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PARTⅡ 二〇〇一年 四月二一日 PM7:25 [-Tokyo- Kamisaka's home]   今や元弁護士となった規崎達彦の逮捕は、多くのマスコミを騒がせるに十分すぎる出来事だった。  代議士が弁護士に殺害されたという、今の日本には珍しいこの事件は、事件発生初日より更に大きく取りざたされていた。  テレビでは二時間枠の特番が組まれ、神坂憲一と規崎達彦の関係を事細かに暴露していった。  ほとんどの番組では達彦のことを、師を裏切り殺害した非情な男として解説され、未だ謎である動機について様々な憶測を飛ばしていた。  しかもマスコミは、この事件によって身内を亡くした家族達のことを、見逃すことはなかった。視聴率を稼ぐために、あらゆる物事に貪欲になる彼らは、神坂兄妹にインタビューを強いたのだ。  彼らのほしい絵は事件の真相に打ち震える身内の涙であり、それによって視聴者の涙を誘おうという目論見だった。  規崎達彦の報道圧力が氷解した今、彼らの行動を押さえる者は皆無であった。  神坂家には連日報道陣が押し掛け、公史と唯はまともに外にも出られず辟易していた。 「鬱陶しいやつらだな、畜生!」  公史はカーテンを閉め切ったリビングで、テレビに悪態をついた。  マスコミの追跡のせいで中断していた就職活動が思うように進められず、彼は明らかに苛ついていた。達彦が逮捕されたことはさすがにショックだったが、それ以上に彼に群がる記者達に腹を立てていた。  彼らは勝手に公史の身辺調査をし、残された妹のために大学を辞めたと知ると、妹思いの立派な兄として賞賛した。  しかし公史当人にとっては余計なお世話といいたいところである。  テレビ画面には今、神坂家の外観が生放送で映し出されていた。 「勝手に人ん家をうつしやがって!」 「まぁまぁ、お陰で防犯は完璧なわけだし。気にしない気にしない」  公史の横でごろごろとマンガを読んでいる唯が、彼女の兄の苛立ちを諭した。そんな唯に公史は渋い顔を見せるが、唯は本から視線を離すことはなかった。 「お前は平気なのか?」 「平気じゃないよ。でもしょうがないじゃないじゃない? 一週間もすればほとぼりも冷めるよ、きっと」 「っていうことは 一週間も家に閉じこもりっきりか? 冗談じゃないぜ!」 「どうしても外に出たい時は、こっそり出ればいいじゃない?  いざとなったらお兄ちゃんもいるしさ」 「俺はお前のボディーガードじゃないんだぜ」 「でも助けてくれるんでしょ? 妹思いのお兄さん?」  唯は公史を見上げると、意地の悪い笑みを浮かべた。そんな唯に公史は舌打ちをすると、横目で睨む。 「誰が妹思いだ。勝手に想像膨らませやがって。  お陰で全国に俺の隠れた優しさが、広まっちまったじゃねぇか」 「はいはい」  公史のふざけた台詞を軽く聞き流した唯は、両足をパタパタと交互に動かしながら、またもやマンガ本に視線を戻して、わざとらしく大きなあくびをした。  公史は妹の白けた態度に思わず吹き出してしまった。自分でもおかしな事を言っているとわかっていたので、彼女の期待通りな態度が心地よかった。 「でもお前、案外冷静だな」 「ん?」 「達彦さんが逮捕されたのにさ。俺はてっきり又落ち込むかと思ったよ」 「だって何かの間違いだもの」 「そう思うか?」 「当たり前じゃない」  公史の疑問に至極当然のように言ってのけた唯は、未だ考え込んでいる彼を見て起きあがると、困ったような表情を浮かべた。 「まさかお兄ちゃん、疑ってる?」 「いや、そんなことはないけどさ」 「疑ってるじゃない」  公史は自身の疑心をズバリと唯に言い当てられて、二の句も告げることが出来なかった。  彼も勿論、何かの間違いだと思いたかったが、心の何処かで達彦を疑っていた。いくら親しい関係だったとはいえ、所詮外面の出来事でしか判断できない。  公史は達彦の内面を熟知しているという自信がなかった。 「なんでお前はそんなに人を信じられるんだ?」 「そんなことない。私だって不安だよ」 (いつだって、不安だよ)  常に不安と共に過ごしてきた唯にとって、人を信じるということは非情に勇気がいることだった。  だが彼女は不安ながらも、人を信じようと努力していたのだ。 「人なんてさ、目に見えないモノを見るなんて不可能だよね」  唯は両膝を抱えると、天井を見上げて語りだす。それは公史に向けてと言うより、彼女自身の心に語りかけているように思えた。 「でもさ、だからといって人を信じられないなんて、嘘だと思うんだ。  知らなくて当然だよね。ってゆうか、知ろうとするのが間違いなんだよ。きっと。  だから私は知るんじゃなくて、理解したいと思う」  公史はじっと黙って唯の言葉に聞き入っていた。その言葉には、いつも前向きに考えようと努力する彼女の意志が見え隠れしており、辛くても挫けないという覚悟があった。  公史はけなげな妹に微笑むと、大きな手で彼女の頭をぐしゃぐしゃと荒っぽく撫でた。  それは、いつの間にか後ろ向きの気持ちになっていた公史が、そのことに気付かせてくれた唯へのお礼だった。  唯は、ボサボサになってしまった髪を気にもとめずに微笑み返すと、いつの間にか流れ出ていた涙を手の甲で拭う。 「いまでも泣き虫は直らないな」 「そうかな」 「でも、ずいぶん強くなった」  これが今の公史の素直な気持ちだった。  今までの公史が持っていた妹のイメージは、臆病で怖がりというものだったが、先ほどの彼女を見ると、臆病な中にもほのかな強さを感じることができる。  これは喜ぶべき事だったが、公史は一抹の寂しさを感じてもいた。いつも守っていた妹が、彼女自身での力で立ち始めようとしている。  いくら兄妹でも別れの日はあるもので、その日が着実に近づいていることを、公史は実感してしまったのだ。 「ま、でもまだ子供だけどな」  突然沸いた感情を隠すように意地悪く微笑むと、公史は唯をからかった。 「そんなこと無いよ!」 「ガキだって言われてムキになる奴は、ガキなんだよ」  兄にやりこめられて、唯は拗ねたような表情を見せた。そんな彼女を見て、公史が笑う。そして、公史につられて唯も笑った。それは彼らが今まで切望していた心の底からの笑いだった。  そのとき、家族が欠けた冷たい家で、暖かい何かが二人を包んだ。  それは唯が言う幸せそのものであり、公史が大切にしている守るべきものであった。  神坂兄妹がいずれ離ればなれになろうとも、不変の何かがそこにはある。    一方つけはなされたテレビでは、女性レポーターが悲しみを含んだ表情でレポートをしていた。彼女の背には古い家屋が佇んでおり、白い光に照らされて不気味な静けさを強調していた。  女性はマイクを持ち直すと、その表情とは場違いな張りのある声で、カメラに向かって語りかけた。 「ここが、規崎容疑者に殺害された神坂憲一氏の自宅です。いまここには、神坂代議士の遺された、ご家族が住んでいます。  ご家族の方々は未だ悲しみに沈んでいるのでしょうか、ごらんの通り辺りは静寂に包まれ、事件前までは笑い声が溢れていたでしょうこの時間でも、シンと静まり返っています……」 二〇〇一年 四月二四日 AM7:00[-Tokyo- Kamisaka's home]   公史は朝早くにベッドを抜け出すと、早々と出かける準備をした。  達彦に感じていた疑惑を唯に拭い去られた後、彼はある決心を胸に秘めていたのだ。  それは事件の真相を自ら見つけだすことであり、妹の信じていることを確信に近づけさせたいという、彼の願望から導き出された答えだった。  彼自身、まさかドラマの主人公みたいな真似をするとは思ってもみなかったが、警察があてにならないとわかった以上、自分で行動を起こすしか方法はなかった。  一時は唯の入院で世話になった、加藤京介とか言う刑事に協力を得ようかと思ったが、彼の想像の中では警察とは一枚岩の存在であり、達彦を冤罪の罪で補導した一味としてしか認識していなかった。 「んじゃ、行って来るぜ」  公史は、隣の部屋で眠っているはずの妹に声をかけた。実際に声をかけなかったのは、唯に心配をかけさせないためだ。  暫くして簡単な身支度を終えた公史は、自分の部屋をそっと出ていくと、一階に降りて居間のカーテンを少し開けた。外には未だ報道陣が神坂家を見張っており、無防備に出てゆけば向こうの餌食になりかねない。  しかもこれから彼がやることは、合法的とはお世辞にもいえず、彼らに付いてこられると少々面倒なことになるのは簡単に予想できた。  ここはなんとか彼らに気付かれずに、家を出たいところだが……。  公史はカーテンをから離れると、ため息をつきながら頭をかいた。さっそくこそ泥のような真似をしなくてはならないことが、煩わしく思えのだ。 「まさか変装セットが必要になるとは、思わなかったなぁ」  事件捜査については全くの素人である公史にとって、テレビドラマが唯一の教本だった。もちろんフィクションだと解ってはいるが、そうでもしないと行動の組立が出来ないのだ。  公史のみたドラマでは、主人公は報道陣を騙すのにサングラスをかけ、帽子を目深にかぶっていた。その主人公は女性だったように思えたが、公史はどちらでも同じだと割り切っていた。  そして公史は足早に部屋に戻ると、自前のサングラスとつばの広い帽子をかぶって玄関に向かった。  そんなことをしているうちに、不謹慎ながらも気分が高揚してくる。ゲーム感覚に似た感覚が彼の表情に笑みさえ浮かべさせた。  しかしそれも、玄関につくまでだった。  いそいそと外に向かう公史が、ドアノブに手をかけたと同時に話しかけて来た者がいたのだ。 「どこいくの?」  不気味な静けさをたたえたその声は、彼の真後ろから聞こえてきた。ビクッと体を震わせた公史は振り向くことも出来ず、その場で立ちすくむ。 「や、やぁ唯。おはよう」 「おはよう」  直立不動状態の公史は、額に汗を滲ませながら、真後ろで睨んでいる唯に話しかけた。しかしそれが彼女の針のような視線を和らげることはなく、いっそう鋭さを増す結果に終わったようだ。 「で? どこいくの?」  再度同じ質問を繰り返す彼女に、公史は完全にのまれてしまった。それでも固まって動かない体をゆっくり振り向かせる。  彼の眼前には案の定、怖い顔をして腕組みする妹が仁王立ちしていた。なぜか学校の制服姿だったが、その疑問は唯の厳しい表情に霧散してしまった。 (とりあえず、この場から逃げよう)  そう思った公史は、愛想笑いを浮かべながら即座に判断した。こういう事にかけては、頭の回転が速まる。 「いや、ちょっと散歩しようと思ってさ。なんか最近、鬱憤のたまることが多すぎだし」 「朝のお散歩する暇があったら、寝てた方がましって言ってたお兄ちゃんが?」 「ああ、うん。まぁ昔はそんなことを言っていたような気もするけど、ちょっと思い至ってな」 「サングラスと帽子かぶって?」 「紫外線はお肌の大敵だぞ」 「そんなこと、今まで気にしたことないじゃない?」  へらへらと笑いながら取って付けたような言い訳をする公史に、唯は更に目つきを鋭くした。彼女の大きな目は細められ、殆ど三白眼状態だ。 「また危ないことするつもりでしょ」 「そんなことないぞ」 「じゃぁ私の目をみて」  拒否を許さない唯の口調に、公史は恐る恐る視線をあげた。そして、まるで悪戯を母親に見つかった子供のように、首をすぼめる。  唯はその怒った表情を変えず、罪悪感に染まった公史の瞳を射抜いた。 「お兄ちゃんが何をやろうとしてるかぐらい、私、わかってる。達彦さんの事、たしかめにいくんでしょ?」 「ごめん」  もう隠し通すことなど不可能と悟った公史は、素直に謝罪した。ただ謝っても、諦めようなどとは思わない。  今は怒っていても、唯なら何時かわかってくれると思っていた。 「で、その格好はどういうつもり?」 「いや、外のマスコミをまこうと思って」 「あのね」  唯は呆れたようにため息をついて公史に詰め寄ると、公史のかぶっている帽子を取り上げた。 「こんな赤い帽子なんか、目立つだけじゃないの!」 「そうか?」 「それに趣味の悪いサングラスなんてして。これじゃ外の人たちを誤魔化しても、警察に捕まっちゃうわよ? 変質者と間違えられて」 「そんなに趣味悪いか?」 「最悪」  唯の遠慮しない言いぐさに、さすがの公史もムッとした。達彦の冤罪を暴こうと思い至った経緯に、唯が大きく関わっているのだ。  ただそれは、公史の勝手な思いこみだった。それがわかっていながらも、憤りを感じるのは人として致し方のないことだろう。  憮然として黙り込んだ兄に、唯は不意に微笑むとドアノブに手をかけた。今まで重くのしかかるような空気が、一瞬にして消え去る。あまりの唐突な出来事に、公史は呆気にとられて目を丸くした。 「おい、どこ行くんだよ」 「ん? 学校だけど?」  このとき公史は、今日が平日であるという事に気づいた。そして七時という時間が、決して早い時間ではないということも。 「じゃ、行って来ます」 「お、お前、学校に行くにしては早すぎないか?」 「今日は日直だから、私。と、いうことにしておく」  唯はそういって戯けたように舌を出すと、玄関脇に立て掛けてあった鞄を持って玄関のドアを開けた。しかし不意に振り向いて、真面目な顔をして公史を見上げる。 「くれぐれも、危ない事しちゃだめだよ」 「あ、ああ」  公史は気の抜けたような返事を返すと、それを確認した唯は微笑んで、もう一度「行って来ます」といって出ていった。  扉が閉まるのを、公史は未だ呆けて眺めていた。唯の行動の意味を、鈍くなった頭脳がやっと解析を始める。  そしてその意味を解したとき、公史は慌てて勝手口へ走り出した。  玄関とは正反対の裏口から静かに外へ出た公史は、今では珍しい木の柵を乗り越えると、辺りに気を遣いながら足早に家から離れていく。唯の作戦が功を奏してか、報道陣に見つかることは無く、公史は複雑な思いで駅のある方角へ歩いていった。  定刻より少し早く学校に着くことができた唯は、友人たちと挨拶を交わしながら教室に向かった。  兄のために報道陣の質問攻撃を一身で受け止めた彼女だが、疲れた様子も微塵にも見せずにいつも通りの明るさを振りまいた。  一時は義父の死や達彦の逮捕で、唯の周りもにわかに騒ぎ始めていたが、彼女の変わらぬ態度から次第にその波は引いていった。  ただしそれは興味を無くしたと言うよりは、深入りは禁為という空気が校舎内に広がったからで、彼女の友人のうち何人かが明るすぎる唯に不安を抱き、いろいろ気をまわした結果だった。  女子校である唯の学校は彼女の家の近くにある。私立といってもごくごく平凡な作りの校舎は、偏差値はさほど高くはなく、のんびりとした校風だけが取り柄の学校であった。  もっとも唯がこの高校を選んだ理由は、歩いて通える距離の学校が他になかったということだけで、進学のことなどはいっさい考慮に入れていない。  本来ならば義娘である彼女の将来を気にかけるべき神坂憲一が、学校選択に関して彼女に全委任したのは、 『どんな学校でも学ぶべきものはある。どんな学校でも努力すれば道を閉ざされることはない。良い学校でも悪い学校でも、通う本人次第』  という憲一の言葉が理由であった。  実際、唯は進学についてはあまり興味はなかったので、成績にギスギスしがちな進学校よりは適切な選択をしたといってよい。  ただし成績の方は常に首位にあり、その点については何事にもこまめな彼女の性格がでている。 「おはよぉ、千紗」 「あれ? ずいぶん早いじゃない?」  いまだ生徒のまばらな教室に入って、間延びした挨拶をする唯に、彼女のクラスメートが不思議そうな顔をした。千紗と呼ばれたポニーテールの小柄な少女は、一輪挿しの花瓶に水を入れ、切り花を挿し込むと教壇の机に置く。 「うん、ちょっと早めに出たんだ。いつも通りに出たら遅刻しちゃうからね」 「ああ! そっかそっか」  千紗は思い出したように相づちをうった。  そして唯の現在の異常な状況から理由を悟った彼女は、それ以上の会話の進展を避けるように日直の仕事を進める。 「でもさ、なんか有名人になったみたいじゃん?」 「恵美! やめなよ!」  千紗の思いやりを完全に崩したのは、恵美と呼ばれる少し背の高い少女だ。  恵美は唯の席の前に、背もたれを抱きかかえるようにして座ると、彼女の鞄を勝手に漁っていた。目的はただ一つ、昨日出た宿題の解答である。 「あっと。ごめんね、唯」 「ううん。いいよ。だけど確かに有名人の気持ちも分かるよ。  あれにはちょっとウンザリ」 「まぁ千紗と違って、唯はテレビ写りも良いしね。撮り甲斐はあるんじゃないの?」 「どういう意味よそれ!」  宿題を写しながらからかう恵美に、千紗がかみつく。  唯はそんな二人を見て笑うと、鞄に入っている教科書やノートを、机の中に入れ始めた。 「こんな何処にでもいそうな顔、撮してもしょうがないのにね」 (……んなワケないじゃん)  千紗と恵美はさらっと自己否定する唯に、無言で突っ込みを入れた。  彼女は女性の目から見ても美人の部類に入り、教室内でもその存在感は際だっているのだ。  学校の内外でもファンは多いし、男女問わず引きつける不思議な魅力は、唯ならではの性格だった。  ただし問題は当の本人が自覚していないため、時々会話が食い違うことがある。  そんな唯を妬み嫌う人もいたが、彼女たちは一年間弱のつきあいで、それが唯の天然である事を知っていた。  だた友人としては、唯の自己否定が歯痒い。 「あのさぁ、いつも言ってるけどさ。その自己否定は止めた方がいいよ。 唯はいつも『自分なんか』って言うけど、それって『自分』が可哀想じゃない?」  唯の自己否定にいつも反応する千紗が、いつも通り咎めた。 「そうそう。『自分だから』って考えた方がいいよね。唯だから宿題ができる。私だからその宿題を写す……」 「ちょっとあんた、たまには自分で宿題やってきなさいよ!」 「なによ。私だって努力してるんだから。宿題を写すために毎朝早起きするのは辛いんだからね」 「そんな無駄な努力するなら、少しぐらい勉強したらぁ?」 「分かってないな千紗は。私が宿題をしないのは、唯への愛情の現れよ!  唯との接点を出来るだけ多く持とうという、私の健気なこの思い。私のささやかな幸せを邪魔しないで! 宿題を見せてもらうのは唯だけだからねぇ。愛してるよぉ」 「あははは」  恵美の告白に、唯は苦笑するしかなかった。  このような会話をいままで何回も続けてきた。何の変哲もない、他愛のない話。  しかし今日に限って、友人たちの輪に素直に入っていけなかった。兄が危険なことになっていないか心配なのだ。  どちらかというと――いや、誰が見ても直情な兄のことだ、なにかの事件に自ら首をつっこみかねない。  一応釘は刺しておいたが、それが功を奏するとは思えなかった。 「ごめん! 私、気分が悪い!」  突然立ち上がる唯に、今まで漫才じみた会話をしていた二人が、吃驚して振り向いた。 「ちょっと、いきなりどうしたの?」 「ごめん、今日は帰るね!」  そういって走って教室を出る唯を、二人はキョトンとした目で見送った。気分を害している割には元気に疾走していったので、その姿はすでに見えない。 「どうしたんだろう」 「さぁ?」  千紗は首を傾げると、横目で唯が忘れていったノートを窺った。そして恵美に視線を移すと、怪しい笑みを浮かべた。 「次、私に見せてよね」 二〇〇一年 四月二四日 AM10:32[-Tokyo- City]  渋谷の一角にあるカフェで、加藤京介は窓の外を眺めていた。  テーブルの灰皿にはすでに三本の吸い殻があり、四本目の煙草は彼の口にくわえられている。  首にはまっていたコルセットは、彼自身の手で自主的に外されていた。あまりの同僚からの不評に、腹を立てたからである。  京介は煙に目を細めながら、傍らにあるファイルに手をかけた。これまでに何度も目を通しているが、何度見てもその内容は不可解だった。  二つあるファイルの一つは、暴走した小泉真奈美を生前に調べていた早川医師の診断結果を取りまとめたものだ。  脳の機能停止による萎縮。それでいて運動を司る小脳の一部と、脳幹は正常に機能している。  あらゆる方面から、医学的な見地で分析されたこの長い文章は、その全てを理解不能という四文字に要約できた。否定の言葉で締めくくられた報告書に、早川医師のプライドに深く傷がつけられたことを想像することが出来る。  これだけを見ると、捜査は全く進んでいないように思えるが、しかし一番気になるものは、二つ目のファイルにあった。  それはこの一週間に満たない期間に京介自身が調べ上げた、小泉真奈美の家庭についての調査書だ。  京介は真奈美の団地に赴いたとき、彼女の家から大量の精力増強剤を発見した。  処方した病院を調べて、担当の医者に聞いてみたところ、その薬は彼女の夫である小泉哲朗氏に処方されたものだった。  哲朗氏が不能になった経緯も心理的なもので、週に三回はカウンセリングを受けていたことがわかっている。  京介は患者の守秘義務を持つカウンセラーに無理を言って、その理由を教えてもらったところ、彼の性生活に大きな要因があったらしい。  真奈美の旧姓は瀧島といい、静岡の由緒ある家柄の娘だった。  彼女の弟が跡継ぎに決まると、小泉哲朗氏と結婚して東京に住みついた。しばらくは平穏な生活を送っていたが、二年前に彼女の弟が突然病死すると、状況が一変してしまう。  直系の血を絶やすことを恐れた親族は、真奈美の子供を瀧島の跡継ぎにするという計画を立て、未だ生まれぬ哲朗氏の子供に大きな期待をかけたのである。  しかも跡継であるからには、男子でなければならなかった。そこで親族はあらゆる手段を使って、真奈美に男の赤子を生ませようとした。  もちろんその手段とは、原始的で根拠のない方法が殆どだったが、それを強制される彼らとしては堪ったものではない。そして彼は、そのあまりの期待の大きさに、不能になってしまったのである。  この理由を聞いた京介は、小泉哲朗氏を心の底から哀れに思った。  旧家のシキタリが、新婚生活に一番重要な時間をも奪い去っていた。夜の営みも体位まで決められていては、たつものも立たない。  しかしここで一つの疑問が生まれる。 『真奈美の体内にいた赤ん坊は、誰の子なのだろうか』  精力増強剤の効力が効いて、めでたく懐妊したのかもしれない。しかしそれを確かめようにも、彼女の遺体は警察に押収されて何処にあるか判らないのだ。  胎児の血液さえ手に入ればDNA鑑定もできたのだが、今からそれを手に入れるのは、この短い時間内では不可能だった。  ここまで調べ上げるのに正味四日をかけてしまった京介だが、これ以上捜査に時間をかけることは避けたかった。  京介のジレンマはこれだけではなかった。  真奈美の発狂前の状態を、第一発見者である神坂唯に聞こうとしたが、神坂家の周りに報道陣がたむろしており、へたに近づくことさえできない。  しかも、神坂憲一の殺人事件とも何か関係があるとわかっているのに、その証言さえ得ることができないのは、彼の捜査に大きな弊害をもたらしている。  しばらく時が流れ、時計の針が十一時を指すと、ファイルを気むずかしい顔で眺める京介のテーブルに、一人の女性が訪れた。  ほっそりした容姿を持つ三十代の美人だ。事務的なスーツ姿に、ほのかに脱色したセミロングの髪がよく似合っていた。色素の薄いその瞳は神秘的な色を放っていたが、彼女の無機的な表情と相成って、人外のような雰囲気を醸し出している。  平凡そのものな外見の京介と比べるとどう見ても、まるで美女と野獣を思わせるが、彼女の無表情さが彼との間に、何の情事も生まれていないことを物語っていた。  京介は目線だけで彼女を見上げると、下手な口笛を吹いた。女性はそれに何の反応も見せず、彼の向かいの席に座る。 「下っ端が来ると思ったら、MAGIのミッションチーフの登場か。それほど興味をそそられたか? 沙也加?」  京介に沙也加と呼ばれた女性は、彼をジロリと睨むと、何も言わずに煙草を取り出して火をつけた。 「なんでお前がきた? 人手不足だからなんて言わせないぜ」  沙也加は煙草の煙を吐き出すと、眩しそうに外の風景を眺めた。そして緩慢な動きで灰皿に煙草を押しつける。その動作が妙に艶やかで、京介はつい見とれてしまった。  しかし彼女は惚ける京介に一瞥をくれただけだった。 「ここじゃ落ち着かないから、車の中で話しましょうか」 「おい、まだ来たばかりだぜ? すこしゆっくりすりゃいいのに」 「時間の無駄よ」  沙也加は突き放す口調で京介をやりこめると、さっさと席を立って店の外へ出ていってしまった。  京介は慌てて帰る支度をすると、バタバタとレジに走る。  ガラスの自動ドアを省みると、彼女はすでにシルバーのポルシェに乗って冴えない平刑事を待っていた。  京介がブツブツと文句を言いながら助手席に乗り込むと、沙也加はそれを確認もせずにアクセルを踏んだ。  銀色の車体がタイヤを鳴らしながら、車道を駆け抜けていく。加速の重圧に耐えきれない京介は、シートの上でもんどり打った。 「おいおい! まだシートベルトも締めてないのに!」 「あなたが怪我をしようが、私は気にしないわ」  「ちっ、相変わらずイヤなやつだ」  顔を歪ませる京介を、沙也加は声を抑えて笑った。そして彼女は車を首都高速道路へ滑り込ませると、ギヤをシフトアップさせる。  京介は彼女の運転を横目で眺めながら、沈黙を守っていた。 「あなたの連絡を受けて……」  車のスピードが安定すると、沙也加は唐突に喋り始めた。 「MAGIは正規に調査チームを組んだわ。そのチームを担当してるのが私。貴方の言うようにね」 「それにしちゃ調査報告がおそいじゃないか。いつもなら二、三日で終わってたろう」 「今回の事件は貴方の想像以上に面倒よ。一つの事件に、いろいろな要因が絡み合ってる。いくらなんでも、一人じゃ重荷すぎるわ」 「しょうがねぇだろう。この事件を捜査できるのは俺しかいないんだ」 「そのようね」 「で? なんか掴んだのかよ。まぁ手ブラであんたが俺に会いに来るわけはないと思うが」 「情報はあるわよ。その代わり貴方にやって貰いたいことがあるわ」 「おいおい、金は払ってるだろうが」 「いらないわ、今回は」  さらりという沙也加に、京介は言葉を詰まらせた。いままでMAGIと関係を持っいて、こんな事は初めてだった。ただその代わりの条件というのが気になる。 「それで? 条件ってなんだよ」 「あなたと同じように、神坂公史という青年がこの事件の事を嗅ぎ回り始めたわ。そこでお願いなんだけど」 「そいつの捜査を止めさせろってか?」 「いいえ、手伝ってほしいの。彼の捜査を」 「は? お前本気で言ってるのか?」  沙也加の突拍子のない条件に、京介は正直すぎる返答をした。なんで本職の刑事が、素人の捜査を手伝わなくてはならないのだろうか。 「彼も一人でこの事件に関わろうとしている。危険よ」 「だったら、止めさせりゃいいじゃねぇか!」 「彼も貴方と同じ性格なのよ。親しい人が無能な警察に逮捕された。それを知って黙っている男ではないわ」 「おい、それとこれとは話が違うぜ。はっきり言って素人は足手まといだ。それに捜査の邪魔になる」 「じゃあ、あなたとの話はこれでお終いね」  そう言うと沙也加は、車を道路の脇に寄せて停車させた。 「降りて。交渉は決裂よ」 「そんなこと言ったって、ここは高速道路じゃないか! こんなところで降りられるわけないだろ!」 「貴方がどこで何をしようが、私には関係ないわ。もうクライアントではないわけだし」 「本気で言ってるのか?」  京介は沙也加を鋭い目つきで睨むと、彼女はその視線を流し目で迎え撃ち、不適な微笑を浮かべた。 「ええ。もちろん」  高速道路を再び走りだした車のなかで、京介は沙也加に手渡された分厚いレポートを読んでいた。二人はずっと無言だった。車内には独特のエンジン音と、風を切る音しか聞こえない。 「おい」  レポートからやっと顔を上げた京介は、放心した面もちで呼びかけた。 「一つ質問して良いか?」 「なに?」 「この二つの遺体の解剖結果だが。この田島翔子ってのは」 「ああ、部下が警察病院に忍び込んだの。ちょっと借りたわ」 「お前らの仕業か!」 「借りただけよ、後で返すわ」 「どうやって」 「そこら辺の川に捨てておくから、勝手に拾ってちょうだい」 「ふざけんなよお前」 『ゴミを捨てとくから、拾って』  そんな口調であっさりという沙也加は、京介の避難を遮るように喋り始めた。 「もう一つの遺体は遠藤万紗子。一九九〇年、つまり十一年前に起きた事件ね。  彼女の場合、自宅で自分の腹部を、出刃包丁で十九回も刺した後、絶命していたわ。  万紗子も妊婦で、妊娠九ヶ月だった。その表情はとても幸せそうでね……」 「自分の腹刺しながら、笑ってたのか?」 「ええ」 「そして薬物反応なし、か」 「そうね」  京介は暫く黙り込んだ、奇怪な行動を示しているにもかかわらず、薬物反応がないという点で、真奈美の事件との共通点はある。  しかし京介はそれとは別に、矛盾している所があることに気付いた。 「ところで、一つ疑問に思っている事があるんだが」 「なに?」 「俺が事件調査を頼む前に、田島翔子の遺体はお前らに盗まれていた。これはどういう事だ? まさかこの事件を調べていたんじゃないのか? MAGI独自で」 「そうよ」  沙也加は京介の予想をあっさりと肯定した。 「一九九〇年に起きた遠藤万紗子の事件は、表面的にはただの自殺として公表されたわ。でもそれは、警察の隠蔽工作だった。ある筋から情報を得たMAGIは、真相究明に乗り出したの」 「捜査は終わったのか?」 「ええ。ただ、根を残してしまった。トカゲの尻尾を掴んだだけでね、事実上、その調査は失敗したわ」  京介は眉間に皺を寄せて、無精ひげが残る顎をさすった。そして重々しく口を開く。 「おまえら、そのトカゲが同じような事件を起こす事を予想して、待ってたな?」  京介の問いかけを、沙也加は無言で返した。それだけで彼の推測を肯定するに十分な答えだった。京介は大きく舌打ちをすると、 「これだから、お前らは信用できないんだよ!」と吐き捨てるように言った。  沙也加はその言葉にも、沈黙を守っていた。それ以来二人は、彼が車を降りるまで一言も言葉を交わすことがなかった。  車が都内の車道に戻ると、京介はゆっくりとドアを開けた。数分前から降り出していた小雨が、車内まで入り込んでくる。  彼は何か言いたそうに振り向いたが、考え直したらしくそのまま車を降りた。  しかしドアを閉めようとした京介に、沙也加が声をかける。 「神坂公史の事。よろしくね」 「あんたがなんで、あの青年を助けろなんて言うのかわからんが……。まぁ、努力してみる」 「私も新しい情報が入り次第、連絡するわ」 「そうしてくれ」  京介がドアを閉めると、沙也加の車は静かに走り出した。  町中に残された京介は、雨足が強まったのも気にもとめず煙草を取り出すと、それに火をつけ、どんよりと曇った空を見上げながらブラブラと歩き出す。  そして京介の姿は、人混みに溶け込んでいった。
PARTⅡ 二〇〇一年 四月二一日 PM7:25 [-Tokyo- Kamisaka's home]   今や元弁護士となった規崎達彦の逮捕は、多くのマスコミを騒がせるに十分すぎる出来事だった。  代議士が弁護士に殺害されたという、今の日本には珍しいこの事件は、事件発生初日より更に大きく取りざたされていた。  テレビでは二時間枠の特番が組まれ、神坂憲一と規崎達彦の関係を事細かに暴露していった。  ほとんどの番組では達彦のことを、師を裏切り殺害した非情な男として解説され、未だ謎である動機について様々な憶測を飛ばしていた。  しかもマスコミは、この事件によって身内を亡くした家族達のことを、見逃すことはなかった。視聴率を稼ぐために、あらゆる物事に貪欲になる彼らは、神坂兄妹にインタビューを強いたのだ。  彼らのほしい絵は事件の真相に打ち震える身内の涙であり、それによって視聴者の涙を誘おうという目論見だった。  規崎達彦の報道圧力が氷解した今、彼らの行動を押さえる者は皆無であった。  神坂家には連日報道陣が押し掛け、公史と唯はまともに外にも出られず辟易していた。 「鬱陶しいやつらだな、畜生!」  公史はカーテンを閉め切ったリビングで、テレビに悪態をついた。  マスコミの追跡のせいで中断していた就職活動が思うように進められず、彼は明らかに苛ついていた。 達彦が逮捕されたことはさすがにショックだったが、それ以上に彼に群がる記者達に腹を立てていた。  彼らは勝手に公史の身辺調査をし、残された妹のために大学を辞めたと知ると、妹思いの立派な兄として賞賛した。  しかし公史当人にとっては余計なお世話といいたいところである。  テレビ画面には今、神坂家の外観が生放送で映し出されていた。 「勝手に人ん家をうつしやがって!」 「まぁまぁ、お陰で防犯は完璧なわけだし。気にしない気にしない」  公史の横でごろごろとマンガを読んでいる唯が、彼女の兄の苛立ちを諭した。 そんな唯に公史は渋い顔を見せるが、唯は本から視線を離すことはなかった。 「お前は平気なのか?」 「平気じゃないよ。でもしょうがないじゃないじゃない?  一週間もすればほとぼりも冷めるよ、きっと」 「っていうことは 一週間も家に閉じこもりっきりか? 冗談じゃないぜ!」 「どうしても外に出たい時は、こっそり出ればいいじゃない?  いざとなったらお兄ちゃんもいるしさ」 「俺はお前のボディーガードじゃないんだぜ」 「でも助けてくれるんでしょ? 妹思いのお兄さん?」  唯は公史を見上げると、意地の悪い笑みを浮かべた。そんな唯に公史は舌打ちをすると、横目で睨む。 「誰が妹思いだ。勝手に想像膨らませやがって。  お陰で全国に俺の隠れた優しさが、広まっちまったじゃねぇか」 「はいはい」  公史のふざけた台詞を軽く聞き流した唯は、両足をパタパタと交互に動かしながら、 またもやマンガ本に視線を戻して、わざとらしく大きなあくびをした。  公史は妹の白けた態度に思わず吹き出してしまった。 自分でもおかしな事を言っているとわかっていたので、彼女の期待通りな態度が心地よかった。 「でもお前、案外冷静だな」 「ん?」 「達彦さんが逮捕されたのにさ。俺はてっきり又落ち込むかと思ったよ」 「だって何かの間違いだもの」 「そう思うか?」 「当たり前じゃない」  公史の疑問に至極当然のように言ってのけた唯は、未だ考え込んでいる彼を見て起きあがると、困ったような表情を浮かべた。 「まさかお兄ちゃん、疑ってる?」 「いや、そんなことはないけどさ」 「疑ってるじゃない」  公史は自身の疑心をズバリと唯に言い当てられて、二の句も告げることが出来なかった。  彼も勿論、何かの間違いだと思いたかったが、心の何処かで達彦を疑っていた。 いくら親しい関係だったとはいえ、所詮外面の出来事でしか判断できない。  公史は達彦の内面を熟知しているという自信がなかった。 「なんでお前はそんなに人を信じられるんだ?」 「そんなことない。私だって不安だよ」 (いつだって、不安だよ)  常に不安と共に過ごしてきた唯にとって、人を信じるということは非情に勇気がいることだった。  だが彼女は不安ながらも、人を信じようと努力していたのだ。 「人なんてさ、目に見えないモノを見るなんて不可能だよね」  唯は両膝を抱えると、天井を見上げて語りだす。それは公史に向けてと言うより、彼女自身の心に語りかけているように思えた。 「でもさ、だからといって人を信じられないなんて、嘘だと思うんだ。  知らなくて当然だよね。ってゆうか、知ろうとするのが間違いなんだよ。きっと。  だから私は知るんじゃなくて、理解したいと思う」  公史はじっと黙って唯の言葉に聞き入っていた。 その言葉には、いつも前向きに考えようと努力する彼女の意志が見え隠れしており、辛くても挫けないという覚悟があった。  公史はけなげな妹に微笑むと、大きな手で彼女の頭をぐしゃぐしゃと荒っぽく撫でた。  それは、いつの間にか後ろ向きの気持ちになっていた公史が、そのことに気付かせてくれた唯へのお礼だった。  唯は、ボサボサになってしまった髪を気にもとめずに微笑み返すと、いつの間にか流れ出ていた涙を手の甲で拭う。 「いまでも泣き虫は直らないな」 「そうかな」 「でも、ずいぶん強くなった」  これが今の公史の素直な気持ちだった。  今までの公史が持っていた妹のイメージは、臆病で怖がりというものだったが、 先ほどの彼女を見ると、臆病な中にもほのかな強さを感じることができる。  これは喜ぶべき事だったが、公史は一抹の寂しさを感じてもいた。 いつも守っていた妹が、彼女自身での力で立ち始めようとしている。  いくら兄妹でも別れの日はあるもので、その日が着実に近づいていることを、公史は実感してしまったのだ。 「ま、でもまだ子供だけどな」  突然沸いた感情を隠すように意地悪く微笑むと、公史は唯をからかった。 「そんなこと無いよ!」 「ガキだって言われてムキになる奴は、ガキなんだよ」  兄にやりこめられて、唯は拗ねたような表情を見せた。そんな彼女を見て、公史が笑う。 そして、公史につられて唯も笑った。それは彼らが今まで切望していた心の底からの笑いだった。  そのとき、家族が欠けた冷たい家で、暖かい何かが二人を包んだ。  それは唯が言う幸せそのものであり、公史が大切にしている守るべきものであった。  神坂兄妹がいずれ離ればなれになろうとも、不変の何かがそこにはある。    一方つけはなされたテレビでは、女性レポーターが悲しみを含んだ表情でレポートをしていた。 彼女の背には古い家屋が佇んでおり、白い光に照らされて不気味な静けさを強調していた。  女性はマイクを持ち直すと、その表情とは場違いな張りのある声で、カメラに向かって語りかけた。 「ここが、規崎容疑者に殺害された神坂憲一氏の自宅です。 いまここには、神坂代議士の遺された、ご家族が住んでいます。  ご家族の方々は未だ悲しみに沈んでいるのでしょうか、ごらんの通り辺りは静寂に包まれ、 事件前までは笑い声が溢れていたでしょうこの時間でも、シンと静まり返っています……」 二〇〇一年 四月二四日 AM7:00[-Tokyo- Kamisaka's home]   公史は朝早くにベッドを抜け出すと、早々と出かける準備をした。  達彦に感じていた疑惑を唯に拭い去られた後、彼はある決心を胸に秘めていたのだ。  それは事件の真相を自ら見つけだすことであり、妹の信じていることを確信に近づけさせたいという、彼の願望から導き出された答えだった。  彼自身、まさかドラマの主人公みたいな真似をするとは思ってもみなかったが、警察があてにならないとわかった以上、自分で行動を起こすしか方法はなかった。  一時は唯の入院で世話になった、加藤京介とか言う刑事に協力を得ようかと思ったが、 彼の想像の中では警察とは一枚岩の存在であり、達彦を冤罪の罪で補導した一味としてしか認識していなかった。 「んじゃ、行って来るぜ」  公史は、隣の部屋で眠っているはずの妹に声をかけた。実際に声をかけなかったのは、唯に心配をかけさせないためだ。  暫くして簡単な身支度を終えた公史は、自分の部屋をそっと出ていくと、一階に降りて居間のカーテンを少し開けた。 外には未だ報道陣が神坂家を見張っており、無防備に出てゆけば向こうの餌食になりかねない。  しかもこれから彼がやることは、合法的とはお世辞にもいえず、彼らに付いてこられると少々面倒なことになるのは簡単に予想できた。  ここはなんとか彼らに気付かれずに、家を出たいところだが……。  公史はカーテンをから離れると、ため息をつきながら頭をかいた。 さっそくこそ泥のような真似をしなくてはならないことが、煩わしく思えのだ。 「まさか変装セットが必要になるとは、思わなかったなぁ」  事件捜査については全くの素人である公史にとって、テレビドラマが唯一の教本だった。 もちろんフィクションだと解ってはいるが、そうでもしないと行動の組立が出来ないのだ。  公史のみたドラマでは、主人公は報道陣を騙すのにサングラスをかけ、帽子を目深にかぶっていた。 その主人公は女性だったように思えたが、公史はどちらでも同じだと割り切っていた。  そして公史は足早に部屋に戻ると、自前のサングラスとつばの広い帽子をかぶって玄関に向かった。  そんなことをしているうちに、不謹慎ながらも気分が高揚してくる。 ゲーム感覚に似た感覚が彼の表情に笑みさえ浮かべさせた。  しかしそれも、玄関につくまでだった。  いそいそと外に向かう公史が、ドアノブに手をかけたと同時に話しかけて来た者がいたのだ。 「どこいくの?」  不気味な静けさをたたえたその声は、彼の真後ろから聞こえてきた。 ビクッと体を震わせた公史は振り向くことも出来ず、その場で立ちすくむ。 「や、やぁ唯。おはよう」 「おはよう」  直立不動状態の公史は、額に汗を滲ませながら、真後ろで睨んでいる唯に話しかけた。 しかしそれが彼女の針のような視線を和らげることはなく、いっそう鋭さを増す結果に終わったようだ。 「で? どこいくの?」  再度同じ質問を繰り返す彼女に、公史は完全にのまれてしまった。 それでも固まって動かない体をゆっくり振り向かせる。  彼の眼前には案の定、怖い顔をして腕組みする妹が仁王立ちしていた。 なぜか学校の制服姿だったが、その疑問は唯の厳しい表情に霧散してしまった。 (とりあえず、この場から逃げよう)  そう思った公史は、愛想笑いを浮かべながら即座に判断した。こういう事にかけては、頭の回転が速まる。 「いや、ちょっと散歩しようと思ってさ。なんか最近、鬱憤のたまることが多すぎだし」 「朝のお散歩する暇があったら、寝てた方がましって言ってたお兄ちゃんが?」 「ああ、うん。まぁ昔はそんなことを言っていたような気もするけど、ちょっと思い至ってな」 「サングラスと帽子かぶって?」 「紫外線はお肌の大敵だぞ」 「そんなこと、今まで気にしたことないじゃない?」  へらへらと笑いながら取って付けたような言い訳をする公史に、唯は更に目つきを鋭くした。 彼女の大きな目は細められ、殆ど三白眼状態だ。 「また危ないことするつもりでしょ」 「そんなことないぞ」 「じゃぁ私の目をみて」  拒否を許さない唯の口調に、公史は恐る恐る視線をあげた。そして、まるで悪戯を母親に見つかった子供のように、首をすぼめる。  唯はその怒った表情を変えず、罪悪感に染まった公史の瞳を射抜いた。 「お兄ちゃんが何をやろうとしてるかぐらい、私、わかってる。達彦さんの事、たしかめにいくんでしょ?」 「ごめん」  もう隠し通すことなど不可能と悟った公史は、素直に謝罪した。 ただ謝っても、諦めようなどとは思わない。  今は怒っていても、唯なら何時かわかってくれると思っていた。 「で、その格好はどういうつもり?」 「いや、外のマスコミをまこうと思って」 「あのね」  唯は呆れたようにため息をついて公史に詰め寄ると、公史のかぶっている帽子を取り上げた。 「こんな赤い帽子なんか、目立つだけじゃないの!」 「そうか?」 「それに趣味の悪いサングラスなんてして。これじゃ外の人たちを誤魔化しても、 警察に捕まっちゃうわよ? 変質者と間違えられて」 「そんなに趣味悪いか?」 「最悪」  唯の遠慮しない言いぐさに、さすがの公史もムッとした。 達彦の冤罪を暴こうと思い至った経緯に、唯が大きく関わっているのだ。  ただそれは、公史の勝手な思いこみだった。それがわかっていながらも、憤りを感じるのは人として致し方のないことだろう。   憮然として黙り込んだ兄に、唯は不意に微笑むとドアノブに手をかけた。 今まで重くのしかかるような空気が、一瞬にして消え去る。 あまりの唐突な出来事に、公史は呆気にとられて目を丸くした。 「おい、どこ行くんだよ」 「ん? 学校だけど?」  このとき公史は、今日が平日であるという事に気づいた。そして七時という時間が、決して早い時間ではないということも。 「じゃ、行って来ます」 「お、お前、学校に行くにしては早すぎないか?」 「今日は日直だから、私。と、いうことにしておく」  唯はそういって戯けたように舌を出すと、玄関脇に立て掛けてあった鞄を持って玄関のドアを開けた。 しかし不意に振り向いて、真面目な顔をして公史を見上げる。 「くれぐれも、危ない事しちゃだめだよ」 「あ、ああ」  公史は気の抜けたような返事を返すと、それを確認した唯は微笑んで、もう一度「行って来ます」といって出ていった。  扉が閉まるのを、公史は未だ呆けて眺めていた。唯の行動の意味を、鈍くなった頭脳がやっと解析を始める。  そしてその意味を解したとき、公史は慌てて勝手口へ走り出した。  玄関とは正反対の裏口から静かに外へ出た公史は、今では珍しい木の柵を乗り越えると、辺りに気を遣いながら足早に家から離れていく。 唯の作戦が功を奏してか、報道陣に見つかることは無く、公史は複雑な思いで駅のある方角へ歩いていった。  定刻より少し早く学校に着くことができた唯は、友人たちと挨拶を交わしながら教室に向かった。  兄のために報道陣の質問攻撃を一身で受け止めた彼女だが、疲れた様子も微塵にも見せずにいつも通りの明るさを振りまいた。  一時は義父の死や達彦の逮捕で、唯の周りもにわかに騒ぎ始めていたが、彼女の変わらぬ態度から次第にその波は引いていった。  ただしそれは興味を無くしたと言うよりは、深入りは禁為という空気が校舎内に広がったからで、 彼女の友人のうち何人かが明るすぎる唯に不安を抱き、いろいろ気をまわした結果だった。  女子校である唯の学校は彼女の家の近くにある。 私立といってもごくごく平凡な作りの校舎は、偏差値はさほど高くはなく、のんびりとした校風だけが取り柄の学校であった。  もっとも唯がこの高校を選んだ理由は、歩いて通える距離の学校が他になかったということだけで、進学のことなどはいっさい考慮に入れていない。  本来ならば義娘である彼女の将来を気にかけるべき神坂憲一が、学校選択に関して彼女に全委任したのは、 『どんな学校でも学ぶべきものはある。どんな学校でも努力すれば道を閉ざされることはない。 良い学校でも悪い学校でも、通う本人次第』  という憲一の言葉が理由であった。  実際、唯は進学についてはあまり興味はなかったので、成績にギスギスしがちな進学校よりは適切な選択をしたといってよい。  ただし成績の方は常に首位にあり、その点については何事にもこまめな彼女の性格がでている。 「おはよぉ、千紗」 「あれ? ずいぶん早いじゃない?」  いまだ生徒のまばらな教室に入って、間延びした挨拶をする唯に、彼女のクラスメートが不思議そうな顔をした。 千紗と呼ばれたポニーテールの小柄な少女は、一輪挿しの花瓶に水を入れ、切り花を挿し込むと教壇の机に置く。 「うん、ちょっと早めに出たんだ。いつも通りに出たら遅刻しちゃうからね」 「ああ! そっかそっか」  千紗は思い出したように相づちをうった。  そして唯の現在の異常な状況から理由を悟った彼女は、それ以上の会話の進展を避けるように日直の仕事を進める。 「でもさ、なんか有名人になったみたいじゃん?」 「恵美! やめなよ!」  千紗の思いやりを完全に崩したのは、恵美と呼ばれる少し背の高い少女だ。  恵美は唯の席の前に、背もたれを抱きかかえるようにして座ると、彼女の鞄を勝手に漁っていた。 目的はただ一つ、昨日出た宿題の解答である。 「あっと。ごめんね、唯」 「ううん。いいよ。だけど確かに有名人の気持ちも分かるよ。  あれにはちょっとウンザリ」 「まぁ千紗と違って、唯はテレビ写りも良いしね。撮り甲斐はあるんじゃないの?」 「どういう意味よそれ!」  宿題を写しながらからかう恵美に、千紗がかみつく。  唯はそんな二人を見て笑うと、鞄に入っている教科書やノートを、机の中に入れ始めた。 「こんな何処にでもいそうな顔、撮してもしょうがないのにね」 (……んなワケないじゃん)  千紗と恵美はさらっと自己否定する唯に、無言で突っ込みを入れた。  彼女は女性の目から見ても美人の部類に入り、教室内でもその存在感は際だっているのだ。  学校の内外でもファンは多いし、男女問わず引きつける不思議な魅力は、唯ならではの性格だった。  ただし問題は当の本人が自覚していないため、時々会話が食い違うことがある。  そんな唯を妬み嫌う人もいたが、彼女たちは一年間弱のつきあいで、それが唯の天然である事を知っていた。  だた友人としては、唯の自己否定が歯痒い。 「あのさぁ、いつも言ってるけどさ。その自己否定は止めた方がいいよ。 唯はいつも『自分なんか』って言うけど、それって『自分』が可哀想じゃない?」  唯の自己否定にいつも反応する千紗が、いつも通り咎めた。 「そうそう。『自分だから』って考えた方がいいよね。唯だから宿題ができる。私だからその宿題を写す……」 「ちょっとあんた、たまには自分で宿題やってきなさいよ!」 「なによ。私だって努力してるんだから。宿題を写すために毎朝早起きするのは辛いんだからね」 「そんな無駄な努力するなら、少しぐらい勉強したらぁ?」 「分かってないな千紗は。私が宿題をしないのは、唯への愛情の現れよ!  唯との接点を出来るだけ多く持とうという、私の健気なこの思い。 私のささやかな幸せを邪魔しないで!  宿題を見せてもらうのは唯だけだからねぇ。愛してるよぉ」 「あははは」  恵美の告白に、唯は苦笑するしかなかった。  このような会話をいままで何回も続けてきた。何の変哲もない、他愛のない話。  しかし今日に限って、友人たちの輪に素直に入っていけなかった。 兄が危険なことになっていないか心配なのだ。  どちらかというと――いや、誰が見ても直情な兄のことだ、なにかの事件に自ら首をつっこみかねない。  一応釘は刺しておいたが、それが功を奏するとは思えなかった。 「あっ、ごめん! 私、気分が悪い!」  突然立ち上がる唯に、今まで漫才じみた会話をしていた二人が、吃驚して振り向いた。 「ちょっと、いきなりどうしたの?」 「ごめん、今日は帰るね!」  そういって走って教室を出る唯を、二人はキョトンとした目で見送った。 気分を害している割には元気に疾走していったので、その姿はすでに見えない。 「どうしたんだろう」 「さぁ?」  千紗は首を傾げると、横目で唯が忘れていったノートを窺った。 そして恵美に視線を移すと、怪しい笑みを浮かべた。 「次、私に見せてよね」 二〇〇一年 四月二四日 AM10:32[-Tokyo- City]  渋谷の一角にあるカフェで、加藤京介は窓の外を眺めていた。  テーブルの灰皿にはすでに三本の吸い殻があり、四本目の煙草は彼の口にくわえられている。  首にはまっていたコルセットは、彼自身の手で自主的に外されていた。 あまりの同僚からの不評に、腹を立てたからである。  京介は煙に目を細めながら、傍らにあるファイルに手をかけた。 これまでに何度も目を通しているが、何度見てもその内容は不可解だった。  二つあるファイルの一つは、暴走した小泉真奈美を生前に調べていた早川医師の診断結果を取りまとめたものだ。  脳の機能停止による萎縮。 それでいて運動を司る小脳の一部と、脳幹は正常に機能している。  あらゆる方面から、医学的な見地で分析されたこの長い文章は、 その全てを理解不能という四文字に要約できた。 否定の言葉で締めくくられた報告書に、早川医師のプライドに深く傷がつけられたことを想像することが出来る。  これだけを見ると、捜査は全く進んでいないように思えるが、しかし一番気になるものは、二つ目のファイルにあった。  それはこの一週間に満たない期間に京介自身が調べ上げた、小泉真奈美の家庭についての調査書だ。  京介は真奈美の団地に赴いたとき、彼女の家から大量の精力増強剤を発見した。  処方した病院を調べて、担当の医者に聞いてみたところ、その薬は彼女の夫である小泉哲朗氏に処方されたものだった。  哲朗氏が不能になった経緯も心理的なもので、週に三回はカウンセリングを受けていたことがわかっている。  京介は患者の守秘義務を持つカウンセラーに無理を言って、その理由を教えてもらったところ、彼の性生活に大きな要因があったらしい。  真奈美の旧姓は瀧島といい、静岡の由緒ある家柄の娘だった。  彼女の弟が跡継ぎに決まると、小泉哲朗氏と結婚して東京に住みついた。 しばらくは平穏な生活を送っていたが、二年前に彼女の弟が突然病死すると、状況が一変してしまう。  直系の血を絶やすことを恐れた親族は、真奈美の子供を瀧島の跡継ぎにするという計画を立て、未だ生まれぬ哲朗氏の子供に大きな期待をかけたのである。  しかも跡継であるからには、男子でなければならなかった。そこで親族はあらゆる手段を使って、真奈美に男の赤子を生ませようとした。  もちろんその手段とは、原始的で根拠のない方法が殆どだったが、それを強制される彼らとしては堪ったものではない。 そして彼は、そのあまりの期待の大きさに、不能になってしまったのである。  この理由を聞いた京介は、小泉哲朗氏を心の底から哀れに思った。  旧家のシキタリが、新婚生活に一番重要な時間をも奪い去っていた。 夜の営みも体位まで決められていては、たつものも立たない。  しかしここで一つの疑問が生まれる。 『真奈美の体内にいた赤ん坊は、誰の子なのだろうか』  精力増強剤の効力が効いて、めでたく懐妊したのかもしれない。 しかしそれを確かめようにも、彼女の遺体は警察に押収されて何処にあるか判らないのだ。  胎児の血液さえ手に入ればDNA鑑定もできたのだが、今からそれを手に入れるのは、この短い時間内では不可能だった。  ここまで調べ上げるのに正味四日をかけてしまった京介だが、これ以上捜査に時間をかけることは避けたかった。  京介のジレンマはこれだけではなかった。  真奈美の発狂前の状態を、第一発見者である神坂唯に聞こうとしたが、神坂家の周りに報道陣がたむろしており、へたに近づくことさえできない。  しかも、神坂憲一の殺人事件とも何か関係があるとわかっているのに、その証言さえ得ることができないのは、彼の捜査に大きな弊害をもたらしている。  しばらく時が流れ、時計の針が十一時を指すと、ファイルを気むずかしい顔で眺める京介のテーブルに、一人の女性が訪れた。  ほっそりした容姿を持つ三十代の美人だ。事務的なスーツ姿に、ほのかに脱色したセミロングの髪がよく似合っていた。 色素の薄いその瞳は神秘的な色を放っていたが、彼女の無機的な表情と相成って、人外のような雰囲気を醸し出している。  平凡そのものな外見の京介と比べるとどう見ても、まるで美女と野獣を思わせるが、彼女の無表情さが彼との間に、何の情事も生まれていないことを物語っていた。  京介は目線だけで彼女を見上げると、下手な口笛を吹いた。 女性はそれに何の反応も見せず、彼の向かいの席に座る。 「下っ端が来ると思ったら、MAGIのミッションチーフの登場か。それほど興味をそそられたか? 沙也加?」  京介に沙也加と呼ばれた女性は、彼をジロリと睨むと、何も言わずに煙草を取り出して火をつけた。 「なんでお前がきた? 人手不足だからなんて言わせないぜ」  沙也加は煙草の煙を吐き出すと、眩しそうに外の風景を眺めた。 そして緩慢な動きで灰皿に煙草を押しつける。 その動作が妙に艶やかで、京介はつい見とれてしまった。  しかし彼女は惚ける京介に一瞥をくれただけだった。 「ここじゃ落ち着かないから、車の中で話しましょうか」 「おい、まだ来たばかりだぜ? すこしゆっくりすりゃいいのに」 「時間の無駄よ」  沙也加は突き放す口調で京介をやりこめると、さっさと席を立って店の外へ出ていってしまった。  京介は慌てて帰る支度をすると、バタバタとレジに走る。  ガラスの自動ドアを省みると、彼女はすでにシルバーのポルシェに乗って冴えない平刑事を待っていた。  京介がブツブツと文句を言いながら助手席に乗り込むと、沙也加はそれを確認もせずにアクセルを踏んだ。  銀色の車体がタイヤを鳴らしながら、車道を駆け抜けていく。加速の重圧に耐えきれない京介は、シートの上でもんどり打った。 「おいおい! まだシートベルトも締めてないのに!」 「あなたが怪我をしようが、私は気にしないわ」  「ちっ、相変わらずイヤなやつだ」  顔を歪ませる京介を、沙也加は声を抑えて笑った。そして彼女は車を首都高速道路へ滑り込ませると、ギヤをシフトアップさせる。  京介は彼女の運転を横目で眺めながら、沈黙を守っていた。 「あなたの連絡を受けて……」  車のスピードが安定すると、沙也加は唐突に喋り始めた。 「MAGIは正規に調査チームを組んだわ。そのチームを担当してるのが私。貴方の言うようにね」 「それにしちゃ調査報告がおそいじゃないか。いつもなら二、三日で終わってたろう」 「今回の事件は貴方の想像以上に面倒よ。一つの事件に、いろいろな要因が絡み合ってる。 いくらなんでも、一人じゃ重荷すぎるわ」 「しょうがねぇだろう。この事件を捜査できるのは俺しかいないんだ」 「そのようね」 「で? なんか掴んだのかよ。まぁ手ブラであんたが俺に会いに来るわけはないと思うが」 「情報はあるわよ。その代わり貴方にやって貰いたいことがあるわ」 「おいおい、金は払ってるだろうが」 「いらないわ、今回は」  さらりという沙也加に、京介は言葉を詰まらせた。 いままでMAGIと関係を持っいて、こんな事は初めてだった。 ただその代わりの条件というのが気になる。 「それで? 条件ってなんだよ」 「あなたと同じように、 神坂公史という青年がこの事件の事を嗅ぎ回り始めたわ。そこでお願いなんだけど」 「そいつの捜査を止めさせろってか?」 「いいえ、手伝ってほしいの。彼の捜査を」 「は? お前本気で言ってるのか?」  沙也加の突拍子のない条件に、京介は正直すぎる返答をした。 なんで本職の刑事が、素人の捜査を手伝わなくてはならないのだろうか。 「彼も一人でこの事件に関わろうとしている。危険よ」 「だったら、止めさせりゃいいじゃねぇか!」 「彼も貴方と同じ性格なのよ。親しい人が無能な警察に逮捕された。それを知って黙っている男ではないわ」 「おい、それとこれとは話が違うぜ。はっきり言って素人は足手まといだ。それに捜査の邪魔になる」 「じゃあ、あなたとの話はこれでお終いね」  そう言うと沙也加は、車を道路の脇に寄せて停車させた。 「降りて。交渉は決裂よ」 「そんなこと言ったって、ここは高速道路じゃないか! こんなところで降りられるわけないだろ!」 「貴方がどこで何をしようが、私には関係ないわ。もうクライアントではないわけだし」 「本気で言ってるのか?」  京介は沙也加を鋭い目つきで睨むと、彼女はその視線を流し目で迎え撃ち、不適な微笑を浮かべた。 「ええ。もちろん」  高速道路を再び走りだした車のなかで、京介は沙也加に手渡された分厚いレポートを読んでいた。 二人はずっと無言だった。車内には独特のエンジン音と、風を切る音しか聞こえない。 「おい」  レポートからやっと顔を上げた京介は、放心した面もちで呼びかけた。 「一つ質問して良いか?」 「なに?」 「この二つの遺体の解剖結果だが。この田島翔子ってのは」 「ああ、部下が警察病院に忍び込んだの。ちょっと借りたわ」 「お前らの仕業か!」 「借りただけよ、後で返すわ」 「どうやって」 「そこら辺の川に捨てておくから、勝手に拾ってちょうだい」 「ふざけんなよお前」 『ゴミを捨てとくから、拾って』  そんな口調であっさりという沙也加は、京介の避難を遮るように喋り始めた。 「もう一つの遺体は遠藤万紗子。 一九九〇年、つまり十一年前に起きた事件ね。  彼女の場合、自宅で自分の腹部を、出刃包丁で十九回も刺した後、絶命していたわ。  万紗子も妊婦で、妊娠九ヶ月だった。その表情はとても幸せそうでね……」 「自分の腹刺しながら、笑ってたのか?」 「ええ」 「そして薬物反応なし、か」 「そうね」  京介は暫く黙り込んだ、奇怪な行動を示しているにもかかわらず、薬物反応がないという点で、真奈美の事件との共通点はある。  しかし京介はそれとは別に、矛盾している所があることに気付いた。 「ところで、一つ疑問に思っている事があるんだが」 「なに?」 「俺が事件調査を頼む前に、田島翔子の遺体はお前らに盗まれていた。 これはどういう事だ? まさかこの事件を調べていたんじゃないのか? MAGI独自で」 「そうよ」  沙也加は京介の予想をあっさりと肯定した。 「一九九〇年に起きた遠藤万紗子の事件は、表面的にはただの自殺として公表されたわ。 でもそれは、警察の隠蔽工作だった。 ある筋から情報を得たMAGIは、真相究明に乗り出したの」 「捜査は終わったのか?」 「ええ。ただ、根を残してしまった。トカゲの尻尾を掴んだだけでね、 事実上、その調査は失敗したわ」  京介は眉間に皺を寄せて、無精ひげが残る顎をさすった。そして重々しく口を開く。 「おまえら、そのトカゲが同じような事件を起こす事を予想して、待ってたな?」  京介の問いかけを、沙也加は無言で返した。それだけで彼の推測を肯定するに十分な答えだった。 京介は大きく舌打ちをすると、 「これだから、お前らは信用できないんだよ!」と吐き捨てるように言った。  沙也加はその言葉にも、沈黙を守っていた。それ以来二人は、彼が車を降りるまで一言も言葉を交わすことがなかった。  車が都内の車道に戻ると、京介はゆっくりとドアを開けた。数分前から降り出していた小雨が、車内まで入り込んでくる。  彼は何か言いたそうに振り向いたが、考え直したらしくそのまま車を降りた。  しかしドアを閉めようとした京介に、沙也加が声をかける。 「神坂公史の事。よろしくね」 「あんたがなんで、あの青年を助けろなんて言うのかわからんが……。まぁ、努力してみる」 「私も新しい情報が入り次第、連絡するわ」 「そうしてくれ」  京介がドアを閉めると、沙也加の車は静かに走り出した。  町中に残された京介は、雨足が強まったのも気にもとめず煙草を取り出すと、それに火をつけ、どんよりと曇った空を見上げながらブラブラと歩き出す。   そして京介の姿は、人混みに溶け込んでいった。

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