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妙心寺
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妙心寺
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概略
妙心寺(みょうしんじ)は、京都市右京区花園にある臨済宗?妙心寺派大本山の寺院。山号は正法山、本尊は釈迦如来、開基(創立者)は花園法皇、開山(初代住職)は関山慧玄である。三門、仏殿、法堂などの中心伽藍の周囲には46ヵ寺に及ぶ塔頭寺院が建ち並ぶ。日本にある臨済宗?寺院約6,000ヵ寺のうち約3,400ヵ寺を妙心寺派が占めており、寺院運営に秀でた妙心寺は俗に「妙心寺のそろばんづら」とも呼ばれる。
妙心寺(みょうしんじ)は、京都市右京区花園にある臨済宗?妙心寺派大本山の寺院。山号は正法山、本尊は釈迦如来、開基(創立者)は花園法皇、開山(初代住職)は関山慧玄である。三門、仏殿、法堂などの中心伽藍の周囲には46ヵ寺に及ぶ塔頭寺院が建ち並ぶ。日本にある臨済宗?寺院約6,000ヵ寺のうち約3,400ヵ寺を妙心寺派が占めており、寺院運営に秀でた妙心寺は俗に「妙心寺のそろばんづら」とも呼ばれる。
歴史
京都の禅寺は、五山十刹?に代表される、室町幕府の庇護と統制下にあった一派と、それとは一線を画す在野の寺院とがあった。前者を「禅林」または「叢林(そうりん)」、後者を「林下(りんか)」と呼び、妙心寺は大徳寺とともに、修行を重んじる厳しい禅風を特色とする林下の代表的寺院である。建武2年(1335)に開基である花園上皇が剃髪して法皇となり、離宮萩原殿を禅寺に改めることを発願した。法皇の禅の師は大徳寺開山の宗峰妙超であった。宗峰妙超は建武4年(1337)に没するが、臨終間近に花園法皇が師の亡き後、誰に法を問えばよいかと尋ねたところ、高弟の関山慧玄を推挙した。その頃、美濃国(現岐阜県)の山奥で修行に明け暮れていた関山慧玄は、都に戻ることを渋っていたが、師の遺命と花園法皇の院宣があっては辞去するわけにはいかず、暦応5年/康永元年(1342)に妙心寺の開山となった。なお、妙心寺の山号寺号は宗峰妙超が命名したもので、釈迦が嗣法の弟子、摩訶迦葉(まかかしょう)に向かって述べた「正法眼蔵涅槃妙心(最高の悟りというほどの意味)」という句から取ったものである。関山慧玄の禅風は厳格で、その生活は質素をきわめたといい、他の高僧のような語録もはなく、生前に描かれた肖像画もなく、遺筆も弟子の授翁宗弼(じゅおうそうひつ)に書き与えた印可状(師匠の法を受け継いだ証明書)の他はほとんど残されていない。妙心寺6世住持の拙堂宗朴(せつどうそうぼく)は、室町幕府に反旗をひるがえした周防守護大内義弘と関係が深かったため、3代将軍足利義満の怒りを買い、応永6年(1399)に拙堂宗朴は大内義弘に連座して青蓮院に幽閉の身となった。妙心寺の寺領は没収となり、龍雲寺と改名させられ、一時中絶する。永享4年(1432)にようやく寺領が返還され、管領細川勝元の外護を受けて日峰宗舜(にっぽうそうしゅん)が中興する。応仁の乱で全山を焼失するが、住持雪江宗深(せっこうそうしん)によって、4人の弟子による四派四本庵(四派=龍泉派・東海派・霊雲派・聖澤派、四本庵=龍泉菴・東海庵・霊雲院・聖澤院)による運営体制の基礎を確立させて復興を計る。永正6年(1509)美濃国守護代斎藤妙純の室、利貞尼(りていに)が買い受けた仁和寺領の土地を妙心寺に寄進し、境内地が現在のようになり、七堂伽藍や塔頭が建てられた。その後も豊臣家や細川家などの有力大名の援護を得て、近世には大いに栄えた。
京都の禅寺は、五山十刹?に代表される、室町幕府の庇護と統制下にあった一派と、それとは一線を画す在野の寺院とがあった。前者を「禅林」または「叢林(そうりん)」、後者を「林下(りんか)」と呼び、妙心寺は大徳寺とともに、修行を重んじる厳しい禅風を特色とする林下の代表的寺院である。建武2年(1335)に開基である花園上皇が剃髪して法皇となり、離宮萩原殿を禅寺に改めることを発願した。法皇の禅の師は大徳寺開山の宗峰妙超であった。宗峰妙超は建武4年(1337)に没するが、臨終間近に花園法皇が師の亡き後、誰に法を問えばよいかと尋ねたところ、高弟の関山慧玄を推挙した。その頃、美濃国(現岐阜県)の山奥で修行に明け暮れていた関山慧玄は、都に戻ることを渋っていたが、師の遺命と花園法皇の院宣があっては辞去するわけにはいかず、暦応5年/康永元年(1342)に妙心寺の開山となった。なお、妙心寺の山号寺号は宗峰妙超が命名したもので、釈迦が嗣法の弟子、摩訶迦葉(まかかしょう)に向かって述べた「正法眼蔵涅槃妙心(最高の悟りというほどの意味)」という句から取ったものである。関山慧玄の禅風は厳格で、その生活は質素をきわめたといい、他の高僧のような語録もはなく、生前に描かれた肖像画もなく、遺筆も弟子の授翁宗弼(じゅおうそうひつ)に書き与えた印可状(師匠の法を受け継いだ証明書)の他はほとんど残されていない。妙心寺6世住持の拙堂宗朴(せつどうそうぼく)は、室町幕府に反旗をひるがえした周防守護大内義弘と関係が深かったため、3代将軍足利義満の怒りを買い、応永6年(1399)に拙堂宗朴は大内義弘に連座して青蓮院に幽閉の身となった。妙心寺の寺領は没収となり、龍雲寺と改名させられ、一時中絶する。永享4年(1432)にようやく寺領が返還され、管領細川勝元の外護を受けて日峰宗舜(にっぽうそうしゅん)が中興する。応仁の乱で全山を焼失するが、住持雪江宗深(せっこうそうしん)によって、4人の弟子による四派四本庵(四派=龍泉派・東海派・霊雲派・聖澤派、四本庵=龍泉菴・東海庵・霊雲院・聖澤院)による運営体制の基礎を確立させて復興を計る。永正6年(1509)美濃国守護代斎藤妙純の室、利貞尼(りていに)が買い受けた仁和寺領の土地を妙心寺に寄進し、境内地が現在のようになり、七堂伽藍や塔頭が建てられた。その後も豊臣家や細川家などの有力大名の援護を得て、近世には大いに栄えた。
伽藍
勅使門、三門、仏殿、法堂、寝堂、庫裏が一直線に並び、これら中心伽藍を取り囲むように開山堂をはじめとする諸堂や塔頭が建ち並ぶ。建物は主に17世紀頃に造営されたものが現存する。
勅使門、三門、仏殿、法堂、寝堂、庫裏が一直線に並び、これら中心伽藍を取り囲むように開山堂をはじめとする諸堂や塔頭が建ち並ぶ。建物は主に17世紀頃に造営されたものが現存する。
勅使門
慶長15年(1610)の建立。切妻造、檜皮葺の四脚門。
三門
慶長4年(1599)の建立。五間三戸の二重門で、入母屋造、本瓦葺。楼上の須弥壇には、本尊円通大士と脇侍の善財童子と月蓋長者、十六羅漢像を安置する。柱や虹梁には極彩色の絵が描かれ、鏡天井には迦陵頻迦と天人、龍が描かれている。近年外面の朱塗りが復元されてかつての彩色が蘇った。楼上は通常非公開。
仏殿
文政10年(1827)の建立で、妙心寺の中心伽藍のうちで最も新しい。一重裳階付、入母屋造、本瓦葺。創建時には仏殿のみが建ち法堂も兼ねていたという。内部の須弥壇には本尊の釈迦如来像と脇侍の迦葉・阿難尊者が安置されている。内部は通常非公開。
法堂
関山慧玄300年忌を記念し、承応4年/明暦元年(1655)に着工され、翌年の明暦2年(1656)にほぼ完成する(付帯工事はさらに翌年まで続いた)。一重裳階付、入母屋造、本瓦葺。仏殿が方形であるのに対し、法堂は横に長い矩形の建物。仏殿とは廊下で結ばれている。堂内は斜め向きに瓦を並べた床に18本の欅の柱が並び、中央に禅宗様式の須弥壇がある。高さ13m天井鏡板には狩野探幽の筆による直径12mの円形の枠いっぱいに雲龍図が描かれている。8年の歳月を要して描き上げたという。
大方丈・方丈庭園
承応3年(1654年)の建造で、入母屋造、こけら葺。文化3年(1806)に大改造が行われており、その棟札が残されている。中央の仏間に本尊の阿弥陀三尊像を安置する。障壁画は南側3室は狩野探幽、北側3室は狩野益信の筆。大方丈の庭園を隔てた正面中央に唐門が建つ。方丈庭園は典型的な禅宗の方丈前庭で、国の名勝及び史跡に指定されている。現在は一面を苔が覆い、松などの樹木が植えられている。
庫裏
承応2年(1653)の建立で、当初屋根はこけら葺だったが、文化5年(1808)の修理で瓦葺に変更された。平成2年(1990)から7年間にわたる修理によって、創建当初のこけら葺に復元されるとともに、これまで棟の上にあった煙出しを西側の屋根面に移動し、二つの煙だしが並んで見える形になった。正面右にある唐破風の奥には韋駄天像が祀られている。内部は通常非公開。
浴室(明智風呂)
三門の東側に西面して建つ。切妻造、本瓦葺。明智光秀の菩提を弔うため、叔父の密宗和尚が天正15年(1587)に建立したという。その後、法堂の建立の際に改築を受けた。内部は4畳ほどの浴槽を中央に、手前に板敷きの洗い場、右に畳敷きの脱衣室、裏に竈室が配されている。浴槽は蒸し風呂で、簀の子板敷きから蒸気を出す仕組みになっている。
主な塔頭
全盛期には80余院を数えたが、現在は46ヵ寺が残るのみ。うち常時公開されているのは、退蔵院、桂春院、大心院の3ヵ寺のみである。
全盛期には80余院を数えたが、現在は46ヵ寺が残るのみ。うち常時公開されているのは、退蔵院、桂春院、大心院の3ヵ寺のみである。
退蔵院
応永11年(1404)に越前国(現福井県)の豪族波多野重通が無因宗因を開山として千本通松原のあたりに創建、のち妙心寺内に移築された。方丈の西側にある狩野元信の作庭と伝わる枯山水庭園は国の名勝及び史跡に指定されている。また日本の初期水墨画の代表作である如拙筆の国宝「瓢鮎図(ひょうねんず)」を所有することでも有名(現在は京都国立博物館に寄託中)。昭和39年(1964)には大徳寺芳春院方丈前庭や城南宮?庭園を作庭した中根金作?によって「余香苑」と呼ばれる流水池庭が造られた。
桂春院
慶長3年(1598)、織田信長の嫡男信忠の次男である津田秀則によって見性院として創建され、寛永6年(1632)に美濃国(現岐阜県)の豪族石河貞政が建物を完備し、名を桂春院と改めた。方丈内部の襖絵は狩野山雪の筆。茶室既白庵(きはくあん)は長浜城から書院とともに移築されたもの。「侘」「清浄」「思惟」「真如」と名付けられた4つの庭は、国の名勝及び史跡に指定されている。書院前庭から飛び石伝いに既白庵に通じる露地庭「侘庭」は、小堀遠州の高弟玉淵坊の作と伝わる名庭。
大心院
室町幕府管領細川政元が、明応元年(1492)に現在の妙顕寺?のあたりに建立した塔頭で(文明11年(1479)説もあり)、のち天正年間(1573~1592)に細川藤孝(幽斎)が現在地に移転させた。開山は景川宗隆。書院前の庭園「阿吽庭」は東西に長い長方形の地割をもつ枯山水庭園で、東南部分に築山を配し、三尊石組を中心にして左右に数個の自然石を配している。宿坊としても利用できる。
玉鳳院
花園法皇自らが妙心寺に参禅、修行するため、寺のすぐそばに建てた塔頭寺院。応仁の乱で焼失し、現在の建物は明暦2年(1656)に再建されたもの。院内には開山堂をはじめ方丈、庫裏、鐘楼、豊臣秀吉の第一子棄丸の霊屋・祥雲院殿などを擁する。また秀吉が妙心寺で棄丸の葬儀を行った際 に寄進したという棄丸愛玩の木造船なども現存する。開山堂である微笑庵(みしょうあん)は山内で現存する最古の建築物で天文6年(1537)に東福寺から移築された。開山関山慧玄を祀る境内で最も神聖な場所で、玉鳳院とは渡り廊下でつながっている。渡り廊下の北にある庭園は国の名勝及び史跡に指定され、関山慧玄が息を引き取った場所という風水泉と老木が今も残る。通常非公開。
東林院
享禄4年(1531)、室町幕府の最後の管領である細川氏綱が養父高国の菩提を弔うために建てた三友院にはじまり、弘治2年(1556)に因幡国(現鳥取県)守護、山名豊国が妙心寺山内に移して東林院と改めた。以来、山名家の菩提寺となっている。有名な方丈前庭の沙羅双樹は樹齢約300年。通常は非公開の寺だが、1月の「小豆粥の会」、6月の「沙羅の花を愛でる会」、毎週開催されている精進料理教室などで公開される。
天球院
寛永8年(1631)に岡山藩主の池田光政が伯母の天久院のために創建した。建築にあたって土の中から沢山の球が見つかったため「久」の字を「球」に改めたという。「竹虎図」「梅に遊禽図」などの障壁画は狩野山楽、山雪の筆と伝わる名作。伏見城の遺構と伝わる血天井も有名。通常非公開。
隣華院
賤ヶ岳の戦いで活躍した七本槍のひとり、脇坂安治が慶長4年(1599)に南化玄興(なんかげんこう)を開山として創建した。方丈室中の間には、長谷川等伯の筆という襖絵「水墨山水図」が描かれている。室中の間を挟む左右の部屋は、京狩野として活躍した江戸後期の絵師、狩野永岳の筆による「四季花鳥図」「紅葉図」など金地極彩色の鮮やかな襖絵で飾られている。通常非公開。
春光院
豊臣秀吉の家臣、堀尾吉晴が長子忠氏の菩提を弔うために天正18年(1590)に建立。方丈には狩野永岳の筆によって室中の間「月と雁図」、東の間「琴棋書画図」、西の間「花鳥図」などが色鮮やかに描かれている。方丈前庭は、慶応3年(1867)に作庭されたもので「さざれ石の庭」と呼ばれ、伊勢両宮を抽象的に構成したという珍しい枯山水庭園。西庭は「常盤の庭」と呼ばれ、雪見灯籠を配した鶴亀の庭となっており、亀島あたりに桃山期当時の面影をとどめている。方丈東にある天正5年(1577)の年号を鋳込んだ鐘は南蛮寺(廃寺)の銅鐘で、初期キリスト教伝来の貴重な遺産とされる。通常非公開。
大通院
天正14年(1586)、南化玄興を開山として、美濃国(現岐阜県)の守護土岐氏の家臣で後に豊臣秀次の宿老となる一柳直末が創建。山内一豊の庶子湘南和尚が南化玄興に嗣ぎ住持となったため、以来山内家の菩提寺となった。境内にある山内一豊夫妻の御廟には向かって左手に妻千代(見性院)、右手に山内一豊(大通院)卵塔の墓石がある。通常非公開。
大雄院
慶長8年(1603)、尾張徳川家の家老を務めた石河光忠が父の菩提所として慧南玄譲を開山として創建。客殿の襖絵は江戸時代末期の画家、柴田是真の作。農学博士の肩書きを持ち、養蚕研究で名高い住職が、蚕の交配を重ね「石河蚕」という繭を作らずに平面上に糸を吐く蚕を作り上げ、その糸で作った「蚕繭紙(さんけんし)」を展示している。通常非公開だが、平成16年(2004)に建立400年を記念して一般に公開された。
霊雲院
室町幕府の管領細川家の重臣であった薬師寺一族の菩提を弔うために、大永6年(1526)に薬師寺国長の室である清範尼が大休宗休を開山として建立した妙心寺四派本庵のひとつ。大休は師の特芳禅傑を開山に請じて自らは二世となった。書院は室町末期のものが現存し、大休宗休に帰依した後奈良天皇が参禅したため西北の間を天皇御幸の間と伝える。書院庭園は極めて狭小な地域に絵画的手法をもって樹木や石を配した室町末期の枯山水庭園で、相国寺の僧、子建西堂(是庵)の作という。国の名勝及び史跡に指定されている。狩野元信の筆と伝わる襖絵を擁することでも有名。門内左手に哲学者西田幾多郎の墓もある。通常非公開。
東海庵
文明16年(1484)、悟渓宗頓(ごけいそうとん)を開山として建立された妙心寺四派本庵のひとつ。悟渓宗頓の没後は玉浦宗珉が利貞尼の援助を得て整備につとめた。方丈前庭は古式禅宗様の白砂一面の枯山水庭園で「白露池の庭」と呼ばれる。書院西庭は文化11年(1814)に東睦和尚によって作庭されたもので、右方に低い築山と瀛洲(えいしゅう)島、方丈島、蓬莱島の三神仙島を配し、左方には三尊石組がある。作庭年代及び作者が明確な庭園は珍しい。書院南庭(坪庭)は白砂に7個の石を並べた枯山水庭園。書院庭園は国の名勝及び史跡に指定されている。狩野元信筆という「瀟湘八景図」も有する。通常非公開。
龍泉菴
文明13年(1481)に景川宗隆を開山として創建された妙心寺四派本庵のひとつ。方丈は山内塔頭で最大規模を誇り、江戸後期の禅宗方丈建築の特徴を伝える遺構として貴重。長谷川等伯の代表作のひとつ「枯木猿猴図」を所有することでも有名(現在は京都国立博物館に寄託中)。襖絵は堂本印象に師事した日本画家の由里本出の筆による。通常非公開だが、平成16年(2004)に創建以来初公開された。
聖澤院
大永3年(1523)に東陽英朝を開山として創建された妙心寺四派本庵のひとつ。現在の方丈や庫裏などは豊後国(現大分県)府内城主、早川長政の私邸を改築したもの。近年、東陽英朝の500年遠忌事業によって、院内のすべての建物と方丈庭園が改装・改修された。通常非公開。
大法院
寛永2年(1625)、淡道宗廉を開山として創建された。大坂夏の陣で奮戦した真田幸村の兄、信之の菩提寺。真田家の松代藩出身の儒者、佐久間象山の墓がある。方丈の襖絵は江戸中期に描かれた「叭叭鳥図(ははちょうず)」で、飛ぶ鳥の姿が墨一色で描かれている。書院前庭には露地庭が広がり、秋の紅葉が美しい。春秋の公開期間のみ拝観できる。
衡梅院
応仁の乱後の妙心寺を再興した雪江宗深を開山とし、室町幕府管領の細川改元の外護を得て文明12年(1480)に創建(文明元年(1469)説もあり)。雪江宗深は同18年(1486)に没し、遺命によって衡梅院に塔された。のち衰退するも、慶長9年(1604)に天秀得全が中興する。現在の方丈はこの時に建立されたもので、同年8月の紀年を有する棟札が残されている。方丈の障壁画は法眼春卜(大岡)の作。方丈庭園は一面の杉苔に石組を配した枯山水庭園。通常非公開。
麟祥院
寛永10年(1633)、3代将軍徳川家光が、上洛した際の春日局の香華寺として創建。佐賀初代藩主、鍋島勝茂の子の碧翁愚完を開山とする。明治30年(1897)に妙心寺南門の東から現在地に移建された。方丈前庭は土屋琢道作の枯山水庭園。方丈の襖絵「雲竜図」は海北友松の子、海北友雪の筆。狩野貞信の筆による障壁画がある春日局の霊屋や後水尾天皇から下賜され春日局の木像が安置されている釣殿、家光から麟祥院の創建記念として賜った「百椿図屏風」などを有する。通常非公開。
海福院
福島正則が創建した塔頭で、正則遺愛という長槍が残る。江戸後期に造られた庭園は都名所図会などの著者、秋里籬島の作といわれる。蘆雁の間にある押入仕込みの隠れ茶室や狩野探幽が妙心寺法堂の雲龍図を描く際に逗留し、いたずら描きして住職から叱責されたという「猿回しの図」などが残る。等持院?の方丈は元和2年(1616)に福島正則がここより移したもの。通常非公開。
文化財
国宝
重要文化財(建造物)
仏殿 法堂 三門 浴室 経蔵 勅使門 南門 大方丈 玄関 寝堂 小方丈 庫裏 北門 退蔵院本堂 玉鳳院開山堂・四脚門 天球院本堂 霊雲院書院 衡梅院本堂
重要文化財(美術工芸品)
絹本著色花園天皇像 絹本著色虚堂和尚像・大応国師?像・大燈国師像 絹本著色十六羅漢像 絹本著色六代祖師像 絹本墨画普賢菩薩像 紙本著色三酸及寒山拾得図・琴棋書画図・花卉図(以上海北友松筆)・呂望及び商山四皓図・厳子陵及び虎渓三笑図 紙本著色竜虎図 紙本墨画達磨・豊干・布袋像 紙本墨画瀟湘八景図 倶利迦羅竜守刀・小形武具(豊臣棄丸所用) 関山慧玄墨蹟 花園天皇宸翰消息 花園天皇宸翰御証状 花園天皇宸翰御置文 後奈良天皇宸翰徽号勅書 後奈良天皇宸翰置文 後西天皇宸翰徽号勅書 東山天皇宸翰徽号勅書 光格天皇宸翰徽号勅書 孝明天皇宸翰徽号勅書 桃園天皇宸翰光徳勝妙国師号勅書 花園天皇宸翰御消息(退蔵院所蔵) 後奈良天皇宸翰徽号勅書・宸翰御消息(退蔵院所蔵) 無明慧性墨蹟(桂春院所蔵) 絹本著色羅漢像(大心院所蔵) 木造玩具船(豊臣棄丸所用、玉鳳院所蔵) 方丈障壁画(竹虎図・梅に遊禽図・籬草花図・牡丹槇図・牡丹唐獅子図・竹叭々鳥図・山水人物図・杉戸絵、天球院所蔵) 紙本墨書法華経陀羅尼品(天球院所蔵) 紙本墨画山水図(伝長谷川等伯筆、隣華院所蔵) 木造豊臣棄丸坐像(隣華院所蔵) 銅鍾(春光院所蔵) 絹本著色東方朔奪桃図(春光院所蔵) 紙本水墨淡彩山水花鳥図(伝狩野元信筆、霊雲院所蔵) 後奈良天皇宸翰円満本光国師号勅書(霊雲院所蔵) 紙本水墨瀟湘八景図(伝狩野元信筆、東海庵所蔵) 絹本著色十六羅漢像(東海庵所蔵) 絹本淡彩花鳥図(東海庵所蔵) 孝明天皇宸翰徽号勅書(東海庵所蔵) 紙本墨画猿猴図(長谷川等伯筆、龍泉菴所蔵) 絹本著色摩利支天像(聖澤院所蔵) 紙本著色福富草紙(春浦院所蔵) 絹本著色稲葉一鉄像(智勝院所蔵) 紙本墨書法華経譬喩品(天授庵所蔵)
名勝
妙心寺方丈庭園 退蔵院庭園 桂春院庭園 玉鳳院庭園 霊雲院庭園 東海庵書院庭園
史跡
妙心寺方丈庭園 退蔵院庭園 桂春院庭園 玉鳳院庭園 霊雲院庭園 東海庵書院庭園
拝観情報
住所 京都市右京区花園妙心寺町1
電話番号 075-461-5226(本坊)、075-463-2855(退蔵院)、075-463-6578(桂春院)、075-461-5714(大心院)
075-463-1334(東林院)、075-462-9041(天球院)、075-462-9042(隣華院)、075-462-5488(春光院)
075-463-6538(大雄院)、075-462-4648(霊雲院)、075-462-4326(東海庵)、075-461-6896(龍泉菴)
075-463-8018(聖澤院)、075-462-8330(大法院)、075-461-6961(衡梅院)、075-463-6563(麟祥院)
拝観時間 本坊 9:10~11:50(20分間隔で案内)、12:30、13:00~15:40(20分間隔で案内) ※本山行事日は拝観中止
退蔵院 9:00~17:00
桂春院 9:00~17:00(冬期16:30)
大心院 9:00~17:00
拝観料 境内自由、本坊拝観500円、退蔵院拝観400円、桂春院拝観400円、大心院拝観300円
アクセス JR山陰本線(嵯峨野線)「花園駅」下車徒歩5分
駐車場 無料駐車場あり(花園会館駐車場利用)
住所 京都市右京区花園妙心寺町1
電話番号 075-461-5226(本坊)、075-463-2855(退蔵院)、075-463-6578(桂春院)、075-461-5714(大心院)
075-463-1334(東林院)、075-462-9041(天球院)、075-462-9042(隣華院)、075-462-5488(春光院)
075-463-6538(大雄院)、075-462-4648(霊雲院)、075-462-4326(東海庵)、075-461-6896(龍泉菴)
075-463-8018(聖澤院)、075-462-8330(大法院)、075-461-6961(衡梅院)、075-463-6563(麟祥院)
拝観時間 本坊 9:10~11:50(20分間隔で案内)、12:30、13:00~15:40(20分間隔で案内) ※本山行事日は拝観中止
退蔵院 9:00~17:00
桂春院 9:00~17:00(冬期16:30)
大心院 9:00~17:00
拝観料 境内自由、本坊拝観500円、退蔵院拝観400円、桂春院拝観400円、大心院拝観300円
アクセス JR山陰本線(嵯峨野線)「花園駅」下車徒歩5分
駐車場 無料駐車場あり(花園会館駐車場利用)
主な行事
11月3日・4日 曝凉展
11月3日・4日 曝凉展
その他
京都検定出題
平成16年(2004)第1回京都検定3級出題
「妙心寺について誤っているものを選びなさい。 (ア)花園上皇が、自らの離宮を改めて禅寺とした (イ)詩文芸術に秀でた禅僧を多数輩出したことから、俗に妙心寺の学問づらといわれた (ウ)浴室は、明智光秀を追善するために建立されたといわれ、明智風呂と称される (エ)塔頭の東林院は沙羅双樹の寺として知られている」
「妙心寺について誤っているものを選びなさい。 (ア)花園上皇が、自らの離宮を改めて禅寺とした (イ)詩文芸術に秀でた禅僧を多数輩出したことから、俗に妙心寺の学問づらといわれた (ウ)浴室は、明智光秀を追善するために建立されたといわれ、明智風呂と称される (エ)塔頭の東林院は沙羅双樹の寺として知られている」
平成16年(2005)第1回京都検定2級出題
「妙心寺退蔵院の瓢鮎図の作者は誰か。 (ア)如拙 (イ)海北友松 (ウ)雲谷等顔 (エ)狩野元信」
「妙心寺退蔵院の瓢鮎図の作者は誰か。 (ア)如拙 (イ)海北友松 (ウ)雲谷等顔 (エ)狩野元信」