PARTⅥ
暗闇の中に、懐かしい声が響く。
いや、彼女にはそれが何を言ってるのかは解らない。
しかしそれは、心の中に暖かな風を運ぶ音だった。
「パパ」
彼女がその言葉を口にしたとたん、今までの暗闇から一変し、奇妙な情景が眼前に現れた。
丸眼鏡をかけた白衣姿の男が、分厚いガラスを隔てて立っている。
彼の周りにあるものは、赤と黄色に点滅する光点と、見たこともない機械の群だった。
木の根を思わせるような太い金属製のパイプが、 天井を縦横無尽に走っている。
記憶にない不思議な場所。
しかし彼女はこの奇異な空間にすら安らぎを感じていた。
ふと白衣の男が微笑みかける。彼女は彼の笑顔が大好きだった。
そして未だ白く小さな手を動かし、その喜びを体中に表現しようとすると、
彼女を取り巻く白濁した液体が、動きに合わせて循環し始めた。
「パパ」
二〇〇一年 四月十六日 PM5:32 [-Tokyo- Kaiou hospital]
「あなたが、神坂公史さんですか」
公史が息を切らせながらもどかしげに病院の扉をくぐると、
彼に話しかけてきた男はにこにこと笑みを浮かべながら、懐から警察手帳を取りだした。
「いやぁ、神坂唯さんの手荷物に貴方の写真と連絡先があったので、勝手に拝見させていただきました。
お待ちしていましたよ。今回はとんだことになってしまって」
どこか間延びしている口調で話す刑事に、公史は苛立ちを感じた。
実際、この男と話すよりいち早く唯の所に駆けつけたかった。
公史は刑事に愛想笑いをしてやり過ごそうとすると、男は公史の進路にうまく入り込んでそれを遮る。
「ああっと、ちょっと待ってくださいよ。ご心配なのは解りますが、こちらも仕事でしてね。
神坂公史さん。ご兄妹でいらっしゃいますか? あ、申し遅れました私、加藤と言います」
「妹です」
公史は仕方なく、加藤と名乗った男に迷惑そうな表情を浮かべて答えた。口調も少しきつくなる。
唯が倒れたことを連絡してくれたことには感謝はするが、この男は人間が持っているべき情というものが解らないのだろうか?
「なるほど、お兄さんですか。いやぁ大変でしたね」
「唯は? 妹はどこですか?」
真剣な眼差しで問いかける公史に加藤――京介は気圧されたか、表情をいつもの柔和なものから変化させた。
さすがに相手の親族が危機に陥ったのに、ずっとへらへらしているわけにはいかない。
京介としては公史が錯乱状態であることを見越して、努めて平静に対処したつもりだったが、どうやらその必要はなかったようだった。
「唯さんはつい先ほど発生した事件を目撃してしまい、気絶されました。
今病室で安静にされてますが、未だ意識は回復してません。
外傷はほとんどないのでそんなに心配はいらない、との医師の診断です。
何にせよ事件の第一発見者なので、私としても是非 彼女からそのときの様子を聞きたかったのですが」
「唯に会えますか?」
「ええもちろん。ご案内いたしましょう」
京介はそう言うと、公史を促して歩き始めた。
公史はこのとき、一種の罪悪感めいたものを感じていた。
今までの生活をかえりみても、唯に精神的な負荷をかけていることはわかっていた。
そんな過程の中での凄惨な殺人事件の目撃は、彼女の心にどれだけの負担を課したか想像もつかない。
「俺のせいだ」
公史は理由もなくそう思った。自分がしっかりしていればこの様なことにはならなかったはず。
自分の不甲斐なさがついに妹までも巻き込んでしまった、と自己嫌悪に陥いってしまった。
こと妹に関しては彼の持ち前の楽天思考はその姿も見せず、果てしなく落ち込んでいく。
そんな公史を、京介は後ろ目で見ていた。
茶色に染めた肩まで掛かる髪という、今時の若者に多いスタイルのわりには、それがあたかも彼のためにあるファッションのように似合っている。
一見するとどこにでも居そうな若者だが、他と明らかに違うところはその眼光の鋭さだった。
この目は京介がよく知っている男も持ち合わせている、自分自身に己の法を課しているプライドの高い人間の目だった。
しかし何か家庭に事情があるようで、彼は病室に赴く道程、始終無言で時々唇をかみしめているように見える。
事件と関係のない人間関係などは無闇に聞かないのが鉄則だが、京介はなぜかこの男の事が気になっていた。
今までの人間観察でのカンから、神坂公史という男は何かを焦っているようにも思える。
それに神坂という姓が引っかかっていた。どこかで聞いたことがあるような、彼の顔も見覚えがある。
「ああ!」
突然立ち止まって大きな声をあげた京介に、公史は驚いて顔を上げた。
しかしそれと同時に彼に今までわだかまっていた陰気が消し飛び、その呪縛から放たれる。
公史は怪訝な顔をして京介を見たが、彼は廊下の真ん中で手を合わせたまま固まっていた。
「あの、どうかしましたか?」
「あなた、神坂憲一氏のご子息様ですか!」
「は? はい、そうですが?」
「どうりで聴き覚えのあるお名前だと思いましたよ。
貴方のことは、
その……あの事件を担当している者から聞いたことがありましてね」
事件の担当者とは規崎俊也の事だった。
彼の幾つか指揮している特別捜査本部の中に神坂憲一殺人事件があって、京介はその捜査からは外れていたが、何度か資料を俊也に見せてもらったことがある。
これはれっきとした捜査情報漏洩なのだが、京介としてはあまり気にしなかった。
しかし俊也は始めから京介をこの捜査に引き入れたかったのだろう。
だからこそ資料を見せ、いつ捜査に絡ませようかと考えていたに違いない。そして今回の事件が起こった。
俊也としては思いがけない事態だったが、これ幸いと京介に情報を流して食いつかせる。
彼のやりそうな手口だった。
京介は瞬時に俊也のいわんとすることを読みとっていた。
『下らない捜査をしてるんだったら、こっちを手伝え』と渋い顔をして言う姿が想像される。
「くっそ! あの野郎やけに素直に情報くれたと思ったら、そういうことかっ!」
「は?」
「いやいや、こっちの話です。しかし、先日の事といい今回のことといい、大変ですな」
京介は無理矢理神妙な顔をしたが、その顔はどことなく引きつっていた。
公史はその表情をみて不思議に思ったのか、軽く相づちをするだけにとどめる。
「父の事件は、どこまでわかったのでしょうか?」
笑顔を張り付かせたまま再び歩を進める京介に、公史は何となく居心地の悪さを感じながらも問いかけた。
「はぁ、私は担当ではないのでよくはわかりません。
しかし、正直言って難航してるようでしてね、証拠となるモノはあってもそこから糸口がつかめない。
しかも不審者の目撃情報も無いときている。
実際、なにをどうやって調べたらいいかわからないのが現状でしょう」
「はぁ」
「あ、いや、でも私たちは全力で犯人逮捕に向けて努力していますので、絶対に事件解決して見せますよ」
京介はそう取り繕ったが前の失言が消えるはずもなく、またもや会話がとぎれてしまった。
しかし公史はどちらかというとほかのことに気を取られていて、京介の言葉も聞き流してしまっているらしかった。
「妹さんの事。心配そうですねぇ」
「え?」
京介の言葉に弾かれたように公史は反応した。
「いや、私との会話も上の空のようでしたので、失礼しました」
「いえ、ちょっと考え事をしていたので……。すみません」
「いいんですよ、大事な妹さんがこの様なことになってしまったのです。心中お察ししますよ」
「はい」
「私もね、仕事柄色々な家族に会ってきましたよ。他人行儀な家族。
相続しか目がいかない家族。
分かるんですよねやっぱり他人でも、その家族の絆が薄れていることがね。
でもあなたの家族は違うようですな。うらやましい限りですよ」
公史はこの言葉にまた口をつぐんでしまった。
京介も無理に会話を続けることはせずに口を閉ざす。
病院の廊下は見舞客や患者、巡回にまわる医師たちが行き交い、二人を、まるで存在しないかのように通り過ぎていく。
そのまま二人は一言も言葉を交わさずに、廊下奥にある病室の扉の前に辿り着いた。
白い横開きの扉を、窓から射し込む夕日が赤く染めていた。
それは、公史には暖かそうな色彩とは裏腹に、なぜか肌寒く感じられた。
この中に唯がいる。この中に唯が閉じこめられている。
公史は再び自己嫌悪が鎌首をもたげてくるのを感じた。何でこんな事になってしまったのだろう?
「ここです」
京介に促されて、公史は病室に足を踏み入れた。
広くもない個室に、唯は寝かされていた。開け放たれたカーテン、窓に映る赤く染まった空が公史の目に飛び込んでくる。
白い壁、白いベッド。
清潔さをイメージさせる色彩がかえって無機質に見え、周囲に冷たい空気を形作っていた。
「唯……」
公史は寝ている唯に近づき呼びかけたが、彼女は目を覚ます様子が無かった。
しかし定期的に上下する彼女の胸を見て、少し安心する。
気絶だけなのだからそんなに心配することもないだろうが、やはり唯の顔を見るとホッとした。
「唯は何を見たのでしょうか?」
「殺人事件の現場、です。かなりショックだったでしょうな。しかも若い女の子だ、気絶するのも無理はありません」
「その事件の犯人は、もう捕まっているのでしょうか?」
「はい。現行犯逮捕しました。もうこれ以上あんな事件は起こりませんよ。
先ほども申し上げたとおり、妹さんは犯罪を目撃して気絶されました。
医師の診断によれば一時的なショックを受けただけだそうですので、しばらく安静にしていればいずれ目を覚ますとのことです」
「ありがとうございました。ご迷惑をおかけしてすみません」
「いや、貴方や彼女の責任ではありません。彼女は運が悪かっただけですよ。
起きられた後もしばらくは精神的なトラウマが残る可能性もありますが、それは時間が解決してくれるでしょう。
もし必要なら、腕のいいカウンセラーを紹介しますよ」
「わかりました」
公史は神妙な表情で京介の言葉を受け取った。精神的に傷を負うことがどういう意味を持つのかはわからなかったが、正直ありがたいと感じていた。
京介と初めて会ったときはあれほど腹を立てていたのに、そんなに時間もたっていないのにも関わらず感謝の気持さえ持ち始めた自分に驚く。
これが京介という刑事のカリスマ性、ということなのだろうか。
公史が謝罪と礼を述べると、京介は屈託のない口調で「これも職務ですから」と少しおどけた。
「刑事なんて職業はね、人に恨まれてナンボなんです。
テレビドラマとかに出てくるように格好いいわけじゃない。
なにか失敗をすれば世間様に袋叩きにあうし、その割には給料安いし。
私の同僚にも、胃潰瘍が持病ってやつが何人もいますよ。ハハハ」
京介は笑いながらそう言って、
「まぁほかに取り柄がないから、辞めるわけにもいかないんですがね」
と、今度は大笑いしはじめた。
「はぁ」
公史はどう答えたらいいのか分からず愛想笑いをしてやり過ごすと、
京介も病室で大笑いする愚考に気付いたのか、エヘンと咳払いをしたあと、
「今日は彼女に何も聞けそうにないので、帰ります」
と言ってそそくさと病室を出ていってしまった。
公史は京介を病室越しに見送った後、改めて唯の寝顔をのぞき込んだ。
『あなたの家族は違うようですな。うらやましい限りですよ』
京介の言葉が公史の脳裏をよぎる。
うらやましい? 他人にはそう見えるのだろうか?。
母が病死し、父が殺され、唯と公史だけが残った。
しかもその妹は実は血の繋がりもなく、法的に兄妹と認められているだけの脆い絆なのに。
しかし公史は、自分たち兄妹がどれだけ奇妙なものでも、最後に残ったこの絆だけは守りたいと思っていた。
「でも俺が情けないから、唯に心配かけさせちゃったかな」
公史は暫く唯の看病に専念しようと決心すると、いったん家に帰って唯の着替えや身の回りのものを取ってこようと考た。
就職の事は気になったが、面接試験をすっぽかして病院に駆け付けた以上、あきらめるほかはないようだ。
「またくるからな」
公史はそう声をかけると、病室をあとにした。
最終更新:2007年04月17日 14:24