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PARTⅦ
二〇〇一年 四月十六日 PM6:20[-Tokyo- City]

『もうこれ以上あんな事件は起こりませんよ』

 病院を出てすぐに警視庁に戻る気も起こらず、事件の調査がてら近くの公園のベンチで一服していた京介は、神坂公史へ向けた自らの言葉を反芻していた。

『あんな事件は起こらない』

 刑事は時に自分も信じていないことを、あたかも自信があるかのように振る舞うときがある。

 昔、刑事物の洋画で、

『刑事は嘘をつく職業ではなく、嘘を扱う職業なのです』

 と主人公が言う場面があったが、それはあまりにも美化しすぎているように京介は思えた。

 たとえ相手を安心させなくてはならないとしても、嘘は嘘だ。

「あんな事件は起こらない、か」

 京介はだんだんと薄暗くなってきた空を見ながら呟いた。

(ほんとうにそうだろうか?)

 もしこの事件が田島翔子の事件と何か関係があるとすれば、この次はないという保証はない。

 しかし関係が全くないという可能性だってあるのだ。

 田島翔子の自殺、そして今回の殺人事件、この二つに共通する点はただ一つ、子を体内に宿していたと言うことだけだ。偶然と言うだけで済ませることも出来るが……。

 だが、偶然で済ませる要因もない。

 京介はくわえたタバコを地面に投げ捨て立ち上がると、ブラブラと公園を歩き出した。

 そうしながら、事件に係わった人物たちの生活環境を思い返してみる。


 マンションの二十五階から飛び降りた田島翔子は、両親と三人で暮らしていた。
彼女は未婚の母で夫がおらず、両親が海外旅行に行くときも ソフトウェア開発の仕事が忙しいと言ってついてはいかなかった。

 両親は再三、翔子のおなかの子の父親を問うたが、彼女は結局最後まで男の名はあかさなかったようで、警察の調査でも分からず終いだった。

 彼女の同僚の話では、彼女はプライドが高く、いつも社内の男性を敵視していたらしい。

 未だ男尊女卑の残る企業の中で、彼女は必死になって高い地位を築いてきたようだ。

 翔子にとって男性とは彼女の足を引っ張る存在でしかなく、下で働く女性でさえも自立できないハンパ者とさげずんでいたという。

 そして彼女は社内で孤立した。

 先の調査ではこの事がストレスを生み、自殺の原因に繋がったのではないかという報告がなされている。

 たしかに、あり得ない話ではない。

 ただやはり気になるのは、遺書がないことや玄関から裸足で飛び出していること、
さらに遺留品の中には、その日に買ったのであろう語学学校の、レッスンチケットが発見されたことだ。

 これから死のうと思っている人間が語学学校に通い、レッスンの予約を取るというのも妙な話だ。

このことから警視庁では捜査本部を編成し、十二ヶ月にわたる捜査を行ってきたが進展せず、ついには解散となった。

 進展しなかった理由としてはプライベートで付き合っていた友人関係が極端に乏しく、聞き込み調査が思うように出来なかったのが原因の一つで、
情報があまりにも少なかったのと、それとは逆にあまりにも殺人動機がありそうな人間が多く、警察の判断を鈍らせたことが挙げられる。

 現在、彼女の遺体は消失。捜索が行われている。

そして今回の事件は、現場である板橋区の公園で突然狂ったように叫びだした加害者――小泉真奈美(二十二歳)が
被害者――須藤康子(三十八歳)を、
そのとき持っていた果物ナイフで刺したというものだ。

 加害者の小泉真奈美には商社に勤めている小泉哲郎という夫がおり、結婚生活三年目を来月に迎えようとしていた。

 家庭生活は円満だったらしく専業主婦だったので、これといって目立った情報は得られなかったが、被害者である須藤康子に度々嫌みのような言葉を言われていたらしい。

 須藤康子の口の悪さは他の主婦達にも定評であり、彼女を嫌う人も少なからずいたようで、この事件の時も、二人は公園でたわいのない会話をしていたという。

 規崎俊也にこの事件の情報をもらったとき、京介は真っ先に小泉真奈美に会いに行ったが、
そこで彼が見たものは、猿ぐつわを咬まされて、さらに病院のベッドに拘束具によって縛り付けられている真奈美の姿だった。

 逮捕後に連行した警官の話によると、真奈美は手錠をかけられてからは一時大人しくなったが、パトカーの中で再度暴れだし、最後には舌を噛み切ろうとしたという。

 警官はそれを何とか阻止したが真奈美の暴走は収まらず、急きょ病院へ向かうことにしたそうだ。

 そして、真奈美の自殺未遂を阻止した警官は指を噛み切られ、重体。

 その他パトカーに同乗していた警官も重軽傷を負った。

 真奈美を乗せていたパトカーの惨状は驚くべきもので、屋根は内側から突き破られ、左前部座席は折損。
そのシートは引き千切られていて、おおよそ人間がおこなった破壊活動とは想像が出来なかったが、
アメのように曲がった手錠が車内に残されており、その時の真奈美の異様な怪力を物語っていた。

 暴走後の真奈美は気を失い、病院のベッドに拘束された。
本来ならば睡眠薬や精神安定剤を投与されるはずだったが、彼女が宿している胎児の事を考えるとそれはできなかった。

 警察側からの連絡を受けた小泉哲郎はすぐさま病院に駆け付けたが、
妻の変わり果てた姿を見て錯乱してしまったので、こちらは精神安定剤を投与されて、今は別室で安静にさせられているはずだ。

 ここまで問題を整理すると、自ずと次の捜査計画が京介の頭の中で組み上げられていく。

 といっても、京介の行動指針はその選択肢を狭められざるをえなかった。

 田島翔子の死体はその捜索に時間がかかるだろうし、真奈美の凶行を目撃した神坂唯は未だ目覚めていない。そして真奈美も、その夫である哲郎も話が出来るような状態ではないだろう。

 公園を出た京介はタクシーを拾い、真奈美の入院する病院へ向かった。
目的はあらかじめ医師に頼んでおいた彼女の脳波と血液の検査結果を聞くためだ。

 このとき、京介はおぼろげに薬物か何かが絡んでいる事件だと践んでいた。

真奈美の発狂と異常な力の発揮。

その原因が麻薬の類だと考えていたのだが……。

その検査結果は、彼の想像を遙かに超えていた。



二〇〇一年 四月十六日 PM7:10 [-Tokyo- Tokyo Ousei Hospital]

「小泉真奈美が脳死しているんですか!」

 病院の診察室で、早川と名乗った初老の医師から告げられた事実に、京介はただ愕然としていた。

 早川医師もあり得ぬ事態に押し黙ると、診察室に静寂が押し寄せる。
蛍光灯が発光したときに起きる独特な音が室内の機器類の電子音と混ざり合い、不愉快な旋律を奏でていた。

 真奈美の脳はその機能を停止していた。

 MRIの結果を示す写真を見ると頭蓋骨の大きさに比べ、中に収まっている脳が小さくなっている。

これは脳の機能が一部停止したために、縮小したのだと早川医師は説明した。

「脳死といっても、全ての機能が停止しているわけではありません。
 脳死については未だ論議がなされている途中ですが、一般的に脳幹を含む全脳機能の不可逆的停止、つまり植物人間になり、人工呼吸器使用時だけに認められる特殊な状態です。

 この場合、人工呼吸器の力がなければ速やかに呼吸及び循環器系が停止し、数分後に個体死が訪れることになります」

「でも小泉真奈美は人工呼吸器なんてつけていなかった。
それでも彼女は生きています」

 京介は、つい先ほど病室で会った真奈美の姿を思い起こした。

 未だに簡単な拘束具で拘束されてはいるものの、精神的に落ち着きを取り戻していたようで、再び来訪した京介に反応して目を瞬いていた。

猿ぐつわはすでに外されていたが、真奈美が言葉を発することはなく、大きな瞳をキョロキョロと動かしていることぐらいしか反応はなかった。

 早川医師は輪切りにされた脳の写真を見上げ、椅子の背もたれに身を預けると、大きくため息をついた。

「良好ではありませんが脳波もありますし、深昏睡や呼吸停止もありません。

 ただ脳組織の大部分は機能停止状態で、毛様脊髄反射、眼球頭反射、温度試験、咽頭反射などの脳死テストはいずれも反応が有りません」

「それはどういうことでしょう?」

 いきなり意味不明な医学用語を並べ立てられ、京介は少しとまどった。

 しかしここで医学用語の講義を始めさせるわけにはいかないので、あたかも理解しているような顔で早川医師の答えを待つ。

「つまり患者は、ほぼ脳死に近い状態であるということです。
かろうじて働いているところは小脳の一部と脳幹部の一部のみ。

 ようするに現在、患者が呼吸し、接近してきた人やモノに対して反応を見せるということは、医学上あり得ない。
ということです」 

「そうなった原因はわかりますか?」

「原因は不明です。血液からは薬物反応は出ませんでしたし、その他の不自然な結果は出ていません。ただ……」

 ……トゥルルルル……トゥルルルル

 早川医師が何かを言い終わる前に、デスクに置かれた電話が鳴った。

 彼は疲れを隠しもせずにのろのろと受話器を取り上げると、京介は話を中断されてしまい、しかたなく窓の外を見る。

 すでに外は暗闇に包まれていた。一陣の風が、街路樹のケヤキを揺らしている。

 あり得ない現実。解けない謎。あまりにもとりとめのない事が多すぎて、頭の芯が鈍く痛みだしていた。

 京介は自分のこめかみに指を当てて目をつむった。

 正直言って、動くはずのない人間がなぜ動いているかなどは、京介にはどうでも良いことだった。
問題は真奈美が何故このような凶行にいたったかであり、医学上の矛盾などは、医学の専門家に任せるしかないのだ。

 真奈美の行動の異常さから推測すると、ドラッグの可能性が強いのだが、血液中に薬物反応が出ていないとなると立証は難しい。

 となれば、薬物反応が出ないような新種だろうか?

 京介は闇夜に揺れるケヤキの枝を見つめながら、少しでも可能性のある仮説を練っていた。

 しかし物証もなく全て状況証拠のみで答えを探り当てるのは、危険でしかも至難の業だ。

「いや焦りは禁物ってやつだな、もう少し情報を集めてみようか」

 京介はそう呟くと、計ったように扉を隔てた向こうから、誰かが走ってくる足音が聞こえてきた。

 次第に大きくなる足音に京介は、なんとなくこっちに向かって来るような直感を受けて、怪訝そうに意識を向ける。

 案の定、足音は京介達のいる診察室の前に止まり、血相を変えた太り気味の看護婦が扉からあわただしく現れた。

 彼女は扉に到達したところで力つきそうになりながらも、部屋の中にいる二人に向き直ると、息も絶え絶えに口を開いた。

「先生! 小泉真奈美さんがまた暴れ出しました!」

 その言葉が一瞬の沈黙を作りだし、京介は早川医師と顔を見合わせると、真奈美のもとへかけだした。

『人が沢山いる病院内で、異様な力を持ち、理性を失っている真奈美が暴れ出している』

 廊下を駆ける京介の心の片隅で、警笛が鳴り響いていた。



 京介が駆け付けたとき、すでに真奈美の周りには患者や医者、看護婦達が遠巻きに集まっていた。

 真奈美は怯える人間達には目もくれず、放心した様相で病院内をあるいている。

 彼女の体が動くたびに、拘束具を引き千切って出来たのであろう傷から、独特な赤みを帯びた液体が落ちて乳白色のタイルを染めた。
白いパジャマは赤く濡れ、今やその面影はなくなっている。

「なんだあれは?」

 京介は真奈美の左手に持っているモノを怪訝そうに見た。
バレーボールより一回り大きいソレはぼろキレの塊にも思えたが、所々に白い石のようなモノがまじっている。

 彼の疑問に答えたのは、京介の呟きを聞き取った若い男性医師だった。

「こ、小泉さんです」

「え?」

「患者さんのご主人さまです! 目が覚めたときに真奈美さんに会いたいと願い出まして、私がご案内したのですが」

「彼女に会わせたのか!」

 京介は思わず怒鳴ると、若い医師は体を震わせて縮こまった。

精神異常をきたしている患者に、余計な刺激を与えるのは明らかに危険だということが、この医師には理解できなかったらしい。

「ちっ」

 京介は大きく舌打ちすると、無表情の真奈美に向き直った。
彼女がどこに向かっているかはわからないが、外に出すのはまずい。

「警察に連絡は?」

「すでに通報しました。八分位前です」

「早くてもあと五分か」

 五分。真奈美を押さえるのには余りにも長い時間だ。

 京介の脳裏にあのパトカーの惨状が浮かび、背中に冷たい氷が伝わり落ちる感覚が、小波のように押し寄せる。
あの状態から、力で取り押さえられる相手ではないことは想像に難くない。

 これが何かのテレビドラマなら、胸元に忍ばせてあるであろう拳銃を颯爽と取り出して、彼女の前に立ちはだかるのだろうが、

あいにく京介は現実に生きる刑事で、いつも拳銃を携帯しているわけではなかった。

 それでも刑事であるからには、何が何でも周囲に及ぶ被害を食い止めなくてはならない。

京介は真奈美に視線を合わせながら、次に起こすべき行動を考えていた。

冷や汗が彼の額を伝う。

「おい」

 京介は彼の隣で小動物のように怯えている若い医師に、押し殺した声で話しかけた。
しかし京介の切羽詰まった雰囲気を読んだのか、彼は口をぱくぱくと開閉するだけで硬直している。

「いいか? ここの階を閉鎖しろ。防火シャッターがあるはずだ。
それを閉めてここら辺一帯を封鎖するんだ。同時に患者達をいそいで避難させろ」

「はい?」

「いいから早くしろ!」

 京介の一括にビクンと体を震わせた医師は、一瞬我に返ったように走り出した。

 ただし隣の刑事に言われたことは、彼の記憶回路からは完全に消去されていたため、訳も分からず走り出したといって良い。

 しかも後ろではなく、前へ。

 端から見ると恐慌に陥った若者が、奇声を上げながら真奈美に襲いかかったようにも見えた。

「ばかっ! そっちじゃない! 戻れっ!」

 京介の叫びも聞かず、若い医師は真奈美に掴みかかろうと突っ込んでいく。

「ちっ!」

 何を言っても通じないと見て取った京介は一度舌打ちをすると、今度は若い医師を取り押さえようと駆け出した。

 その時、真奈美が動いた。

 といっても激しい動きではない。
まるで飛び交う蠅を、払うかのように手を振る動作だった。
しかしたったそれだけの動作で若い医師は、進行方向とは逆の方向に吹き飛んだ。

「うわぁ」 

 まるで紙屑のように水平にはじき飛ばされた医師は、素っ頓狂な叫び声を上げた。
彼自身何が起こったのかわからない、つかの間の空中遊泳だっただろう。
そしてその紙屑は軌道を変えずにまっすぐ京介に返ってきた。

「ぐわっ!」

 真正面からソレにぶつかった京介は、蛙が踏みつぶされたような声ををだして、若い医師共々廊下に投げ出された。
一瞬眼前が暗転し、体中のあちこちに鋭い痛みが走る。

「ばっ、化け物だ!」

 このとき、一連の光景を始終見ていた野次馬から、裏返った叫び声が起きた。

 いままで彼らが恐怖と好奇の目で見ていた理由は、真奈美がただ歩いているだけで、周囲には害を及ぼさないと思っていたからだった。

もしかしたら、何かの映画の撮影なのだろうと勘違いしていたのかもしれない。

 しかし大の男が二人も吹き飛ばされる光景を目の当たりにして、野次馬達の好奇の目は一瞬にして恐慌に変わった。

 まるで水の波紋のように周囲の混乱は広まり、一目散に逃げ出す者が一人現れると途端に彼らは、我先にと蜘蛛の子を散らすように逃げまどった。

 患者を見捨てて走る看護婦、看護婦を押し転ばせようとする患者、その患者をかき分けて逃げる医者。

 真奈美の周囲では職業や立場などの一切を放棄した、あまりにも純粋で無垢な生存本能が爆発していた。

「くそっ!」

 京介は野次馬達にもみくちゃにされながら立ち上がると、今まで上にのしかかっていた若い医師を犠牲にして、人の波から逃れた。未だ体の痛みは絶えない。
特に首筋を痛めたらしく、ズキズキと疼いている。

 京介は首を左手で押さえながら真奈美の所へ向かった。
人の居ないところへ進めば、自動的に真奈美の所へたどり着けるはずだから、探すには楽だ。

 思惑通り、真奈美はすぐに見つかった。

 彼女は人々の恐慌状態にもなんの興味を示さずに、病院の廊下を下り階段に向かってゆっくりと歩いていた。

 真奈美の周囲だけは奇妙に静かで、そこだけ別の空間を切り張りしたような感覚がわきあがる。

「真奈美さん!」

 京介は真奈美の前に立ちはだかると、彼女の虚ろな目から視線を逸らさずに語りかけた。

 こんな事をしてどうなるものでもないだろうが、逃げまどう一般の人々や患者達が無事に逃げ出せるまで、何とか時間を稼がねばならなかった。

「わかりますか? 真奈美さん! どこに行こうとしているのかはわかりませんが、止まってください!」

(我ながら芸のない説得だ)

 京介は真奈美に語りかけながらも、心の中で苦笑した。

 真奈美の理性がすでにないことは、今までの行動と外見で推測がつく。

このままだと警察が駆け付けてくる頃には、彼女の右手に彼の頭部が乗っかっている可能性が大きい。

 京介は真奈美の手に自分の頭部がぶら下げられている所を思わず想像して、それをかき消そうと首を横に振った。

 京介は彼が思うよりロマンチストであったが、人質(美人限定)をかばって犯人の凶弾に倒れるのならまだしも、
わけの分からない怪力女にくびり殺されるのは遠慮したかった。

 しかし真奈美はその歩みを止めることはなく、まるで眼前に何の障害もないように、まっすぐ京介の所に向かってくる。

 彼にとってそれは、死の宣告だった。

 そして真奈美の右腕が緩慢な動作で挙げられるとき、京介はっきりと自分の死期を悟った。
この場から逃げだそうと彼の理性は訴えていたが、体が逆らって動こうとしない。

 京介はとっさに目をつぶり、死の旋風を巻き起こすであろう、彼女の腕から生み出される衝撃を待った。五感が妙に研ぎ澄まされる。
汗が額を流れ落ち、プラスチックタイルの床に滴り落ちる音さえも、明確に聞き取れるように感じた。

「アウ、ア? ウー」

 しかし死期を悟った京介に訪れたのは、真奈美から繰り出される一撃ではなく、まるで赤子が発するような声だった。

 彼女の手は京介の肩に置かれていたが、それ以上は何も起こらない。

 京介がゆっくり目を開けると、彼女は定まらない視線を向けて笑っていた。

 ただその笑顔は限りなく虚無的で感情などが感じられなく、京介には単なる筋肉の弛緩が作り出す引きつりのように思えた。

「真奈美さん?」

「ウグッ、ウァ?」

 京介は恐る恐る声をかけてみたが、真奈美は不気味な笑顔のまま肩を掴んでいるだけだった。

ただ彼の呼びかけに反応してうなり声ともとれる音を発している。

 静まり返った病院の廊下で、肉塊を抱える妊婦に小汚い男という一種異様な光景が、その場の時を止めていた。

 真奈美は京介の肩を時々握ったりして、肉の感触を楽しんでいるようだったが、
京介にとっては生きた心地がするわけもなく、しかし、ただされるがままになっているしかない。

 このとりとめのない状況を一転させたのは、真奈美のすぐ側にあったガラスが割れた音だった。

 けたましく飛び散るガラス片と共に彼女の肩口から血が噴き出し、一瞬真奈美の手が京介の肩からはなれる。

 京介はその瞬間を見逃さなかった。

 とっさに身を低くすると、反転して近場の病室に逃げ込み、ドアを閉める。

 それと同時にドアの外で乾いた破裂音が連続して起こり、その音に紛れて真奈美の呻き声が響いた。

「もう少しで殉職するところだった」

 京介はホッとしながら呟いた。ガラスが割れたとき、彼はそれが警察の狙撃班の仕業だと予測していた。

 だが日本の狙撃班の質が向上しているからといって、彼の数センチ横を弾丸が通り過ぎて行ったと思うと寒気がする。

 通常なら、人質がそばにいる場合は無闇な発砲が控えられるはずだが、どうやら平刑事にはそういった心配りはされないらしい。

 京介は廊下が完全に静まり返るのを待ってから、ゆっくりとスライドドアを開けた。

 廊下には無数のガラス片が散乱し、その先に赤い血の川が幾本も流れている。
赤い川はすでに絶命した真奈美のもとへ集結し、泉を作っていた。

 京介は無言で真奈美の遺体に近づき、弾丸で穴だらけになった彼女の肢体を眺めた。
血に染まった体は、動く素振りも見せずに横たわっている。

 割れた窓の外では警察関係の車が五、六台止まっており、警官達が野次馬の整理をしているようで、ザワザワと意味を解さない音が流れ込んできていた。

 その音が、京介にはやけに耳障りに聞こえる。

「これでまた、手がかりが一つ減ったな」

 真奈美を見下ろしながら、京介は疲れ切った口調で呟いた。首の痛みは次第に鋭さを増し、立っているのさえ辛い。

 京介はすぐ側の壁に寄りかかると、そのまま床に崩れ落ちた。冷たい床の感触が心地よい。

いままで張りつめていた神経が急に緩み、意識が押し流されるのを感じる。

 そして警察官達が京介のもとに駆け付けたとき、
すでに彼は深い眠りについていた。