拳(三章) ◆1qmjaShGfE



未だ煙が収まらぬ神の間。
エレオノールはパピヨンを守るようにその前に立ち、あるるかんを操る。
両腕から外側へと伸びる二本の剣があるるかんの主武器だ。
これを殻の無い部分目掛けて振り下ろす。
あるるかんの体当たりによりミサイル発射を邪魔された暗闇大使であったが、ミサイル発射などというバランスを崩しやすい事をしていなければ、この程度で倒れる事も無い。
念力の一撃であるるかん、エレオノール、パピヨンを大きく跳ね飛ばす。
咄嗟にエレオノールが庇ったおかげで、パピヨンはそれほどの怪我を負う事も無かった。
「……何故俺を庇う?」
「貴方がどう思っているかはわかりませんが、少なくとも私は貴方を共に戦う仲間と考えております」
暗闇大使は何故か追撃をしてこない。
その間に起き上がって体勢を整えるエレオノールであったが、それでも、暗闇大使は薄気味の悪い、邪まな笑みを見せるだけだった。
「私とした事が、ついワームごときにムキになってしまったか……反省せねばなるまい」
既に晴れた煙の先、三影が居たはずのそこには、ぐしゃぐしゃに砕け、数メートルのへこみとなった床面が見えるのみ。
又、村雨が居たはずの場所にある同様のへこみの中心には、こちらは原型を留めているゼクロスが居た。
思わずエレオノールは息を呑む。
両腕は完全に炭化しており、左足は膝から千切れ、右胸部が側面から大きく抉り取られており、胴正面の装甲板は見るも無残に剥ぎ取られ内部をむき出しにしている。
左上頭部から左目にかけての部位が千切れ跳んでおり、また右目に当たるレンズのような部分は半ばまで割れ砕け、残りの部分にも無数のヒビが走っている。
確認するまでもない、誰の目から見ても明らかだ。

仮面ライダーゼクロスは破壊された。死んだのだ。

それで暗闇大使の溜飲は下りたのか、余裕の表情を取り戻している。
何せ反逆者達の最強戦力の一人をいとも簡単に粉砕せしめたのだから。
ミサイルの余波を受けぬよう部屋の端へと避難していた四郎に、暗闇大使は命じる。
「こちらはもう良い。ふん、まだゴミ共が蠢いているようであるし、貴様はエネルギー物質変換装置を守れ」
初めて見る暗闇大使の圧倒的な力に気圧されながら、四郎は頭を下げ指示に従う。
強化外骨格『霆』による分析によると、先ほどのミサイル集中打を受けた場合、『霆』とて破壊は免れえぬとの事。
タイガーロイドの火力とパピヨンの機転にも驚いたが、ここに来て更なる力を隠していた暗闇大使の奥の深さには恐れ入る。
暗闇大使はパピヨンとタイガーロイドの、予想以上の性能の高さが気になったのだろう。
大首領復活の為の手札の一つ、エネルギー物質変換装置は別室に置いてありこれを確実に確保しておく必要性があると考えたか。
四郎も同じ判断だ。
「しかし『凄』のボディ候補はまだ到着していない。こちらの確保が先ではないか?」
「ボディならそこにある。ここまで生き延びたのだ、どいつにもその資格はあるだろう」
倒れ動けぬパピヨン、その前に立つエレオノール。
確かにどちらもボディとしては悪く無い。暗闇大使が愚地独歩でなくても構わないというのであれば、逆らう理由も無い。
まっすぐ背筋を伸ばした姿勢のまま、四郎は剣を収める。
「承知した。エネルギー物質変換装置は私とその配下が守ろう。起動のタイミングが来たら連絡をくれ」
鎧姿のまま四郎は神の間から走り去る。

残されたのは暗闇大使、パピヨン、エレオノールの三人。
「さて、どちらがボディになるかだが……ここまで辿り着いた褒美だ、お前達に決めさせてやるぞ」
暗闇大使の言葉が酷薄に響く。
あれだけの戦力を見せ付けられては、エレオノールにもパピヨンにも打つ手など無い。
いや、パピヨンには幾つかのプランがあったが、どれも暗闇大使を黙らせられるような案ではなかっただけだ。
ここでパピヨンは一つミスを犯す。会話をかわす時間は、パピヨンの考える策を伝える時間に費やすべきだった。
「正義……って奴か、吐き気がするな」
エレオノールは緊張しきった面持ちで暗闇から目を離さない。
「いえ、そういう理由では無いと思います……おそらくですが」
「……なんだそれは、自分の事だろうが」
ちらっと、パピヨンに目線を向けたエレオノールの顔は、このような緊迫した状況でありながら、不思議とそれを感じさせない聖母のような笑みを浮かべていた。
「本当何故なんでしょうね。ふふっ、実は私にも良くわからないんですよ」
エレオノールは膝を曲げ、倒れるパピヨンの側に座り、赤子を抱くような繊細さでその顔に両手を回す。
透き通るような肌の色、頬に触れると少しひんやりとするも、まるで不愉快さを伴わず、愛おしげに肌を滑らせる。
「おいっ……」
左手は頭の後ろに、右手は首の後ろ辺りに回してパピヨンへの負担が無いように。
肌と肌が触れ合うと、首の後ろに痺れるような感覚が走る。こんな風に他人と触れ合った記憶など数える程しかない。
エレオノールの指から伸びる銀の光沢を放つ糸が、波打つようにパピヨンの顔を覆い鼻腔をくすぐる。
決して焦らず、ゆっくりと持ち上げた顔に、エレオノールは唇を寄せた。
「……っ!!」
口の中いっぱいに鉄の味が広がる。
常ならば嫌悪感に身震いしたであろうその行為も、エレオノールの醸し出す穏やかで慈愛に満ちた世界にほだされ、ごく自然に受け入れてしまう。
自分がエレオノールに呑まれていると気付いたのは、既に口腔内の何かを嚥下した後であった。
「キサマッッッッ!」
動かぬ体で精一杯の虚勢を張る。
それも彼女には通用しなかった。
顔を近づけた状態のまま、最後の祈りを口にする。
「……体が回復し次第、この場から離れて下さい。カクゴと貴方なら、きっとあの男も倒せると信じております……」
パピヨンの手にエンゼル御前の核鉄を握らせ、エレオノールは立ち上がる。
こちらに背を向けているのでその表情はわからない。
「さあ、私が相手です! しろがねとして数多の自動人形を屠ってきた私とあるるかん、見くびると怪我では済みませんよ!」
口上を述べ、迷う事なく暗闇大使へと向かっていくエレオノール。

何故だろう、これから死ぬというのに、あの女の背中はあんなにも喜びに満ちていると感じるのは。





伊藤博士は科学者らしい理路整然とした話し方で二人に説明する。
大首領とは意思を持つ莫大なエネルギーの塊である。
定型を持たぬ存在だが、ここは三次元である。物理的な影響を与える為には肉体に類する三次元的な何かが必要となる。
又、エネルギーが拡散しては存在しえなくなるので、大首領たるエネルギーの塊は一箇所に集中して存在し、分散させるような事は無い。
それがどの程度まで拡散してはいけないのか、全て同一座標に存在していなければならない程なのかは不明である。
現在、ツクヨミと呼ばれる同種の存在の作り出した牢獄に封じられている。
以前に、暗闇大使を使ってBADANを創設させ、見事ここから抜け出すも、十人の仮面ライダーの活躍によりBADANは壊滅、大首領は再度牢獄に封じ込められてしまった。
エネルギー総量は不明。予想される最低値と最大値を出してはあるが、最大値であった場合、大陸の一つや二つ一撃で消し去ってしまう程のエネルギー量となる。
そこで服部が口を挟んだ。
「ふむ。つまりここは地球なんやな。サザンクロスから離れた場所には人もおるんか?」
「我々で言う所の南アメリカという大陸のギアナ高地に結界を張り、そこでこの実験を行っている。もちろん他にもたくさんの大陸があり、人もそこに住んでいる」
赤木と服部の二人にも南アメリカという単語はわかる。
「そらええ知らせや。外の連中に救援頼むのは……やっぱ無理なんか」
「主力である仮面ライダーを失ったが、スピリッツというかつてBADANと戦った組織はまだ残っているはずだ。我々が最低限の事を成し遂げていれば、彼等が後始末をしてくれるだろう」
「その程度しか頼れんっちゅー事か。核鉄やらスタンドやらアルターやら改造人間やら吸血鬼やらみたいなごっついの無いん?」
「それを所持してるのがBADANだけだからこそ、BADANで改造を受けながら人類の為に戦う仮面ライダーのみが、彼等に対抗しうる切り札足りえたのだ」
服部は赤木を見て肩をすくめる。
そして伊藤博士の説明は大首領の復活方法へと移る。
一つはエネルギー物質変換装置を用いツクヨミの門を強引に開き、強化外骨格を纏った者に大首領を憑依させるやり方。
もう一つは大首領と99%のシンクロ率を持つ仮面ライダーゼクロスの精神と、幽閉されている大首領の精神とを入れ替えるやり方。
どうやっても99%止まりで100%にならぬシンクロ率と、ゼクロスの体内に埋め込まれたメモリーキューブの存在により、BADANは前者による復活を考えた。
大首領の元のエネルギー量の大きさのせいで、たった1%といえど無視出来る数値ではないのだ。
「……つまりゼクロスとエネルギー物質変換装置か強化外骨格を押さえれば復活は無い……と?」
「強力にこれを推進している暗闇大使の存在も同様に危険だ……が、奴は大首領の力により一度復活している。倒したとしても二度目が無いとは言い切れない」
頷いた後、赤木は更に尋ねる。
「では大首領を倒すにはどうすればいい?」
「それは現実的ではない……だが、理論だけで言うのなら、同量のエネルギーをぶつけてやれば消えてなくなるはずだ。正直それ以外の方法は想像もつかない」
「奴は魂の様な存在ではないのか? お前が用意した成仏鉄球で消せる、ないし弱らせる効果がある……と期待している部分があるんだが」
「霊的な存在に近いというのは認めるが、先人が成仏ではなく封印という手段を用いた事を考えるに、難しいと思う」
服部はうんざりだという顔で言う。
「つまり奴を張り倒すには、大陸ふっとばすエネルギーを用意するしかないってか? しかもそいつに指向性を持たせな意味無いんやろ?」
「だから現実的ではないと言ったのだ。世界中の電力を集めてもそんな量にはならないし、そもそもそんな量のエネルギーを貯めて置ける施設も、ましてや攻撃の為に変換する装置の心当たりも無い」
赤木は再度尋ねる。
「俺の世界には核ミサイルという物があった……そういう物はこちらには無いのか?」
伊藤博士は嘆息する。
「君の言う所の核ミサイルとは多分違うが、核融合はエネルギーとしては悪く無いと思う。それでも、それを含めての先ほどの話と理解して欲しい。大首領の規模でのエネルギーを扱うには技術レベルが足り無すぎる、そこまで辿り着くには後百年はかかる」
服部が伊藤博士の説明を補足する。
「色んな世界の技術を見た伊藤博士の判断や。これ以上は俺らにはつっこみようないで」
伊藤博士は決意に満ちた表情で赤木、服部に語る。
「異世界への移動手段は大首領以外操る事は出来ないが、BADANが既に入手している異世界の技術を研究出来れば、又別の選択肢も出てくるかもしれない。確実にモノにするには十年かかると思うがね」
ここが急所だ。自然と服部の視線も鋭くなる。
「前にBADAN壊滅させた挙句大首領封印した言うたな。そっからBADANが動き出すのにどのぐらい時間かかった?」
「……三年だ」
天を仰ぐ服部。
「封印何とかするなりでその期間伸ばせへんのか?」
「それもまた不確定だ。……が、それでもやるしかない。今各種研究データをまとめている所だ。これをスピリッツの科学者達に渡せれば、彼等ならきっとやってくれると私は信じる」
その他にも伊藤博士から、BADANが有する戦力や要注意人物の説明を受ける。
赤木が通信機から盗み聞いた情報と照らし合わせると、現在BADANの所有する戦力、そしてそれをどう運用してくるかの予測が立てられる。
この段になると、伊藤博士は黙って聞いていて時折注釈を加えるのみとなる。
彼は決して知能が劣っているわけではないのだが、物事を組み立て、推理する能力において、赤木シゲルと服部平次に及ぼうはずもなかったからだ。
敵戦力予測が一通り立て終わると、服部は髪をくしゃくしゃにしながら頭を掻き毟る。
「おし、ほならそのデータとやらは赤木、お前がもろうとけ。村雨はんは自力で何とかするやろから、俺はエネルギー物質変換装置ぶっ壊してくるわ。強化外骨格壊すよかそっちのが楽やろ」
事も無げにそう言い放ち、場所を伊藤博士に確認する。
最重要施設の一つであろうそこには、BADAN側もよりすぐりの護衛を用意しているだろう。
そんな場所に、服部は単身乗り込むと言っているのだ。
「服部」
「やかましい。俺よかお前のが弱いんやからお前は居残りや。伊藤博士は無事に外へ連れ出すんやで」
赤木は服部にシルバースキンの核鉄を放る。
「お前にはまだ先がある……ここで死ぬなよ」
「はんっ、死ね言うたり死ぬな言うたり、忙しいやっちゃで」
服部はつかつかと赤木の元に歩み寄ると、不意にその襟首を掴み挙げる。
「ええかよー聞け。お前は仲間が死ぬの当たり前みたいに言いよるけどな、俺はそんな風には絶対に考えん」
むき出しの感情を隠そうともせず、赤木を睨みつける。
「せやからBADANの連中何人殺す事になろうとお前には絶対に死んで欲しない! お前がBADANのクソ共にぶち殺される所なんて想像するだけで胸糞悪いわ! 理屈なんて知るか! 人殺しになろうと外道呼ばわりされようと嫌なもんは嫌なんや! 文句あるか!」
赤木は、おそらく生まれてこの方一度もした事のないような顔をする。
服部は赤木の世にも珍しい表情を見れただけで、一応満足したらしい。
「ほなな、ここまで来てポカんなや」
伊藤博士が幾つか用意した道具を受け取ると、後ろも見ずに走り去る。
すぐにバイクの音が響き、少しづつその音が遠ざかっていった。
伊藤博士はこれまでにまとめた分のデータ、手の平大のディスクを二十枚、赤木へと渡す。
「良い友人を持ったようだね」
「……そうだな、ああいう男は滅多に居ない……気持ちの良い男だ……」
赤木シゲルは無感情な人間ではない。
本物を前にした時、素直に感動する心を持ち合わせていなければ、人の心の奥底に踏み込み、読みきるような真似も出来ないだろう。
彼の洞察眼ははっきりと、それが服部の偽らざる本心であると見抜いていたのだった。





バスターバロンはボディの大半を蒸発させ、破片が大地へと降り注いでいる。
しかしコマンダーには安堵している暇も無い。
被害状況を聞くのが、いい加減嫌になってきた。
そんな愚痴もコマンダーの立場では溢せない。
ありったけ引っ張り出した怪人達も、損耗率が35%を越えてしまった。
これ以上の損害を出す前に、一時撤退し新たな策を練るべきである。
葉隠覚悟の力は、コマンダーの想定の遙か上をいっていたのだ。
画面に映し出された覚悟の動きをコンピューターにて精査させているのだが、これだけの長時間BADAN改造人間による総攻撃を受け続けているというのに、まるで動きが衰えない。
「この資料作った奴どいつだ! くそっ! こいつの何処をどう見たら無改造の人間に見えるってんだよ!」
覚悟の動作能力を監視していたオペレーターが怒りの声をあげる。
さもありなん、コマンダーとて同じ思いだ。
しかし指揮を執る者として、例え相手が人外、いや、この世の者ですらない大怪獣であろうと、対処せねばならない義務がある。
彼が考える最後の策、これをやってしまったら本気で暗闇大使に殺されると思う策が、遂に準備を終えてしまった。
自分で指示しておいて何だが、幾らなんでもやりすぎだろうと心底思う。
それでも葉隠覚悟を放置しておいては、これだけの能力だ、大変無礼な発想だとも思うが暗闇大使様ですら止められない可能性がある。
葉隠四郎から提供してもらった、強化外骨格に関する資料に乗っていた様々な武装。
葉隠覚悟はそんな武装すら使わず、己が肉体こそ誇るべき武器と言わんばかりに、格闘のみでこれだけの事をしでかしてくれているのだ。
コイツが強力な毒散布能力だの、射撃武装だのを使い始める前に、何としてでも仕留めなければならない。
「良しっ! 攻撃部隊撤収! 指定しておいた地点まで下がれ! 絶対に逃げ遅れるなよ!」
コマンダーの指示に従って怪人達が撤収を始める。
射撃能力を持つ者達が壁となり、全弾撃ちつくす勢いで必死に覚悟の足止めをする。
撤収口は一箇所のみ。複数作るには壁役が足りなすぎる。
残念だが、負傷して身動きの取れない者は見捨てるしかない。
思っていたより、追撃を行う葉隠覚悟の動きが鈍い。これなら……
「奇襲部隊攻撃開始!!」
コマンダーの号令が轟いた。

吹き抜けの頂上付近にある出口から、恐る恐るといった感じでコマンドロイドが戦場の様子を覗き見る。
彼の後ろには、がたがた震えている白衣の男達が五人。
「よ、よし。いいぞ。ここなら狙われる事もない……一人目、さっさと来い!」
順番は予め決めてあったようで、内の一人があからさまに嫌そうな顔をしながら進み出る。
コマンドロイドは緊張しきった様子で通信機に耳を傾けている。

『奇襲部隊攻撃開始!!』

通信機からコマンダーのGOサインが出る。
「よしやれ!」
白衣の男はもうどうにでもなれと、ヤケクソ気味に声を挙げる。

「武装錬金! ……んでもってジェノサイドサーカスはっしゃああああああああああああ!!」

ミサイルランチャーの武装錬金ジェノサイドサーカス。本来はこのように密閉された空間で使うような武器ではない。
いや、まあ、彼等の大将暗闇大使はがんがんミサイルをぶっ放してはいたが。
男の周囲に無数の巨大なミサイルが出現する。
それらは男の指示に従って一直線に、吹き抜け下層に居る葉隠覚悟へとすっとんで行った。
一度に大量のミサイルを作りすぎたせいで、ぶっ倒れる白衣の男。
「良し次だ! もたもたすんな! 下手に間を空けでもしたらあの覚悟とかいうのがこっちに突っ込んで来るぞ!」
コマンドロイドの脅しだか自分が怯えてるんだかわからない言葉は結構な効果があったようで、白衣の男達は手際良く核鉄を手渡し、ミサイルを放ち続ける。
最初の男は気合を入れすぎであった。
残る四人は科学者らしい、計算された丁寧な精製と射撃を繰り返す。
最初の一撃で、下層の半ばは崩れ落ちている。
彼等は吹き上がる煙でロクに先も見えなくなったソコに向かって、何度も何度もミサイルを放ち続けた。



『覚悟! 敵が引くぞ! 一度お前も下がれ!』
もう何度目になるかわからない、退却の指示を覚悟は聞いていなかった。
しかし、殴るべき相手が周囲に居ないと気付くと、そこでようやく動きを止める。
流石の覚悟も激しく肩が上下し、荒い息を漏らしている。
周囲には覚悟が倒しに倒した怪人達の亡骸が所狭しと並んでおり、それらを踏みしだかなければ歩く事もままならない程だ。
ひたすら修行に明け暮れた日々、それが覚悟の命を救っていた。
激情に駆られ、闇雲に暴れ周りながらも、覚悟の体は零式の動きを決して忘れず、正確に、確実に敵を打ち倒していったのだ。
零はこの機会に覚悟の冷静さを取り戻すべく、更に大声を上げる。
『聞け覚悟! このまま戦ってはならぬ! お前は我を失っている! そんな様で戦いに望むなぞ戦士のやる事ではないぞ!』
漸く、本当に漸く覚悟の瞳に意思の輝きが見え始める。
「……零……俺は……」
『良い! 今は……』
そこで一度言葉を切る零。彼のレーダーに、突如危険極まりない物体が出現したのだ。
『馬鹿なっ! このような場所であの規模のミサイルなぞ! 避けろ覚悟!!』
僅かに冷静さを取り戻していた覚悟も、そのミサイルには気付く。
そして、そのミサイルの全弾を弾き返す事が不可能な事にも。
零の指示を再び無視し、覚悟は走る。
『覚悟! 何処へ行く! そちらに行っては逃げられ……』
零も覚悟の目指す物が何なのかに気付き、愕然とした。

「ヒナギクさんっ!!」

覚悟はヒナギクの遺体を庇うように覆いかぶさり、そのままぎゅっと抱きしめた。

『この愚か者がっ! 逃げろ覚悟おおおおおおおおお!!』

覚悟の周囲にミサイルが降り注ぎ、閃光と爆風が覚悟を包み込んだ。




俺は、皆を守りたかった……正義を、示して見せたかった……

それでも、俺には力が無くて、こうして抱きしめる事すら、出来なくて……

何故貴女達が逝かねばならないのか……死すべきは戦士である私ではないか……

私は貴女を、いや貴女だけではない、皆を戦士として認めていた……

なのに何故だ。戦士が戦い倒れるは武門の誉れであるのに……


……どうしてこんなに悲しいんだ……



数え切れない爆風と衝撃に晒されているのに、それらが何処か別世界の出来事のように感じられる。
戦士として生きるべく積み重ねてきた心構えは、長い長い間覚悟の身を支えてくれていた。
零式の教えに従い、生き続けていれば必ずや正義は報われると、信じていた。
例え無限の悲しみ、苦痛であろうと耐え切ってみせると自負していた。
しかしそれは限りのあるもので。
葉隠覚悟の心には、自分でも知らぬ限度があって。
知らず積み重なった悲しみは、遂に教えを押しつぶしてしまった。
それとわかっていながら、零式の教えに背き、ただ心の赴くままに、動いてしまった。
他に、どうしようも、どんな事もしえなかったのだ。
いくら努力を積み重ねても、俺は絶対の存在なんてものにはなりえない。
どれ程強い心を持とうとも、どれほど強い信念に支えられていようと、より大きな悲劇に見舞われれば容易く崩れ落ちる。
痛い程思い知らされた。

二度と忘れない。



ミサイルの雨が止んでも、覚悟は瓦礫に埋もれたままぴくりとも動かなかった。
その体勢のまま、零にしか聞き取れぬような掠れ声で語る。
「零。俺はもうお前を纏う資格を持たぬ。見捨てるのならば恨みはせぬから、そう言ってくれ」
『覚悟よ、それは戦う意思を失ったという事か?』
腕の一振りで瓦礫を跳ね飛ばして立ち上がる。
「いや、俺はそれでも戦おうと思う……」
一度だけ、ヒナギクの遺体を見下ろし、心の中だけで別れを告げる。
「……それが、戦うという事だと、俺は思う」
歩き出す覚悟。
『……忘れるな覚悟。我等は一心同体。覚悟の過ちは、それ即ち我等の過ちである事を……』
あまりにも零らしい言葉に、覚悟は深い感謝と共に大きく頷いた。





「あるるかああああん!!」
自らを鼓舞するようそう吼えながら、エレオノールはあるるかんを暗闇大使へと差し向ける。
あるるかんとエレオノールが同軸線上にならぬよう、位置を考え斬撃を加える。
狙うは殻の無い下半身や正面だ。
暗闇大使は体を軽く振り殻を剣に当てるだけで簡単にエレオノールの攻勢を凌ぐ。
反撃とばかりに右腕を振るが、あるるかんはそれを両腕を交差させて防ぐ。
これを受け止めるぐらいの力はあるのかと、感心したように暗闇大使は笑う。

先ほどとは明らかに暗闇大使のパワーが違う。
では暗闇大使は手加減をしているのだろうか。
確かにそういう見方もある。
しかし実情は少々異なっていた。
暗闇大使は体内に自ら精製したエネルギーを大量に溜め込めるよう造られている。
これは時間と共に増加してくが、現在の総量は当然決まっている。
ならば精製速度以上に消費した場合は、この総量が減っていく理屈だ。
ゼクロス、タイガーロイドと二人を同時に粉砕する程のエネルギーを消費した直後である。
その総量も当然減っているのだ。
にしてもまだまだ全開での活動可能時間は残っているが、用心深い暗闇はこれを闇雲に浪費する事を嫌う。
先ほどの過剰とも思える程の消費は、頭に血が上ってしまった故の愚考であったと反省すらしているのだ。
怒りの余り一度に消費出来る最大値を後先考えずに振りまけば、そういう気にもなろう。
今までの力の限り暴れまわっても決してエネルギー切れなどにはならないような改造とは違い、
よりピーキーな改造を受けた暗闇大使にはそういったバランス感覚も要求されているのだ。
当初は余りに面倒なので、科学者達にエネルギー管理をさせようとも考えたが、他人が信頼出来ない故にほどこした強化改造で他人を頼りにするなど本末転倒も良い所だ。
これも大首領復活に必要な事と自分に言い聞かせて現在の状況を受け入れている。

「これが人形か。悪く無い性能だが……」
暗闇の鞭があるるかんをすり抜けてエレオノールに迫る。
エレオノールは運糸を止める事なく真横に跳んでかわす。
「本体がむき出しではな。それに糸も短すぎる、自動人形にすら及ばぬわ」
エレオノールに遊ばれている自覚もある、だがそれならば好都合。
時間稼ぎがエレオノールの目的なのだから。
パピヨンに与えたしろがねの血と核鉄は、遠からず彼の体力を蘇らせてくれるだろう。
相手は村雨をあのようにした悪漢、諸悪の元凶たるBADANの、おそらく高い地位にある者。
とても許せる相手ではない、この者と同じ空気を吸っていると思うだけで吐き気がする。

そんな相手でも、私は役目を果たしましょう。

「ではご自慢のミサイルでお試しになられてはいかがでしょうか」
芸人はまずショーの表情から習う物、きっと私は何時も通りうまく笑顔であれたと思う。
暗闇大使は興が乗ったとばかりに手を叩く。
「よかろう」
エレオノールの要望通り、背後の殻から十発のミサイルが放たれる。
すぐにエレオノールはあるるかんに飛び乗り、そのままあるるかんを大きく真上に飛びあがらせる。
「その程度でかわせるとでも思ったか?」
まだまだミサイルとの距離に余裕がある。
ミサイルはあるるかんを追って斜めに進路を変える。
空中で身動きすらままならぬ体勢。そこでエレオノールはあるるかんの肩に乗ったまま、全ての弾道を見極める。
『この数ならば……っ!!』
笑顔の仮面は被ったまま、真剣そのものの目で番組ラストまでの流れを作り上げる。
既に跳躍の頂点を達してしたあるるかんは、ゆっくりと下降するのみ。
エレオノールはあるるかんの腕の動作に集中する。
直撃弾のみに絞っても全部で七発。
同時に見えるミサイルも僅かだが着弾にタイムラグがある。
それに合わせて攻撃順を定め、二本の腕で、ミサイルの横腹を撫でるように強く押し切る。
押し切れなければミサイルは命中する、かといって一つのミサイルにかけられる時間もごく僅かだ。あまりに強く押すと今度は爆発の危険性もある。
精妙な技巧を要するこの作業を、エレオノールは淡々とこなしていき、遂に全てのミサイルを捌ききって着地する。
素早く攻撃的な動きではない、滑るようななめらかで繊細な挙動である。
そこには攻撃兵器では決してありえぬ優雅さと、美しさがあった。
暗闇はそれがどうしたと言わんばかりに鼻を鳴らす。
「ふん、では……」
それを、エレオノールが前に突き出した指先が遮る。
一本突き出した人差し指がゆっくりと左右に振れる。
「いけません。二倍や三倍程度では貴方はきっと驚かれないでしょう。ですから……」
両手を大きく広げ、大仰にアピールする。
「次は十倍! 百発のミサイルをお願いします!」
嘲笑や挑発とはまた違った響き、内容は噴飯ものだが、何故かそこから悪意は感じ取れない。
怒りからではなく興味から、暗闇はエレオノールの言葉に乗る。
「いいだろう。加減はしてやらぬぞ」
「得と御覧あれ」
言葉の語尾に重なるように、暗闇大使から無数のミサイルが放たれる。
エレオノールはあるるかんの両腕に乗ったまま、首を僅かに傾げ、まるで無邪気に駆け寄る子供達を相手にするかのように、笑い迎え入れる。
ここで間合いを計り損ねれば、次からの難易度が格段に跳ね上がる。いや、そもそも実行不可能となってしまうかもしれない。
集中して暗闇大使の発射タイミングを読みきらんとする。
一瞬、ここぞと見極めた間合いであるるかんを操る。
しゃがみ込んでいたあるるかんは、足、腰、腕、を順に勢い良く伸ばし、満身の力を込めて腕に乗ったエレオノールを天高く放り投げる。
自らも腕とタイミングを合わせて飛びあがり、あるるかんの腕から足が離れた瞬間に、両手にはめていた操り糸を抜く。
神の間の無意味(意味はあるのだが)に高い天井の頂点まで届かん勢いで跳ね上がったエレオノール。
ミサイル群は地上に残っていたあるるかんに命中。これを完膚なきまでに破砕。
残ったミサイル達は、爆煙の中を直上に向けて方向転換。あるるかんを犠牲にしただけでは三分の一も減らせなかった。
エレオノールが跳躍の頂点に達した頃には、残ったほとんどのミサイルが確実にエレオノールに狙いを定めており、あるるかんも無いエレオノールはただただ中空から落下するのみ。
初弾到達タイミングは、エレオノールの予測を大きく外れる事は無かった。
エレオノールの落下速度はぐんぐん上がっていく。
一発目、ここから下はミサイルの壁である。
足先をミサイルの表面を滑らせるように壁に差し入れる。
腰を捻り、飛ぶミサイルの横を撫でる僅かな軌道修正にて壁の僅かな隙間をすり抜ける。
不意に腰を折りたたみ、上半身を真下に、手先が足先に付く程に折り曲げるも、エレオノールの体の太さはまるで変わっていないかのように見える。
水が流れるように足先を天井へ、手を地面へと向けつつ大き目の頭部を捻り、ねじ込むようにミサイルの隙間に入れ込む。
目まぐるしくエレオノールの上下は入れ替わるも、それによって幅が広くなるような事はない。
あくまで針先を布に通すがごとく、細長く滑り込ませながら落下していく。
最後のミサイル壁は地上まで後二メートルと迫った位置。
ここで最後の回転。このタイミングで頭部を下にもっていっては、あの高い場所から落下している速度を受け止め切れ無いはず。
いや、そもそもあれだけの高度から落下して、着地など出来るものなのか。
出来る。エレオノールはそれまでに充分な減速を、ミサイルに何度も何度も触れる事で行ってきたのだ。
エレオノールの美しい銀の髪が地表を嘗めるように滑り、両手両足が大地に落着。
その姿は、一つの番組が終わり、礼をする芸人の姿に酷似していた。

目標を寸でにて失ったミサイル達は、上空で相互にぶつかりあって爆発を起こす。
着地したエレオノールにもその爆煙は降り注ぎ、彼女の姿を隠した。
暗闇大使は、煙のどこから飛び出すかと目を凝らす。
神の間の広大さ故、煙が全てを覆いつくす事も無く、暗闇大使の周辺にまで影響はなかったのだ。
10秒……20秒……エレオノールはまだ出て来ない。
薄くなってきた煙のせいか、その奥に人影がある事に暗闇大使は気付く。
あの場所はエレオノールの居た場所、ならばそこに居るのはエレオノール以外ありえない。

が、その場に立って、惚けた顔をしてみせている彼女は、先ほどのミサイルをかわして見せたエレオノールとはまるっきり別人に見えた。

ぶかぶかの衣服は、原色を主に目立つ事を考えて彩られ、かといって美麗かというと決してそんな事はなく、むしろ滑稽なイメージがある。
煙に隠れている間に何をしていたかと思えば、エレオノールは衣装を着替えていたのだ。
「ようこそようこそお客様、しばしお付き合い下さい。あたしはピエロのエレオノールです」
丁寧にお辞儀をするも、さっさかと動き回る動作のおかげか、エレオノールの容姿でそうして見せてるにも関わらず、綺麗、という印象は受けなかった。
「ピエロのショーは本来パントマイムが基本ですが……あたしはおしゃべりが大好きでして。こうしてしゃべるのをお許し下さい」
両手を上に挙げてぽーんと跳ねながらそう言う様は、これが戦闘の最中でなければ思わず合いの手を入れてやりたくなる程親しみの持てる所作である。
「今日はちょっと珍しい、強く逞しいピエロを見てもらいましょう」
わざとらしすぎる動きで力瘤を作る真似をする。
「このピエロ。姿かたちは可愛らしい何処にでも居るピエロですが、何と何と、世にも珍しいつよ~いピエロなのです」
腕を組んで三回大きく頷く。そんな様からも滑稽さがにじみ出てくるから不思議だ。
「そこで! その強さをお見せするべく! 今度は貴方様の強くしなやかな鞭にてピエロを狙っていただきましょう!」
口上の繋げ方がスムーズすぎて、暗闇大使が言動を挟むタイミングが極めて限られてしまう。
暗闇大使の鞭は、放った先である程度のコントロールが可能だ。しかも先端のみならず延びた鞭全てに効果的な打撃を望める。
ある程度の速度と回避能力を持った相手には、ミサイルの束よりよっぽど当て易い武器である。
しかも、当てるのみならず見事拘束してしまえば、ほぼそれで決着がつくと言っていい。
鞭を通して放たれる電撃は、ゼクロスですら動きを止めてしまう程の威力を誇るからだ。
一瞬、ここで不意打ちとばかりにミサイルを撃ったら愉快であろう、とも思ったが、この鞭でどうするつもりなのかも気になっていたので、やはりここは鞭で行こうと暗闇大使は鞭を振り上げる。
そういった思考が既にエレオノールの術中であったのだが、暗闇大使は気付けない。
「では、よーいどんでお願い……」
暗闇大使が鞭を振り上げるタイミングにあわせ、口を開き出すが、暗闇大使は既に鞭を振り上げ、振り下ろした後だ。
「わひゃあっ!?」
大慌てで鞭をかわすエレオノール。
みっともなく尻餅を付きながら抗議するエレオノール。
「よ、よーいどんって言ってからですよぅ! じゃ、じゃあ次はしっかりお願いしますね」
それこそ暗闇大使の知った事ではない。というより、エレオノールの惨めな様を見ていると、むしろ言う事なんて聞いてやりたくなくなってくる。
「でででは、改めましてよーい……」
びしーっ。
「うわっひゃひゃ、ですからよーいどんの後ですってば!」
びしーっ。
「おっひょー! よ、よーい……」
びしーっ。
「はやすぎっひ! よー……」
びしーっ。
「いーわーせーてーくーだーさーいーよー」
暗闇大使は、既に周囲も憚らず大笑いしている。
彼の鞭をかわす事、それは見た目にも難しそうなのだが、それ以上に厳しい条件が多々あるのだ。
エレオノールはこれらを、滑稽にかわさなければならない。
楽な攻撃だなどと口が裂けても言えない。
鞭としての動き以外に、どうも暗闇大使の意思で鞭の先端が自在に操れるようなのだ。
更に時折混ぜてくる電撃を通した鞭は、かするだけで衣服が焼け焦げるようなシロモノ。
暗闇大使自身の能力の高さも相まって、これを何時までもやり続けられる自信はエレオノールとて持てない。

『だから次の一撃が正念場。しかし、私は見事やりおおせてみせます。何故なら……』

壁際へと追い詰められたエレオノール。
番組の流れは既に暗闇大使にもわかっている。次が最後の一発となろう。そういう構成でこの戦いは作り上げられていた。
エレオノールが動いた瞬間鞭を放って、それでフィニッシュだ。
最後の動きは少し意外であった。エレオノールは真上に大きく飛びあがったのだ。
だからといって的を外す暗闇大使ではない。これで終わりと、最後の鞭を放つ。
彼の鞭先は自在に操れる。だから、ギリギリまでかわす事は出来ない。
まっすぐにエレオノールの頭部目掛けて鞭が伸びる。
これをかわしても、暗闇の反射神経ならば、かわした先に鞭の軌道を変えて追う事も可能だ。
だから、暗闇大使すら欺く程の速度で、当たったと確信し得るタイミングで動かなければならない。
顔をかするのも論外だ。血が噴出してはそれは最早サーカスではなくなってしまう。

ズドンッ!!

鞭の軽やかな動きに反して、重苦しい打撃音が響く。
暗闇大使の鞭は決して軽くはなく、その一撃は岩をも貫く威力を秘める。
現にこうして、鞭は背後の壁に深々と突き刺さっているではないか。
最後の一撃をかわして着地したエレオノールは、すぐさま鞭に手をかける。
目の前でやられてもどうやったのかまるでわからない挙動で、あっと言う間に鞭に上に立つと、そこでまた両手を真横に広げる。
その最中にピエロの衣装を脱ぎ捨てるなんて芸当までやってくれた。
細長い鞭の上にも関わらず、まるで体重など無いかのごとく、まっすぐに直立するエレオノール。
一転して張り詰めた雰囲気に満ちた空間。
見る者の意識が次の行動へと移行しかけるその絶妙の間合いを図り、エレオノールは動いた。
足を伸ばしたまま、ゆっくりと鞭に手を突き、着いた手を基点にゆっくりと足を持ち上げる。
鞭のたわみはほんの僅か、それだけでゆっくりゆっくりと足を振り上げ、逆立ちの姿勢を取る。
僅かな間の後、同様にゆっくりと足を鞭へと降ろす。膝も肘も伸ばしたままなので、ちょうど腰の所から折り曲げたような形だ。
二回、三回、繰り返す度に速度が上がって行く。
足を着いた位置と手を着く位置がほとんど一緒であった為、少しづつしか前へと進まないが、それでも、着実に暗闇へと近づいている。
五回転目で、暗闇大使ははたと気付いて鞭に電撃を流す。
それが合図だ。
突如速度を跳ね上げたエレオノールは、目にも止まらぬ回転速度で一気に暗闇へと回り寄る。
エレオノールの不意打ちに驚いた暗闇は、電撃を放ちつつ鞭を抜こうとするが間に合わない。
電撃が通る鞭の上、そこに一瞬とはいえ手や足をつかなければならないのだ。
それに僅かな接点から流れ込む電撃は、容赦なくエレオノールの全身を走り回り、動きを止めんと暴れ続ける。
それでも、エレオノールは止まらなかった。

『どんなに条件が悪くとも! 観客の見てくれている中、途中で芸を投げ出すサーカスの芸人など居ませんっ!』

暗闇大使の眼前まで迫ったエレオノールが不意にその視界から消え失せる。
慌てて周囲を見渡すが見つからない。当然だ。エレオノールの体は宙を舞い、暗闇大使の背後に背を合わせるように着地したのだから。
右腕を胸元へと引き、左腕は斜め下へと伸ばす。そして右足を左足の後ろに引きながら、深々と礼をする。
エレオノールの芸、唯一の観客へと向けて。
その姿勢のままエレオノールは首だけを上げ、これは演技ではない、満面の笑顔を見せた。

「いかがでしたでしょうかパピヨン。元気、出ましたか」