笑顔(第三幕) ◆wivGPSoRoE




 銀髪の男の姿が見えなくなってしばらく歩いた後、
「……ヒナちゃん、怒った?」
 引き摺られるようにして、男の前から退場させられたのが引っかかっていたのか、つかさが尋ねてくる。
「ん? 別に、怒ってなんかないわよ」
 周囲に神経を配りながら、ヒナギクは生返事を返す。
 さっきのように弛緩するわけにはいかない。最も戦力が高い自分が、二人を守らなくてはならない。
 責任感と義務感で心を張り詰めさせながら、ヒナギクは前方の闇に目を凝らす。
「変な人だったね……」
 ヒナギクの眉が急激に角度を変えた。
(何でそんなに、軽い物言いなわけ?)
 つかさの顔をうかがってみるが、別段、普段と変わった風にもみえない。
 そのことが逆にヒナギクを混乱させる。
「……まあ、変人には違いねえだろうな」
 川田もまた、微妙な顔で相槌を打つ。
「ねえ、つかさ……」
「何? ヒナちゃん」
「つかさは、アイツから何も……感じなかったの?」
 自分とはまったく異質な存在と相対しているような恐怖を感じなかったのだろうか、
 そんな疑問を感じて、ヒナギクはつかさの顔に視線を送る。
「う~ん……」
 可愛らしく首をひねりつつ、
「すっごく鋭い人だなあって、思ったし、ちょっと怖かったけど……。乱暴な人には見えなかったかなぁ」
「そ、そう……」
「私、あの人は、そんなに悪い人じゃないと思うんだけどな……」
 思わずヒナギクは状況も忘れ、つかさの顔を直視した。
(つかさってひょっとしら、すっごく大物なんじゃ……?)
 ふと気になって目線だけで川田の顔を見ると、彼もまた、微笑とも苦笑とも取れるものを顔に浮かべていた。
「どしたの? ヒナちゃん」
 ヒナギクの視線に気付いたつかさが、目をしばたたかせた。
「え? ああ……ええと……。ごめん、言いたいこと忘れちゃったかも……」
 ヒナギクが慌てて誤魔化すと、つかさは口元をほころばせ、
「ううん! あるよねぇ、そういうこと……」
 こんな時だというのに、ニッコリと笑うつかさの顔を見ていると、なんだか心が温かくなる。
(っと……いけない、いけない)
 弛緩していい時ではない。
 小さな笑みを返しつつ、ヒナギクは視線を前に戻した。
(少し……警戒しすぎちゃったかしら?)
 闇の中に、銀髪の男の酷薄な顔と闇を秘めた鋭い瞳が見えた気がして、ヒナギクは顔をしかめた。
(目的は多分、同じだと思うんだけど……)
 あまり一緒にいたいタイプの人間ではない。
 ヒナギクはもう一度、つかさに視線を移動させた。
 柔らかな頬に、人のよさが滲み出ている優しげな瞳。
 どこか人を拒絶するような気を発散していたあの男とは、正反対だ。
 きっと姉のことで心に重い物を抱えているだろうに、さっきのつかさの笑顔は、
 人の心を暖かくさせる柊つかさらしさを、失っていなかった。
(ホント、いい顔で笑うのよね……)
 本人に自覚はないだろうが、この笑顔に、疑うことを知らない瞳に、どれだけ癒されてきたことか。
 だから、つかさの瞳に悲しみが見え隠れしたりすると、どうにも落ち着かなくなる。
 ヒナギクは川田に目配せをし、川田が分かったと頷くのを待って、口を開いた。
「大丈夫よ……」
「え?」
 つかさが、きょとんとした表情になる。
「私のお姉ちゃん、私の通ってる学校の先生をしてるんだけど……。なんていうのか、けっこう無茶する人なの……」
 つかさが、その大きな瞳を見開いた。
「お給料もらってもほとんどお酒につぎ込んじゃって……。そのせいで給料日まえになると、私にまでお金借りに来るの。
12も離れた妹によ? おかしいと思わない?」
 ぐいとヒナギクに顔を近づけられ、目を白黒させながら、つかさがコクコクと頷く。
「借金はつもりつもって400万オーバー。
そんなんだから、当然、アパートも借りられなくて、学校の宿直室にすんでるのよ?
言っておくけど、歳は28歳! ホント、信じられないわ!」
「そ、そうなんだ……」
「補習授業を受け持たされたら野球やっちゃうし、誰にでも彼にでもたかって、オゴらせよとするし……
本当に何であんな風になっちゃったのかしら? つかさのお姉さんとは大違い!」
 もはやなんと相槌を打てばいいのかも分からず、口を開いたり閉じたりするつかさを見て、
 ヒナギクはクスリと笑った。
「でもね……。そんなお姉ちゃんだけど、私が本当に悲しむことだけは、絶対にやらないの」
 つかさが息を呑む気配が伝わってくる。
「どんなに苦しい時も、辛い時も……。私の本当のお父さんとお母さんが、借金だけ残して蒸発しちゃって、
行く所がなくて公園で寝泊りしてた時も、お姉ちゃんはお姉ちゃんだったわ……」
 ヒナギクは、春風のような優しげな微笑を浮かべた。
「つかさは、お姉さんに嫌なこと、されたことある?」
 つかさが首を大きく横に振った。
「つかさのお姉さんは、つかさが悲しむようなことをする人?」
 また、同じ向きに首が振られた。
「だったら、ね……?」
 つかさは、俯いたまま動こうとしない。
 その肩が小さく震えているのを見て取り、ヒナギクは、指を伸ばすとつかさのおでこをチョン、と突いた。
「っわ!」
「ほら! 泣かない! そこは直さないと駄目だっていったでしょ!」
「う、うん……。ごめんね、ヒナちゃん」
「すぐ謝るのも禁止!」
「そ、そんな……」
 困り果てたようなつかさの表情が可笑しくて、思わずヒナギクは噴出してしまう。
 仕切りなおすつもりで咳払いを一つし、
「何か理由があったのよ。トラブルになっちゃうような理由が。仕方の無い理由が……。
ていうか、どこの誰がなんと言おうと、つかさがお姉さんのこと信じてあげなきゃどうするのよ!
大体、何よ? 迷惑かけてたから嫌われたかもしれないって……。
そんなことで嫌いになれるんなら、私なんかとっくにお姉ちゃんのこと嫌いになってるわよ!」
「……ヒナちゃんは、お姉ちゃんのこと大好きなんだね」
 ヒナギクの頬にさっと朱が刺した。
「ま、まあね……。つかさほどじゃ、ないと思うけど……。
と、とにかく、つかさはお姉さんのことを信じてればいいのよ! 分かった!?」
 つかさが大きく頷いた。ほとんど同時に、川田が噴出す気配。
「……何か文句あるの? 川田君」
「いや……。ヒナギクさんの彼氏になる男は大変だろうと思っただけさ」
 うっとヒナギクは一瞬たじろぐが、すぐに体勢を立て直し、
「ま、川田君はそう思うのも無理ないわね。川田君は、料理が上手くて優しい子がタイプらしいから」
「なっ……」
 呻き声を漏らして川田はしばらく固まっていたが、どうやらこれ以上藪をつつかないほうがいいという結論に達したらしく、
「悪かった」
 ペコッと頭を下げてくる。
「よろしい!」
 さっきのお返しとばかりに、ヒナギクが薄い胸を逸らすと、川田は心底まいったというように、つかさと顔を見合わせ、笑みを交し合う。
 つかさから漂う負の気配が薄くなったのを感じ、ヒナギクは気付かれないように、ほうっと安堵の息を吐いた。
 また思いつめて、一人で姉のところに行ったりしないように、注意していなくてはいけない。
 弛緩した集中力を再び引き締めなおし、ヒナギクは足を勧め始める。
(まったく……。当たり前だけど、最低な場所ね、ここは……)
 危険な奴は多いし、気を抜くとすぐ、心が闇に蝕まれてしまう。

 ――頑張らなければ。

 また、大事な人が目の前からいなくなってしまうのは、嫌だから。




 どれくらい歩いただろう。
(やっと……。着いたわね)
 ヒナギクは額につたう汗をぬぐった。
 小さな物音にまで細心の注意を払って移動するのはかなりきつい。
(覚悟君がいないだけで、こんなに違うなんて……)
 きっと、心の根っこのところで、常人を遥かに越えた力を持つ彼に、頼っている所があったのだろう。
(覚悟君……ついてるかしら?)
 襲ってきた傷女の狂気に満ちた瞳を思い出し、ヒナギクは顔をしかめた。
 まさか彼がやられるなんてことは――

「ヒナちゃん!」

 つかさに袖を引っ張られ、ヒナギクはつかさの指差す方向を見た。

 ――いた。

 覚悟が駅の入り口に仁王立ちし、あたりを睥睨している。
(よかった……)
 ヒナギクは安堵の吐息を漏らた。
 やり遂げた、という心地よい達成感と共に疲労が込み上げてくる。

 ――もう、安心だ。

 彼と合流できればもう心配はいらない。
 川田に目をやると、彼もまた、心底ホッとしたという表情を浮かべている。
 つかさは安堵のあまり、座り込んでしまっている。
 責任を果たそうと極限まで張り詰めてさせていたヒナギクの筋肉と精神が、弛緩していく。
 つかさのように座り込んでしまいたいという衝動を押さえつけ、
「覚悟君!」
 建物の影から出ると、弾んだ声でヒナギクは呼びかけた。
 彼がこちらの方を向いた。
 刃のように細められていた瞳が丸くなり、鋼の表情がわずかに緩んだ。
「ヒナギクさん!」
 覚悟が足早にこちらに向かってきた。
 なんだか妙に心が浮ついている。
 疲れが気にならなくなり、重かった足が軽くなったような気がする。
 片手を挙げ、ヒナギクもまた、覚悟に向かって足を速めた。
 二人の距離が数メートルまで狭まりかけた――その時。

 轟音が轟き、閃光が弾け、光の奔流がヒナギクに向かって奔った。




 女は待っていた。
 呼吸を殺し、気配を殺し、獲物が来るのを待ちうけていた。
 あの体力の無さそうなリボンの女を連れてボーリング場まで行くとすれば、地下鉄を使うに決まっている。
 盗み聞いた会話の内容、そして分かれる際に4人がかわした会話で、駅に4人が来る可能性は高いと踏んだ。
 病院に向かうと見せたのはフェイク。
 覚悟が見えなくなった時点で、すぐに斗貴子は進路を変えていたのである。
 まったく違う場所で落ち合うのではなく、駅自体を集合場所としたのなら、覚悟が先についているか可能性は高い。
 細心の中の細心の注意を払って駅へと接近し、あの液体を飲んで爆発的に向上した視力を活用して、遠間から葉隠覚悟を確認した後は、
 注意深く下準備を済ませた後、襲撃ポイントへと向かい、そこに身を隠した。
 錬金の戦士としてキャリアを積んできた津村斗貴子の戦士としての能力は、多岐に渡る。
 一対一の戦いでは覚悟に譲ったとしても、隠密行動や奇襲計画を立案し実行するスキルにおいて、
 斗貴子は覚悟を上回っていたのである。
 建物の陰に身を隠した後は、戦士としての忍耐力と自制心を最大限に働かせ、彼女は待った。
 葉隠覚悟から受けた拳によってできた怪我から発生する痛みすら、殺意と力に変換し、ひたすら待った。
 そして――

 ――覚悟君!

 斗貴子の双眸がくわっと見開かれた。
 瞬時に4人の位置関係を把握。
 斗貴子の唇が弧を描いた。これ以上ない、絶好の位置関係だ。
 頭の中でシミュレーションしておいたとおり、淀みなくカズキの遺槍、サンライトハートを構える。
 迷いも躊躇も一切ない。3人が別ルートから来れば襲撃しないとまで決めておいた、必殺の待ち伏せ策だ。
 後は、行くのみ。
「っ!!」
 無音の気合を槍に浴びせる。
 刹那の差もなく槍から光が迸り、凄まじい加速と重力が彼女を襲う。
 見る見るうちに視界が狭まる。行く手には赤髪の女。
 集中力を極限まで高める。
 集中の極地に到達――音が消え、全てがスローになる。
 視線の先で女がようやくこちらに視線を向ける。

 ――遅い。

 葉隠覚悟が女に向かって走りよる。こちらは速い、とてつもなく速い。何たる超反応!
 おそらく槍の穂先よりも、奴の方が速い。
(予測――どおりだっ!!)
 気合と共に穂先ではなく石突を伸張。アスファルトに叩きこんで、速度減殺しつつ強制方向転換。
 あまりの急速な方向転換に、重力や慣性といった科学法則が斗貴子に多重連激でのしかかってくる。
 酷使に耐えかねた体の筋肉が悲鳴を上げ、傷が存在を申告してくるが、奥歯を噛んでも黙殺。
 槍を取り巻くエネルギーの奔流によって抉られたアスファルトが瀑布となって、覚悟たちに殺到していく。
 破片の弾丸を覚悟が叩き落とした。
 目の端に覚悟の焦燥の表情が映り、斗貴子の唇が耳元までつりあがった。

 ――気付いても、もう遅い。

 視線を目標に向ける。
 途中で坊主頭とすれ違った。坊主頭の絶望が混じった視線と斗貴子の冷笑を宿した視線が一瞬だけ絡み合う。

 ――馬鹿が。

 身の程を知らず、その程度の力で仲間まで守ろうとするからボロが出る。
 視線の交錯が途切れ、後方で銃声が鳴った。
(どこを撃っている!)
 狂気と愉悦を口元に浮かべ、斗貴子は獲物を睨み据えた。
 目標はリボンの女、柊つかさ。恐怖と驚愕で体を硬直させ、大きく目を見開いている。

 ――死ねっ!!

 槍が虚空を高速疾走し、目標をぶち抜いた。
 槍の先から肉を貫く感触が伝わってくる。勢いが減殺されるが、斗貴子の前進は止まらない。
 穂先が女の体を貫通。血が闇に散華し、斗貴子の頬を塗らした。
 スピードが零になり、集中が途切れる。
 同時に音が、戻った。

「つかさぁぁァ――っっ!!」

 裏返った耳障りな女の絶叫。
「てめぇぇっ!!」
 鬼の形相で坊主頭が突進してくる。
 狂笑を浮かべ、斗貴子は貫いた女の体ごと槍を持ち上げ、穂先を坊主頭に向けた。
 槍の穂先から女の呻き声がし、坊主頭が足を止める気配。
(奴の真似をするのは、シャクだが……)
 カズキの肉体を投げつけてきた吉良吉影の顔が頭の中に蘇り、斗貴子の殺意の炎が火勢を増した。
(全てはカズキを取り戻すためだ!)
 吉良の顔を斗貴子は頭から追い払った。
「く、そ、がぁァ……」
 怨嗟と憎悪に満ちみちた声が聞こえてくる。
(フフ……。愛しい女の体が目の前にあっては、手出しできないよなぁ?)
 たとえ死体であろうと攻撃できない。そういうものだ。
 人一人支える負担に耐えかねた左腕の筋肉が軋みを上げ、腕の傷からは血が噴出する。
 その痛みすら、今の斗貴子には心地よい。
 自分を苛立たせる存在は消した。
 そして、湧き上がってくる人の運命をこの手に握る快感ときたら、どうだ。
(安心しろ。一緒に、あの世へ送ってやるっ!)
 最悪一人しか殺せないかもしれないと思っていたが、もう一人やれそうだ。
 嗜虐心と狂気に突き動かされるまま、斗貴子は体内エネルギーを槍に注ぎこむ
(穂先では気付かれる可能性がある……)
 赤髪の女と葉隠覚悟が接近してくる。
(グズグズしている暇はない)

 ――最小の力で男を突き殺し、速やかに予定の経路で撤収する。

 斗貴子の殺意に反応した槍の石突部分から光があふれ出し、再び爆光が夜を裂いた。


 ――痛い、いたい、イタイ

 つかさの頭は、その言葉で埋め尽くされていた。
 腹部から絶えまなく痛みが押し寄せてくる。まるで全身が痛みになったみたいだ。
 熱くて、苦しくて、息ができない。
 宙に浮く感覚と振り回される感覚。先ほどまでに倍する痛みが、瞬時に頭頂に突き抜けた。
「ぐっ……うふぇ……」
 熱い塊が勝手に口からあふれ出す。
 涙が止まらない。目の前がぐちゃぐちゃで、何も見えない。
(イタイ、痛い……。助けて誰、か助け……)
 いくつのも顔が、脳裏を閃いて消えていく。
(何で? どうして? どうして何で? 何でこんな……)
 つかさの心でいくつもの「何故」が踊り狂う。
 どうして、自分はこんなに痛い目にあっているのか。何故、こんなことになってしまったのか。
 答えの出ない疑問の乱流がつかさの心で荒れ狂う。
 激痛と取りとめもない思考の中、つかさの意識は徐々に混濁していく。

 ――く、そ、がぁァ……

(川田、君……?)、
 途絶えようとしていたつかさの意識が急激に覚醒を始めた。
 意識が戻ると同時に襲ってきた痛みに呻き声を漏らしつつも、
 つかさの思考は一つに集中していく。
(逃げ……てって、言わな、きゃ……)
 もう自分は駄目だと伝えなければ、この女から逃げてと言わなくては。

 ――嘘!?

 それを見た瞬間、痛みも何もかも、全てが吹き飛んだ。
 女はもう、はつかさを見ていない。
 つかさの後ろ――川田を見ている。

 ――殺す気だ。この女は川田を殺そうとしている。

(駄目……それだけは、絶対に……駄目……)
 逃げてと叫ばなければならないと思うが、口は血で溢れかえっていて、言葉を出せない。
 口から血を吐き出そうと、体に力を入れると、意識が吹き飛びかけるほどの痛みが襲ってきて、口から血が溢れ出た。
 絶望がつかさの胸の壁を這い上がる。

 女が、腰を落とした。女が持つ槍の穂先の先にあるのは、彼の体。

 つかさの胸に怒りという名の灼熱が生まれた。
(向けないで……あなたはそれを、川田君には……向けないでっ!!)
 その怒りは、立ち寄った民家で、みゆきが「高良みゆき」としてではなく「単なる弱者」として殺されたと知ったときに感じたものよりも、
 さらに大きかった。
 一動作のたびに痛みが走り、涙がこぼれ出る。
 それでもつかさは、動かなくなりつつある指を動かし、必死に目的の物を探る。
 幸いにも、女はまったくといっていいほどつかさには注意を向けていない。
 つかさの後ろにいる川田に、覚悟に、ヒナギクに、神経を集中させている。

 ――あった。

 血で濡れたつかさの指先が、目的のものを探り当てた。
 ピンク色の、取っ手部にディフォルメされた猫のイラストが描かれているツールナイフ。
 川田とホームセンターで見つけたナイフ。
 お守りのつもりだった。人を実際に傷つけることなんて、できるとは思えなかったから。
 でも今は――
(守らなきゃ……私が……今は、私、が……)
 ずっと守ってもらった。支えてもらった。
 だから今度は、自分の番だ。
 焦点の定まらないつかさの瞳が、鋭く細められた。
 女の槍を握る左掌は傷ついていて、皮膚が赤く染まっている。
(……あそこ、に……。動……いて……)
 指の感覚がほとんどない。握っているという感覚がどんどん薄らいでいく。
 力が抜けてい――
 突如、女から殺気が炸裂した。槍の後方部分が発光。

 ――駄目! 

 その瞬間、柊つかさという少女の命が煌いた。
 心から吹き上がった力の激流が、つかさの腕に伝わり、指先に到達。
「っあ!」
 言葉にならぬつかさの叫びとともに、ナイフの刃が闇の中で閃いた。
 指先から衝突の衝撃がつたわり、ナイフがつかさの手から吹き飛んだ。
 がくん、と下方に体が落ちる感覚と違う臓器が抉られる痛み。
 すでに限界に達していたつかさの意識は、彼方へと吹き飛んでいく。
 しかし、意識が闇に多い尽くされる瞬間、つかさは確かに見た。
 女の、雷にでも打たれたかのように凍りついた表情を。

 ――やった。

 つかさは、闇に意識を委ねた。



 ――まさか、そんな……

 斗貴子は狼狽していた。
 明らかになんの訓練も受けてない、ただの少女に。
 気弱そうで、誰かに庇護されなくては生きられそうになかった少女に……。
 反射的に、槍を分解し、見当違いの方向に向かって突進して自爆するのを防ぎつつも、
 斗貴子の心は驚きで満たされ、思考は停止していた。
 戦士としての本能が斗貴子の心に怜悧さをもたらし、思考を回復させるまでの一瞬、

 その一瞬で状況は逆転していた。

 盾としていた少女は坊主頭の腕の中にあり、
「よくも……。よくもつかさをっっ!!」
 上空から声の端々にまで殺意が満ち溢れた声が斗貴子の耳を打つ。
 視線を上向きにする。
 赤髪の女が憤怒で燃える視線を叩きつけてくる。
(舐めるなっ!)
 バルキリースカートのことは誰よりも知り尽くしている。
 その軌道も速さも、知り尽くして――

 戦慄が全身を貫き、斗貴子の体の全細胞が、最大警戒警報を叫んだ。

(しまっ!?)
 女に気を取られて、いの一番に警戒すべき人間のことを失念していた。
 超速で葉隠覚悟が突進してくる。
 咄嗟に手首のない右腕を上げられたのは僥倖と言ってよかった。
「ぶち砕くっ!!」
 耳をつんざく咆哮と刹那の差もなく、衝撃が右腕と鼻を貫通し、吹き飛ばされた。
 左手でなんとか後頭部をカバーする。浮遊感の後は、お決まりの後頭部から顔面へと突き抜ける衝撃。
 体が地面を滑っていく。何かに激突してようやく止まった。
 右腕が砕けて鼻にめり込んでいる。
 無理矢理引き離すと、鼻と腕から走った痛みが高圧電流となって脳の神経を焼き、 
 にちゃりという音とともに、粘性のある液体が、服と鼻の間に橋をかけた。
(立たな、ければ……)
 ストライキを叫ぶ足に、刃を振り下ろし、斗貴子は体を持ち上げる。
 歪む視界の中で赤髪の女が突進してくる。
「死ねっっ!!」
 女の声が斗貴子の鼓膜を震わせた。
 4つの鎌が4つの軌道を描いて斗貴子を狙う。
(こ、の……)
 軌道も荒ければ、精度も足りない鎌の動き。
 だが、体の動きが鈍い。鼻が砕けているせいで呼吸がほとんどできない。
 斗貴子の顔が恐怖で歪んだ。
 葉隠覚悟が、女の攻撃を縫うようにして接近してきている。
 その眼差しには、遠慮呵責のない殺意があった。
(こいつの攻撃だけは……)
 バルキリースカート4刃うち致命傷になりかねない2刃のみを回避。
 残り2刃の防御を放棄し、周囲の把握を優先。
(ぐぁっ!)
 右肩から胸にかけて、さらに刹那遅れて脇腹から、焼け付くような痛み。
 漏れでそうになる呻き声すら体内に押し込め、体内に残留する全てのエネルギーを石突から放出。
 間一髪で覚悟の直蹴りを緊急回避。
 宙を飛んだ斗貴子の体が、目的の建物に迫る。斗貴子は息を止めた。
 突き刺すような痛みと全身に打ち据えられたような衝撃。

 ドアをぶち破り、斗貴子の体は、駅に隣接する名も知らぬ店の床に叩きつけられた。

 全身から走った痛みを気付けとして、意識を引き摺り戻す。
 立ち上がると、血が派手に飛び散った。
 大分前にガス栓を捻っておいたのだから、かなりのガスが充満しているはずだが、鼻が砕けているせいで、よく分からない。
 店の間取りは既に把握している。斗貴子は後ろも見ずに、足を無理矢理動かして奥へと走り込んだ。
 後方で、店内に誰かが駆け込み、立ち止まる気配。
(さすがに気付くか……)
 もっとも、そのために準備をしておいたのだから、そうしてもらわなくては困る。
 止まらずに、店の裏口へといっさんに駆ける。
 裏口から道路へ飛び出し、見つけておいたターボライターに着火。

 ――ブッ飛べ。

 ライター建物の中へ放り込む。
 爆熱と衝撃波を背中に感じながら、斗貴子は闇で満たされた路地をひた走った。
 しばらく走って追手がないことを確認し、斗貴子は足を止めた。
 というよりも、止めざるをえなくなった。
 目が眩む。物体が二つにも、三つにも見える。
(クソっ……胸の方は思ったより……深い)
 シャツを脱いで切り裂き、胸の傷を止血する。脇腹の傷も浅くはない。
 片手でやらなくてはならいので、相変わらずやたらと時間がかかる。
 鼻と右手の怪我は激しく自己主張を繰り返し、出血を無視して走ってきたせいか、酷くめまいがする。
 それでも斗貴子は、応急処置をすませると槍を杖代わりに、歩き始める。
 その体から血が流れ落ち、地面に小さな血溜まりを作っていく。
(病院に戻って、ちゃんと止血しなければ……)
 4人組の移動ルートの把握というアドバンテージを生かし、下準備まで行って、完璧なタイミングで奇襲をかけたにもかかわらず、
 殺せたのは1人。その上、猛烈な反撃をくらって見事に重症。
 今まで負ってきた傷に加えて、顔は大穴でも開けられたように痛み、脇腹と胸の裂傷は熱を伴って激しく痛む。
 体内のエネルギーは掛け値なしに残量ゼロ。
 それでも斗貴子の顔には、歪み切った笑みがあった。
「フフ……ハハハ……」
 一度声が出てしまうともう止まらない。
 声の振動で痛みが増すのもかまわず、血まみれの姿で斗貴子は嗤う。
 目障りだったあの女を殺すことができた。あの偽善者から奪ってやった。
 もう自分は、地獄の機械に翻弄される存在ではない。
 人の運命を翻弄し、弄ぶ側に立っている。
(それにしても、傑作だった)
 赤髪の女の、坊主頭の、偽善者野郎の怒りと絶望で歪んだ顔、顔、顔。

 ――ざまをみろ。

「フフ……はハハははは、は。は、アハハッハ!! ハーハッツハッ!!」

 厚く覆われた真っ黒な空に向かい、斗貴子は狂声を響かせた。


【F-4 1日目 真夜中】
【津村斗貴子@武装錬金】
[状態]:しろがね化、心臓代わりに核鉄、精神崩壊、判断力低下(若干回復)
    全身大火傷、頭部に刺し傷 (核鉄としろがねの力で回復中)。衝撃により、骨にヒビ。簡単な治療済み。
    鼻骨粉砕骨折、右手首消失、右手複雑骨折、胸部陥没骨折、右肩から胸にかけ深い裂傷(簡単な止血済)腹部に裂傷
[装備]:サンライトハート@武装錬金
[道具]:支給品一式×2 (カンテラのみ-1)
[思考・状況]
基本:最後の一人になり、優勝者の褒美としてカズキを蘇らせ、二人きりで暮らす『夢』を叶える。
1:病院に戻って止血をする。
2:可能ならば、なんらかの手段で戦力の増強を図る。
3:強者との戦闘は極力避け、弱者、自動人形を積極的に殺す。
4:アカギ、吉良、勇次郎、軍服の男(暗闇大使)は最終的に必ず殺す。アカギは特に自分の手で必ず殺す。


 ――かさ

 呼ぶ声がする。
(もう、いいよ……)
 このまま眠らせて欲しい。
 もう、頑張りすぎるくらい頑張った。
 今ですら、おなかの辺りが痛くて痛くてたまらないのに、起きたらもっと、酷い苦しみがまっている気がする。
 それなのに、

 ――つ……さん。しっかりしろ。

 ――かさ、目を開けて

 いくつもの声が、

 ――さん、起きるんだ

 誰かの頬を叩く手が、誰かに握り締められた左手から伝わってくる温もりが、つかさを現実へと引き摺り戻そうとする。
 満足なのに。もう十分なのに。
 テスト勉強の計画でさえ、最後までやりきったことがない自分が、怖くて歯医者をしょっちゅうサボってしまう自分が、
 あんなに頑張れた。大事な人を守ることができた。
 だからもう、いいのに……。

「死なないで……。つかさ……お願いだから死なないで……。私なんかのせいで、しなないで……」

 ――え?

「ごめんなさい……。私が……私の、せいで……」
 頬に何かがポタポタと落ちる感覚が伝わってくる。
(違うよ、ヒナちゃん……。そんなこと言っちゃ……。駄目だよ)
 そんなこと全然ないって、言わなければ。
 感謝してるって、ずっと一緒にいてくれてありがとうって、励ましてくれて、叱ってくれて、ありがとうって、言わなきゃ――
 海の底から浮上していくような感覚。
 瞼を開ける。それだけのことのために、とてつもない力と集中が必要だった。
 ぼんやりとした視界の中には、顔を歪め、涙と鼻水でぐちゃぐちゃになったヒナギクの顔があった。
(ヒナちゃん……怪我……してる)
 髪に少し焦げているところがあって、顔や手に真新しい切り傷がある。
 つかさは、ほとんど持ち上がらない手を、何とかあげようとする。
 ヒナギクに手が届いた所で、何がどうできるというわけではないけれど、それでもそうせずにはいられなかった。
「……ヒナちゃ……どう、し……」
 喋ろうとすると胸の痛みと体の痺れが酷くなって、呼吸ができなくなる。
 何も言えないのが、もどかしくてたまらない。
「バカ……。こんなの、これくらい、何でも……。つかさの方が、ずっと……」
 ヒナギクが両手で、つかさの右手を握り締めた。その大きな瞳からこぼれた涙が、つかさの頬をつたっていく。
「頑張るんだ! つかささん」
 目線だけ動かすと、立ち上がって周囲を警戒している覚悟の背中が映った。
 大きな、頼りになる背中。
 この背中や、凛とした立ち振る舞いに、どれだけ元気をもらったことか。
「葉隠の言うとおりだぜ、つかささん、さっき看て見たが、それほど大した傷じゃない。
今、核鉄で治療してるからな……。後は、気の持ち方一つだ」
 川田の優しい声。
(やっぱり……)
 つかさの左手は川田の手の中にあった。
 あの暖かい手、闇の中でもずっと感じていた手は、彼のものだったのだ。
 彼に向かってなんとか微笑もうとするが、上手く行かない。唇がちゃんと笑みの形をとってくれない。
(何で、分かっちゃうのかな……?)
 好きな人のことは何でも分かるっていうけど本当なんだ、なんて、場違いな考えが頭に浮かぶ。

 ――やっぱり死ぬんだ、私。

 そう認識した瞬間、恐怖が一瞬でつかさの心を埋め尽くした。
 怖い。凄く怖い。やりたいことも、やってないことも、たくさんある。
 お父さんにもお母さんにも、お姉ちゃん達にも、言いたいことがたくさんある。
(ごめんね、お姉ちゃん……。ごめんなさい、お父さん、お母さん、まつりお姉ちゃん、いのりお姉ちゃん……)
 一言のありがとうも、一言のごめんなさいも言えない。
 何回でも言いたいのに、言うことが出来ない。
 涙が溢れて視界がぼやけた。

 突然、ぼやけた視界が一瞬だけ、真っ暗になった。

 心臓を氷の手で鷲づかみにされるような恐怖がつかさを襲う。

 ――時間が無い。

 早く言わなければ、残さなければならない言葉を、遺さなければ。
「……ナちゃん、かくご……君、川田、くん……」
 荒い息と共に、つかさは必死で言葉を搾り出す。
「何? つかさ」
 ヒナギクが
「どうしたんだ? つかささん」
 覚悟が、
「どうしたんだ?」
 川田が――
 一斉に言い、顔を寄せてくる。
 こんな時なのに、噴出しそうになった。
 胸から響いてくる鈍痛に顔をゆがめつつも、つかさは少しだけ笑った。
 この人たちに会えてよかった。みんなといると、どんな時でも、自然と笑えるから。
「……おねえ、ちゃんに……会ったら……」
「駄目よ! そんなことは、自分でいいなさい! 私はそんなこと、頼まれたって、やらないだからっ!」
 涙声でヒナギクが叫ぶ。
「ヒナギクさん……」
 宥めるような声と共に、その肩に覚悟の手がおかれた。
 覚悟の顔にも、苦渋の表情がありありと表れていた。
 小さな子供が嫌々をするように、ヒナギクが首を何度も振る。
「……分かった」
 川田がゆっくりと頷いた。
 穏やかな表情とは裏腹に、川田が痛いほど自分の手を握り締めるのを、つかさは感じた。
 彼の悲しみが、怒りが、やるせなさが伝わってくる。
 込められるだけの力を込めて、握り返しながら、
「……ずっと大好きって……つた……」
 もっと伝えたいことは一杯あるのに、口がまともに動いてくれない。
 それだけしか、言えない。
 つかさの喉の奥から熱いものが込み上げてくる。
 ゴボっという嫌な音と共に、つかさの口から血があふれた。
「つかさっ!」
 ヒナギクが悲鳴のような声をあげ、覚悟の唇から血がすっと流れた。
 険しい顔をした川田が、気道を確保するためにつかさの顔に手をかける。
(嫌だな……)
 川田の処置を受けながら、つかさは心の中で呟く。
 みんなを見ているのが、辛い。
 あんなに仲良くしてもらったのに、あんなに助けてもらったのに、みんなに辛い思いをさせるなんて、嫌だ。
 せめて、今、心の中にあるものを遺していかなければ、死んでも死に切れない。
「ヒナ……ちゃん」
 つかさは、焦点が合わなくなりつつある視線をヒナギクに向けた。

 始めて出会った時、すっごく綺麗な子だなあって思った。ちょっと、引け目を感じるくらいに。
 頭もすごくいいんだって、すぐに分かった。
 でも、あのマンションで一緒に料理を作った時に思い切って、「ヒナちゃんって呼んでいい?」って聞いたら、
 驚いた顔をしたけど、すぐに笑って「いいわよ」って言ってくれた。
 その顔が嬉しそうだったのがなんだか意外で、とっても嬉しくて、ヒナギクのことをすぐに好きになった。
 本郷の死に耐え切れずに、都合のいい世界に逃げ込もうとした時、「ちゃんと見なきゃダメだ」って叱ってくれた。
 その後もずっと心配して、見ていてくれた。
 歩いてる時も、放送の後も、ホームセンターに行ったときも……。 いつだって心配してくれた。
 姉のことを疑いかけた時に、大丈夫だって言ってくれた。
 嫌いな人なんているんだろうか? なんて思ってしまうくらい、桂ヒナギクという女の子は、素敵な女の子だと思う。

 ――でも、どうしてだろう。

 "帰りを待つ人がいるなんて、覚悟くんは幸せものねぇ"

 ヒナギクには、どこか自分を大事にしない所があると思っていたけれど、あの言葉を聞いた時、
 独りで泣いている小さなヒナギクの姿が、見えた気がしたのだ。
 今も、見える。
 分からなかった。
 きっとたくさんの人がヒナギクの周りにはいて、きっとみんな、ヒナギクのことが大好きなはずなのに何で、って思った。
 だからあの時、音の正体を確かめるために、ヒナギクが覚悟と一緒に出て行こうとした時、
「待ってるから」って言ったのだ。みんなヒナギクのことを待ってるって、言いたかったのだ。
 ちゃんと伝わっているだろうか? どうか、伝わっていますように。
 悔しいけど、本当に悔しいけど、もう自分にはそれを伝えることはできないから。
 そんなことも全部ひっくるめて、もっともっとヒナギクと話したかった。仲良くなりたかった。
 でも口がもう動かないから。伝えられる言葉は少ないから、だから――
 残り少ない力で唇を動かすと、ヒナギクが泣きはらした目でこっちを見てくる。
「泣か、ないで……」
 ヒナギクの顔が崩れた。顔を覆って嗚咽を漏らしている。
 これ以上、何も言ってあげられないのが悲しい。
 ヒナギクには、泣かないで、友達に囲まれて笑っていて欲しいのに……。

 本当に、息が苦しくなってきた。
 時間が、なくなってきている。

「かくご……君」
「何だろうか?」
 温かみのある真っ直ぐな声。
 つかさは覚悟をしげしげと見つめた。
 初対面での葉隠覚悟の印象は、一言で言えば超人だった。
 力が強いとか、足が速いとか、そういうことじゃ――勿論それもあるけど――ない。
 彼の凄さは意志の強さ。
 夏休みの宿題一つ、自分の力でやったことがない自分には想像もつかないほどの意志の強さ。
 彼は、ありとあらゆる心の弱さを跳ね返してしまう心の強さがある。
 鉄の理性と鋼の精神を持ち、覚悟は何があっても揺らいだりしない人なんだと思った。

 ――そんなことは全然なかった。

 信じられないほどの修行で身に着けた精神の鎧の下には、温もりと優しさがあった。
 本当は、葉隠覚悟という男の子は、すごく情熱的で人の何倍も優しい男の子なんだと思う。
 その感情を表す手段を持っていない、というか、慣れていないだけで……。
 人と上手く付き合えないのを気にしているとか、そんな普通っぽい部分もあって。
 彼に自分が言えることは一つしかない。
「……あり、がとう……」
 覚悟の顔に痛みが走ったのが分かった。
 きっと覚悟は自分を責めている。無理をしなければいいのにな、と思う。
 十分すぎるほど、彼は頑張って、みなを守ってくれたのだから。

 つかさは、川田に視線を向けた。もうほとんど目が見えない。
 でも、握られた指先から心が伝わってくるから、平気だった。

「かわだ……くん」
 彼の名前を呼んだら、心にあった言葉が消えてしまった。
(変、だな……)
 思い出すことも、言いたいこともたくさんあるはずなのに、言葉が出てこない。
 上手く考えが、まとまらない。
 だから、指先に力を入れる。彼が握り返してくれる。
 それだけで胸が一杯になってしまう。
(嬉しかったな……。男の子に抱きしめてもらったのなんて、始めて……)
 男の子の肌があんなに暖かいなんて、男の子の手があんなに優しいなんて、知らなかった。
 抱きしめてもらった後、心がどうしようもなくなってしまったから、キスまでしてしまった。

 その後、ほんの少し夢をみた。

 彼と一緒に学校へ通う夢を。
 一緒に同じ時を過ごして、楽しいことも、悲しいことも、悩みも、分かち合っていけたらいいなって、考えてしまった。
 川田はしっかりしているから、きっと姉のかがみとも気が会うだろうけど、
 もし、かがみが川田のことを好きになっちゃったらどうしようとか、
 彼がうちの神社の神主さんになってくれたらお父さんも喜ぶかも、なんてバカなことも考えた。
 本当に夢の話、子供が夢見るような、ありえない話。
 でもそうなったら、どんなによかっただろうって、今でも思う。
 もっと川田のために、何かしてあげたかった。してあげればよかった。
 こんな風に言葉すら満足に出なくなる前――

 口が、動かない。

(嘘……まっ……て……ま、だ……)
 息がもうほとんどできない。何も見えない。体のほとんどが無くなってしまったようだ。
 彼の手に握られている指先の感覚すら、どんどんなくなっていく。彼が遠くなっていく。
 命のカケラにすがりつくように、つかさは指先に力を込めた。
 その時、耳に誰かの息がかかった。
「俺は多分……。君と会うために、ここへ来たんだと思う」
 耳元で声がした。あの人の声だ。
「あのマンションの部屋で始めて会った時からずっと……。ずっと君が好きだった」
 つかさの心に火が灯った。
 凍てついていく体に灯った火は眩い輝きを放ち、刹那の間、つかさの体に力を蘇らせた。
 渾身の力を振り絞ってつかさは瞼を押し上げた。
 彼の顔が見えた。静かに微笑む彼の顔が。

 ――大好きな人の笑顔を、息のかかる距離で見られるって、こんなに素敵なことだったんだ。

(なんていい気持ち)
 ふっと、つかさの体から力が抜けた。心に灯った火が、急激に輝きを失っていく。
 体の全てから力が抜け、意識が底知れぬ深遠へと落下していく。

 ――お願い。

 魂の全てをかけて、全身全霊を込めてつかさは祈る。
 お願いだから、もう一度だけ動いて、私の体。
 私が私を手放してしまう前に、私の想いを伝えさせて。








「…………すき」