京都観光データベース@ wiki内検索 / 「金森宗和」で検索した結果
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金閣寺
... 江戸時代の茶道家、金森宗和?が好んだ数寄屋造の茶席で、夕日に映える金閣がことによいと言うことから、夕佳亭(せっかてい)と名付けられた。正面の床柱は「難を転じる」という言葉に掛けて南天材を用いる。三角の棚は「萩の違棚」、中央の古木が「鶯宿梅」と呼ばれる。茶席の前の石灯籠と富士型の手水鉢は、足利義政愛用と伝わる。平成9年(1997)に解体修理が行われた。 不動堂 本尊は弘法大師作と伝えられる石不動明王像。首から上の願いごとを聞くとされ、特に眼病に効くという。 文化財 国宝 なし 重要文化財(建造物) なし 重要文化財(美術工芸品) 大書院障壁画(紙本墨画葡萄図・紙本墨画松鶴図・紙本墨画芭蕉図・紙本墨画鶏及び秋海棠図・紙本墨画竹図、伊藤若冲筆) 絹本著色足利義満像(2幅) 絹本著色達磨図 子元祖元高峰顕日問答語 慈聖院并寿寧院遺誡 特... -
大徳寺
...茶室「庭玉軒」は茶人金森宗和?が元の庵を茶室に造り替えたもの。方丈北側にある通仙院は正親町天皇女御の化粧殿を移築したものと伝わる。国の名勝及び史跡に指定されている庭園は、方丈庭園と通仙院庭園からなり、前者は細長い地割に十五個の石を七五三に配した枯山水庭園で、一休?に参禅した村田珠光?または連歌師宗長の作庭といい、後者は書院式露地で金森宗和?の作といわれる。境内墓地には村田珠光?や能楽観世流の始祖観世清次・元清らの墓がある。通常非公開。 聚光院 室町幕府の管領職を務めた細川家の重臣、三好長慶の菩提寺として永禄9年(1566)に創建された。千利休?が永代供養料を寄進し、一族の墓所とした。長方形の苔庭の直線上に多くの庭石を配した「百積庭」は千利休?の作と伝わり、国の名勝に指定されている。利休?好みの三畳台目の茶室「閑隠席」や狩野永徳筆の障壁画でも知られる。通常非公開。 芳... -
龍安寺
...(2)相阿弥、(3)金森宗和?、(4)夢窓疎石、(5)小堀遠州、(6)小太郎・彦二郎の説があり、有力なのは応仁の乱後に龍安寺を再興した細川政元が方丈を再建した時に作られたという説である。6番目の小太郎・彦二郎説とは、庭の南側土塀近くにある石の裏側に2人の名前が刻み込まれていることによる。他の庭園に使われていた石を持ってきた可能性を否定できないが、石に名前が彫られているのは極めて珍しい。いずれにせよ、謎だらけの庭園ではあるが、その空間構成は現代の意匠にも通用し、日本を代表する抽象的芸術として特に著名。また別名として「虎の子渡しの庭」とも呼ばれる。国の特別名勝及び史跡に指定されている。 仏殿 江戸時代の古図を元に昭和56年(1981)に再建された。天皇家や歴代住職の位牌が安置され、天井には雲龍図が描かれている。内部は通常非公開。 蔵六庵 方丈から東庭を隔てた北東隅の茶... -
三千院
...ばれ、江戸時代の茶人金森宗和?の作庭と伝わる。池の水は音無滝より流れ出た律川から引いている。 宸殿 大正15年(1926)、宮中の行事であった御懺法講の儀式を行うために造られたもので、京都御所?の紫宸殿を模している。中の間には本尊の秘仏薬師如来像、西の間には救世観音半跏像、不動明王立像などを安置する。東の間には下村観山の障壁画がある。本尊は長い間公開されなかったが、平成14年(2002)9月8日~10月8日に特別開扉された。宸殿前に広がる雄大な庭園は有清園と呼ばれ、弁天池を中心に杉や檜などの立木が並んだ江戸期作庭の池泉回遊式庭園。池には鶴島、亀島、山畔を利用して三段式となった「細波(さざなみ)の滝」と呼ばれる滝を配している。 往生極楽院(阿弥陀堂) 三千院の歴史の源ともいえる簡素な御堂で、寺伝では恵心僧都と姉の安養尼が寛和2年(986)に建てたものと伝えられてきた... -
妙心寺
妙心寺 出典 フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』ほか 概略 妙心寺(みょうしんじ)は、京都市右京区花園にある臨済宗?妙心寺派大本山の寺院。山号は正法山、本尊は釈迦如来、開基(創立者)は花園法皇、開山(初代住職)は関山慧玄である。三門、仏殿、法堂などの中心伽藍の周囲には46ヵ寺に及ぶ塔頭寺院が建ち並ぶ。日本にある臨済宗?寺院約6,000ヵ寺のうち約3,400ヵ寺を妙心寺派が占めており、寺院運営に秀でた妙心寺は俗に「妙心寺のそろばんづら」とも呼ばれる。 歴史 京都の禅寺は、五山十刹?に代表される、室町幕府の庇護と統制下にあった一派と、それとは一線を画す在野の寺院とがあった。前者を「禅林」または「叢林(そうりん)」、後者を「林下(りんか)」と呼び、妙心寺は大徳寺とともに、修行を重んじる厳しい禅風を特色とする林下の代表的寺院である。建武2年(1... - @wiki全体から「金森宗和」で調べる