓の坂本地区には本坊の滋賀院、「里坊」と呼ばれる子院群がある。日本仏教の代表的な聖地であり、古都京都の文化財の一部として世界遺産に登録されている。 歴史 比叡山は古代から山岳信仰の山であり、東麓にある日吉大社には、比叡山の地主神である... -
恵心僧都
恵心僧都(源信) 出典 フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)ほか 概略 源信(げんしん)は平安時代中期の天台宗?の僧で、延暦寺の横川(よかわ)にある恵心院で修行したため、恵心僧都(えしんそうず)、横川僧都(よかわそうず)とも呼ばれる。浄土真宗?が言うところの七高僧の一人で、鎌倉時代の浄土教?や民衆仏教に大きな影響を与えた。源信の作と伝わる仏像も数多い。天慶5年~寛仁元年(942~1017) 人物史 大和国(現奈良県)当麻生まれ。父は卜部氏、母は清原氏。父の死後、信仰心の篤い母の影響により9歳で延暦寺中興の祖である良源(元三大師)の門に入り、止観業、遮那業を学ぶ。学識豊かな論議の名手として知られ、15歳のとき、村上天皇により法華八講の講師のひとりに選ばれたが、母の教えに従って人目に立つことを避け、比叡山横川の恵心院に籠もる。その後は学問と念仏... -
祇王寺
祇王寺 出典 『日本歴史地名大系』27(平凡社・1979)ほか 概略 祇王寺(ぎおうじ)は京都市右京区嵯峨鳥居本小坂町にある真言宗?大覚寺派の寺院。山号は高松山、本尊は大日如来。法然?の弟子、念仏房良鎮の建てた往生院の跡といい、明治期に白拍子祇王ゆかりの寺として再興された。晩秋の境内を埋め尽くす散り紅葉が美しい。 歴史 嵯峨野にある小倉山の東麓、竹林に囲まれた一画に建つ。境内は法然?の弟子の念仏房の創立と伝える往生院跡にあたるが、中世以降荒廃していた。明治28年(1895)に『平家物語』『源平盛衰記』の遺跡として往生院祇王寺と名付け、尼寺として復興。当時の府知事であった北垣國道が、祇王を偲んで嵯峨の別荘にあった茶室(庵)を寄進し、これを本堂にして現在の祇王寺がつくられた。『平家物語』巻1によると、白拍子祇王は平清盛の寵愛を受けたが、加賀の白拍子仏御前に寵愛... -
あ
寺院 化野念仏寺?(あだしのねんぶつじ) 神社 愛宕神社?(あたごじんじゃ) 城・御所離宮 地名・園池 嵐山(あらしやま) 人物 足利氏(あしかがし) 仏像 阿弥陀如来(あみだにょらい) 語句 葵祭?(あおいまつり) -
真如堂
真正極楽寺(真如堂) 出典 赤松俊秀『京都寺史考』(法蔵館・1972)、京都府教育庁文化財保護課編『京都府の近世社寺建築』(京都府教育委員会・1983)、『日本古寺美術全集』25(集英社・1981)ほか 概略 真正極楽寺(しんしょうごくらくじ)は、京都市左京区浄土寺真如町にある天台宗?の寺院で通称真如堂(しんにょどう)と呼ばれる。寺名は正真正銘の極楽の寺という意味で、真如堂はもともと本堂の呼び名であったという。山号は鈴聲山(れいしょうざん)、本尊は阿弥陀如来、開基(創立者)は戒算である。不断念仏の道場として念仏行者や庶民、特に女性の信仰を得てきた。紅葉の名所としても有名。 歴史 『真如堂縁起』によれば、永観2年(984)に一条天皇の母である東三条院(藤原詮子?)の御願により、延暦寺常行堂にあった阿弥陀如来像を神楽岡の東にあった女院離宮に移し、正暦3年(99... -
高山寺
高山寺 出典 フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』ほか 概略 高山寺(こうざんじ)は、京都市右京区梅ヶ畑栂尾(とがのお)町にある寺院。山号は栂尾山。本尊は釈迦如来、宗派は真言宗?御室派系の単立である。創建は奈良時代と伝えるが、実質的な開基(創立者)は、鎌倉時代の明恵上人である。高雄(高尾)の神護寺、槇尾の西明寺、栂尾の高山寺を合わせ「三尾」とも呼ばれる。国宝7件、重要文化財50件を所有し、指定を受けている典籍の総数は1万点を超える。古都京都の文化財の一部として世界遺産に登録されている。 歴史 高山寺のある栂尾は、紅葉の名所として知られる高雄山神護寺からさらに奥に入った山中に位置し、古代より山岳修行の適地として、小寺院が営まれていたようである。平安時代には、近隣の神護寺の別院とされ、「神護寺十無尽院(じゅうむじんいん)」と称されていた。これ... -
知恩院
知恩院 出典 フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』ほか 概略 知恩院(ちおんいん)は、京都市東山区にある浄土宗?総本山の寺院。山号は華頂山。本尊は阿弥陀如来、開基(創立者)は法然?。浄土宗?の宗祖・法然?が後半生を過ごし、没した地に建てられた。東山三十六峰のひとつ、華頂山の麓の約7万3000坪におよぶ広大な寺域に、13ヵ寺の塔頭寺院を含めて大小100棟以上の堂宇が建ち並ぶ大寺院である。 歴史 知恩院は、浄土宗?の宗祖・法然房源空?が結んだ草庵をその起源とする。法然?は比叡山でも奥深い山中にある西塔黒谷の叡空に師事し、源光と叡空の名前の1字ずつを取って法然坊源空?と改名した。承安5年(1175)、43歳の時、唐時代の高僧・善導の著作『観経疏』を読んで「専修念仏」の思想に開眼し、浄土宗?の開宗を決意して山を下り、現在の知恩院勢至堂付近に草庵を... -
金戒光明寺
金戒光明寺 出典 フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』ほか 概略 金戒光明寺(こんかいこうみょうじ)は、京都市左京区黒谷町にある黒谷浄土宗?の寺院。山号は紫雲山、本尊は阿弥陀如来、開基(創立者)は法然?。知恩院・清浄華院?・百万遍知恩寺?とともに浄土宗?大本山のひとつとして高い格式を誇り、「黒谷(くろだに)さん」の俗称でも知られる。幕末には会津藩主松平容保が京都守護職の本陣を置いて家臣と共に駐屯した。 歴史 寺伝によれば、承安5年(1175)に法然?が比叡山の黒谷を下り、草庵を結んだのがこの寺の始まりであるとされる。草庵の地はもと延暦寺の寺領であり、この地にあった白河禅房を法然?が師より譲りうけて念仏道場とした。なお比叡山の黒谷(元黒谷)に対して新黒谷と呼ばれたが、現在は新黒谷は使われず単に黒谷と呼ばれる。寺号の紫雲山は、法然?がこの地に... -
鞍馬寺
鞍馬寺 出典 フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』ほか 概略 鞍馬寺(くらまでら)は京都市左京区鞍馬本町にある単立寺院で、鞍馬弘教の総本山。本尊を「尊天」と称し、毘沙門天、千手観音、護法魔王尊の三身一体であるという。山号は松尾山(しょうびさん)、開基(創立者)は鑑禎(がんてい)。山の精霊である天狗が住むという鞍馬山の南斜面に位置し、牛若丸(源義経)が修行をした地として著名。なお寺への輸送機関としてケーブルカーを運営しており、宗教法人としては唯一の鉄道事業者である。 歴史 寺に伝わる『鞍馬蓋寺縁起(あんばがいじえんぎ)』によると、鑑真と共に唐から渡って来た高弟8名のうちの最年少であった鑑禎が宝亀元年(770)に草庵を結び、毘沙門天を安置したのが始まりという。山背国の北方に霊山があるという霊夢を見た鑑禎は、その霊山を尋ねて出掛け、ある山の上方... -
嵐山
嵐山 出典 フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』ほか 概略 嵐山(あらしやま)は、京都府京都市右京区嵯峨の観光地で、山の名前でもあり、周辺一帯の地名でもある。京都市街の西の端に位置し、古くには嵯峨野もしくは嵯峨と呼ばれた。風光明媚故に平安貴族の別荘地となって以来、京都の代表的な観光地として、また桜や紅葉の名所として親しまれている。嵐山の中心部を流れる川に架かる渡月橋(とげつきょう)は嵐山の象徴になっており、四季折々の景観が美しい。なお渡月橋をはさんで上流が保津川で下流が桂川、橋の周辺が大堰川と呼ばれている。 歴史 美しい自然や清らかな流れが多くの歌人に愛され、歌にも詠まれた嵐山の地は、平安時代より貴族の行楽地や別荘地として、また大堰川は舟遊びの場として賑わった。山の嵐山(標高375m)は桜の時期の景観が有名で、この桜は後嵯峨上皇の亀山殿造... -
西本願寺
西本願寺(本願寺) 出典 フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』ほか 概略 西本願寺(にしほんがんじ)は、京都市下京区にある浄土真宗?の寺院で浄土真宗?本願寺派の本山。「西本願寺」は通称で正式名称は本願寺である。本尊は阿弥陀如来、開基(創立者)は親鸞?の末娘の覚信尼。宗門の地方寺院数は約10,000箇寺、在籍僧侶数は約30,000人を数える。現在も創建以来の数多くの名宝を有し、古都京都の文化財の一部として世界遺産に登録されている。 歴史 浄土真宗?の宗祖親鸞?の入滅後、末娘の覚信尼が文永9年(1272)に現在の知恩院の崇泰院あたりに廟堂を営み、遺骨を安置したのが本願寺の発祥である。その後、廟堂は内紛のため破壊されたが、3代覚如が再建し専修寺と号し、さらに本願寺と改称した。その後8代蓮如が本願寺を大教団に育てた。当時の本願寺は天台宗?の末寺と... - @wiki全体から「融通念仏宗」で調べる