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PARTⅢ  京介が公史を見つけたのは、二階のオフィスだった。  古いコンピューターが室内彼処に設置されたデスクの上に置かれていて、埃にまみれた机に突っ伏すようにしていた公史の元に彼はゆっくりと近付く。室内はあの研究室とは反対に、夕日になりつつある太陽の光が部屋いっぱいに差し込んでいて、空調が利いているはずもないのに暖かかった。 「公史君」  京介は恐る恐る呼びかけたが、公史は無視するように顔を背けた。 「なぁ、君の気持ちはよくわかる。俺だって驚いたさ、まさかあの子が……」  京介がそこまで言い終えると、公史は反応したようにピクリと体を動かした。しかしそれ以上何のリアクションもないと知ると、京介はわざとらしくため息をつく。 「俺が思うに、彼女は普通の女の子ですよ。どこにでもいる、ちょっと勘のいい子だ。こんな事を言うのもね、この勘とか第六感というのは多かれ少なかれ過去の記憶や経験を判断基準に、脳が無意識的に選別しているだけのものなんです。別段、特別なものじゃない。  だから彼女が実験のために作られたこととか、特殊な能力を持っているとか、そんなことは考える必要はないのですよ。  そして君は、そんな彼女を守ってあげなくちゃならない。お兄さんなんだからね」  京介はそう言って、公史の隣の席に座った。窓を隔てて小鳥の囀りが聞こえてくる。その声に彼は一時心をゆだねた。優しい静寂が二人の男達を癒しはじめ、今まで何も感じなかった木々の葉音さえも、心地よく感じられる。 「兄ちゃんだから、俺はいつもそう言われてきたんだ」  しばらく時が経ち、今度は公史が口を開いた。 「妹のいる友達は他にもいてさ、そいつは『お兄さんだから』って言われるのを嫌っていた。でも俺はそんなに嫌じゃなかったな。  あいつの力になることが嬉しかったし、だからこそ俺の居場所がある気がして」  公史にとって唯がどんな生まれの秘密を持っていようが、関係無い。沙也加に対してあれだけの怒りを見せたのは、彼の居場所を他人に汚されたような気がしたからだった。 「それは唯さんも同じだったでしょう。あなたの隣で、あんなに素直な笑顔を見せていた」 「うん、だから俺はあいつを守りたいって思ったんだ。いや、あいつのためじゃない、俺のために守りたかったのかな。  でもそれが怖かったことも本当なんだ。なんか偽善っぽくて、結局俺は自分のことしか考えてないんじゃないかって」  公史は体を起こすと、京介のほうへ顔を向けた。その表情には先ほどの怒りはなく、落ち着いたものになっている。目が少し赤いので泣いていたのだろうが、それは無視することにした。 「だから時々冷たくすることがあって、でもあいつってすぐに拗ねるから、なんか、嬉しくて」 「ああ、判るような気がします」  京介は公史の照れ笑いに微笑んだ。そして少し真剣な目で青年の瞳を見つめる。 「これは友人の受け売りですがね、人間がほしがる最上の物は、脳内で分泌されるホルモンらしいですよ。この分泌液は褒められたり、何か良いことをすると高揚感がまして良い気持ちになる。だから人は無償で優しくなることはない、ということらしいです。  端から見れば見返りも期待せずに人を助ける人がいたとしても、実は人助けをすることによってホルモンが分泌される。その人にとってそれが最大の報酬なわけですよ」  公史は京介の言葉を静かに聞き入っていた。人が無償で優しくなることはない、と言うことは世界はそんなにも殺伐としているのだろうか? 「そう考えると、偽善って何なのでしょうね?   私はね、こう思うんです。偽善でも良いじゃないかってね。何もしないより、偽善でも人に役立つことが出来れば、それで良いんじゃないかって思うんですよ。  もちろん相手を陥れることを前提としてはいけませんけどね。  しかし最近私は、偽善という言葉が、何もしないでただ生きている奴らの言い訳にしか聞こえないんです」  京介は語りながらも公史の顔色を窺った。彼の表情は未だ険しく、明らかに納得しかねるようだ。しかしこの考え方が極論であることは、京介自身も承知の上だった。 「だからあなたも、行動することに恐れないでくださいよ。いいじゃないですか、唯さんを助けることが貴方のためでも。それが偽善と言われようとも。  二人が幸せになれるのなら、それで良いじゃありませんか」  そう言って京介は人なつこい笑みを浮かべた。公史もその笑顔につられたかのように、ぎこちない笑みを浮かべる。  行動することを恐れない。これは幾年経っても変わらず京介の心にある、信条と呼べるものだった。これのせいで多くの失敗をしたこともあったが、何もしないでいるよりはマシだったと彼は考えている。  そして二人はしばらく下らない談話を続けた。それは怒りが爆発した後に萎縮してしまった、公史の心を元に戻すために必要な課程だった。  談話は勇気ある行動の話から女性と初めてデートした体験談へともつれ込み、そこからもっと膨らんで性行為の交渉まで、男性同士でしか話せない会話が場違いなまでに弾む。  しかししばらく談笑している内に、京介の表情に変化が起こった。それはまるで潮が引いたように、彼の顔から笑顔が消え去って困惑の形相へと取って代わったのだ。 「どうしたんです?」  公史は不審に思って聞いたが、京介は公史の後ろを見据えて視線を動かそうとしない。それどころかいきなり立ち上がると、表情を困惑から懐疑に変えながら部屋の隅に向かって歩き出した。  公史は訝しげに京介を振り向くと、京介は壁の何かに見入っているようだ。視線を壁の方に移すとそこには掲示板らしきものがあり、そこに一枚のスナップ写真が貼り付けられていた。 「加藤さん?」  公史が二度、三度と話しかけても、京介は全く動かない。実際、京介にとってはそれどころではなかった。  その写真には二人の男女が写っていた。  彼らの幸せそうな笑顔が、写真全体に溢れている。その女性の腕には赤子が抱かれていて、一見すると家族の写真のように思える。  しかし二人が白衣姿であることや、男性の外見年齢が女性とかけ離れている点が、それを否定していた。男性の方は初老で頭がすっかり禿げ上がっていたが、女性の方はどう見ても二十代前半なのだ。  だが京介が驚いているのはそんなことではなかった。この二人の事を、彼が知っていたからである。 「なんで、麻生重治と沙也加が一緒に写ってるんだ?」  京介が二階の一室で一枚の写真に驚愕している頃、舞嶋沙也加は一階研究施設の廊下をゆっくりと歩き回っていた。  彼女にとっては何もかもが懐かしかった。  沙也加の人生を狂わせたこの施設だったが、その頃は研究に追われていて、未来のことに思いを馳せる余裕など無かった。  あの実験にこぎ着けるまで、様々な試練があった。非合法とは判りつつも、試練を乗り切った時には確かに達成感があったのだ。  懐古的な感情が胸一杯に広がり、彼女は未だ涙で潤む瞳を細めた。沙也加の脳裏に、十六年前の光景が溢れる。  そして感情の赴くままに廊下奥の一室へと足を踏み入れると、そこは彼女あの頃に使っていた部屋で、数え切れないほどの思い出が詰まっている場所だった。  室内は小物類は残っていないにせよ昔と変わらず、埃にまみれたパソコンと空っぽの本棚が夢で見た通りの場所に置かれている。もう既に夕日に変わりつつある太陽が、室内を赤く染めはじめていた。  彼女は服が汚れることもかまわず椅子に座ると、オフィスの中をぐるりと見回す。 「変わってないわね、ここも……」  沙也加の独白が、静寂の中に響く。  そして誰も答えるはずのないこの独白に、答える者がいた。 「やっぱり、お前はここの職員だったのか。道理でこの施設の中を熟知しているはずだ」  沙也加を追ってきた京介はそう言いながら室内に入る。その後ろには公史の姿もあった。  彼女は京介の質問に微笑むと、ゆっくり頷いて肯定する。 「そう、私がMAGIに関わる前、勤めていた会社がこの研究所。そして私は不正とは判りつつも、実験を強行した研究員の一人よ」 「お前が何でこの事件に思い入れがあったか、これで判ったよ。お前が、被験者だったんだな?」  沙也加は下腹部に手をやると、少し悲しい目をした。 「あの子は私の子宮と一緒に取り出されたの。それ以来私は、子供を産めない体になったわ」  公史は彼女の言葉を聞いて、彼が感じた沙也加の悲哀は、もしくは後悔なのかもしれないと思った。  彼女が当時決断したものは、その後の人生を大きく狂わせたのだろう。間違った選択をしたとは言えないが、若かった彼女には選んだ道の意味が理解できていなかったのだ。 「なんで、そんな危険なことを?」 「科学者の性、でしょうね。多かれ少なかれ科学者達は、世界に貢献する技術を開拓することに、生き甲斐を感じているの。私もその一人だった。  新種の人間を作り出す。それに深く関われるのなら、何をなげうっても良かったわ。  しかし研究は顧問弁護士だった神坂憲一に告発され、中断させられた。でも彼は私とあの子だけはかくまってくれたの。  あの人は言ったわ。  唯が生まれたのはあの子の責任じゃない。だから事件に巻き込ませることはしない。しかし母親は必要なんだ……って」 「それで親父はホテルを借り切ったのか……」 「結局私はあの子がいてくれたから、事件から逃れることが出来た。ずっと実験対象でしか見ていなかったあの子に、助けられたの。だから私は、あの子に謝りたくて……。 その後事件の決着を自分なりに付けるため、MAGIに入ったわ」  公史は沙也加の言葉をじっと聞き入っていた。彼女は彼女なりに、過去の清算をしようと必死になっていたのだろう。  いかに研究のためとはいえ、沙也加が生んだ、沙也加の子である。彼女が生まれたことによって、沙也加が昔失い掛けていた最後の人間性が復活したのに違いない。  公史は沙也加を責める気にはなれなかった。たしかに生命を弄ぶ行為をしたにしても、彼女がいなければ唯は存在しなかったのである。しかし一つ、どうしても聞いておきたいことがあった。  公史は沙也加の椅子へ歩み寄ると、彼女の目を見つめた。妹と同じ色素の薄い瞳が夕日で淡い緑に変じる。  彼は病床で感じた感情が嘘ではなかったと確信すると、真剣な表情で沙也加に問いかけた。 「沙也加さん、唯を生んだことを後悔してますか?」  沙也加はその言葉に自信に満ちた笑みを返す。そして、いつしか流れて出していた涙を指で拭うと、掠れてはいるものの張りのある声でそれに答えた。 「まさか、彼女がいたから今の私があるのだもの、生まれて来てくれたことを感謝しているわ。……あの子は私の娘なんだから」  その言葉を口にした途端、沙也加の顔に満面の笑みが溢れた。その裏のない素直な表情に、公史や京介もつられたように笑う。 「お前にそんな表情を作り出す表情筋があるとは、思わなかったぜ」  京介が正直すぎる感想を漏らすと、二人の男は何かを思い出したように吹き出した。  どうやら二階での会話に沙也加が出てきたようだが、そんなことも知りようもない彼女は、訳もわからずに釈然としない表情を浮かべる。その表情が唯のそれに似ていて、公史はドキリとした。 「でも、やっと唯の母親に会えた気がしますよ」 「……そんなにあの子と似てないかしら?」  彼の素直な感想に、沙也加は困ったような顔をして言った。彼女の癖なのだろうか、時々話しながらイヤリングを弄ぶ仕草が、妖艶に見える。 「少なくとも性格は似ていないな。唯さんはいい子だから」  京介は笑いながら遠回しに沙也加を非難した。どうやら今まで彼女にされてきたことを、未だ根に持っているらしい。 「何を言ってるの? 使えるものは使う、利用できるものは利用する。それが私の仕事よ?」 「勝手に手駒にされた俺の身になってみろ。お陰で何回も死にそうな目に遭ったかわからんぞ!」  MAGIが動いていなかったと聞かされた時、京介は自分が罠にはまったことを痛感したものだ。沙也加の狡猾な情報操作によって、知らぬ間に利用されていた彼だから、皮肉の一つも言いたくなる。しかしそんな皮肉にも、沙也加は眉も動かさない。 「でも少なくとも事件の真相を突き止めることが出来たじゃない? それに貴方の方から勝手に関わって来たんだから、自業自得でしょう?」 「だからって、良いように俺を使うな! しかも嘘までつきやがって」 「だって余計な情報を流したら、貴方、暴走しかねないでしょう?  説明してもわかってもらえるような性格じゃないし、下手をしたら猪突猛進に突っ込んで、命を落としかねなかったわ」  京介はズバリと言い当てられて、二の句も告げなかった。  あまり深く考えずに行動を起こす彼だから、沙也加の予測はほぼ当たっていると言える。京介自身もそのことは承知していたので、反論することもできなかったのだ。 「……完全に行動を読まれてますね」  公史は目を点にして硬直する京介に耳打ちした。彼は舌鼓を打って公史を睨むが、観念したようにため息をついた。 「お前には負けたよ……でもな」  そして京介が沙也加にひとしきり文句を言ってやろうと思ったその時。  ガランガランと何かが転がる音が、館内に響いた。  三人は咄嗟に会話を中断し、沈黙して聴覚を集中しながら、お互いに目配せしあう。 「だれかいるのか?」  京介は誰に問いかけるでもなく、声を殺して呟くと、その言葉を聞いた公史に緊張が走った。 「こんな所に人が来るとは思えませんけど」 「この施設に用のある人なら、不思議じゃないけどね」  沙也加はそう言って、思慮深げな表情をした。つい先ほどまでの柔らかで色香に満ちた笑顔で溢れていた筈が、この一瞬の出来事で欠片も残さずに消え失せている。 「用のある人って? 誰が?」  公史の疑問を沙也加は無言で押し消した。憶測で判断できることではないし、もし彼女の予想が当たっているのなら、余計口に出すことは出来ない。 「確かめましょう」  沙也加はそう言うと、いきなりスリットの付いたスカートの中へ手を入れた。黒いストッキング越しに、形の良い足が露わになる。 「おい、いきなり何をする気だ?」 「貴方の想像している事ではないのは、確かね」  彼女は顔を赤らめる京介に呆れたように言い返すと、手に持った黒い鉄の塊を彼に差し出した。 「これを持っていって」 「おまえ! 拳銃なんてもってんのか!」  京介は無造作に差し出されたオートマチックピストルに目を剥いた。まさか拳銃を常備しているとは思わなかったのだ。  しかし沙也加は京介のこの反応にも表情一つ変えなかった。 「非常事態よ」  彼女はそう言って拳銃を京介の手に押し込んだ。  彼もこれ以上の口論は時間の無駄と悟ったのか、渋々ながらも受け取ると弾倉を調べて安全装置を外す。そして無言で沙也加と目を合わせると、足音を立てないように素早く廊下へ移動した。沙也加もそれに続いて京介をサポートするように動き出す。その手には又、どこからか取りだした小さな拳銃が握られていた。  公史もその後を追おうとしたが、沙也加は穏やかにそれを制する。 「公史君はここで待っていて」 「そんな!」  彼は不服そうに沙也加を抗議した。  数分前の会話でせっかく仲間意識が芽生えたというのに、いきなり仲間外れにされたような気がしたのだ。しかし沙也加にとって彼は仲間とはいえ、所詮足手まといになりうる素人だった。 「いいからここにいて。貴方の気持ちはわかるわ、でも丸腰の公史君を連れて行くわけにはいかないの」 「もしかしたら、ただ何かが倒れただけかもしれんしな」  公史を諭す沙也加に京介が加勢すると、公史は引き下がるしかなかった。そして不満げながらも頷くと、「気を付けて」と言って二人を見送った。  京介と沙也加が部屋からいなくなると、公史は急に孤独感にさいなまれた。夕暮れが近づく空は赤黒くひろがって、室内を薄暗い夜の闇に引きずり込んでいく。  彼は一つため息をついて沙也加の座っていた椅子に腰掛けると、天井を仰いで目を瞑り、両手で顔を覆った。  今までに体験してきた記憶が、疲れ切った彼の頭を駆けめぐる。今日ほどあわただしい日はなかった。唯の素性が解り、事件との関係も知り、そしてこれから唯を助けるために行動を起こさなくてはならない。  一年程前、平和だったあの頃が懐かしいとさえ思う。その頃の彼は、唯のことを全く知らなかった。いや、知っていたつもりで追求せずに、それで満足をしていた。 『所詮、人の心なんてわからないよね』  いつしかの、彼女の言葉が思い出される。 『だから私は、その人を理解してあげたいと思う……』  そう言う唯の、少し大人びた顔が瞼に浮かんだ。  公史は深呼吸しながら顔を両手でしごくと、窓の外を眺めたに目を向けた。先ほどとあまり変わらない風景が、冷たい北風に揺れている。 (俺はあいつを解ってやっていただろうか? 信じるという言葉に怠けて、理解してやっていただろうか?)  今までの唯に対する彼の行動を思い起こすと、数々の失態が浮かんでは消えてゆく。そもそも公史は彼女に迷惑ばかりしか掛けていないので、思い出す出来事の殆どが彼の胸を疼かせた。  公史は堪りかねて目を堅く瞑り、頭を軽く振って渦巻く記憶を追い払った。人を理解していたかどうかは、迷惑云々では計れるものではない。いかにその人を受け入れているかが問題なのだ。  その課程で疑惑も起きるし、対立も生まれるだろうが、それはお互いの関係をより密接にさせるための一種の通過儀礼だ。  公史と唯の仲は良かったが、喧嘩も絶えなかった。特に唯は一度思い込むとその考えを曲げようとはせず、度々公史と言い争いになっていた。しかし最終的には泣き出す唯をなだめて終わるのが定石だ。  公史は涙でグシャグシャになった唯の顔を拭きながら、よく謝っていたその光景を思い出して笑みを浮かべた。懐かしい過去の思い出は、今の彼にとって一番大切なものだった。    ザワリ  前触れもなく、感傷にふけっていた公史の身の毛が総立ちになった。何者かの視線が、彼に向けられている事に理由もなく気付いたのだ。そして公史はゆっくりと目を開けると、彼の目に異様なものがうつった。  窓の外でこちらを窺っている男がいる。  いつの間に現れたのかは解らない。男は窓越しからニヤついた表情で公史を見ている。公史は驚いて体を硬直させると、男はさらに口を大きく開いて笑った。それは常人の笑みとは完全に逸脱していて、狂気じみた形相が公史の背筋を凍らせる。  この男が音を立てた奴だろうか?  公史は早鐘のように脈打つ心臓をなんとか落ち着かせようとしながら、男を鋭い目つきで睨んだ。そうしながらも、なにか不可解な感覚がこみ上げ初める。  それは忌まわしい記憶の中に封印されていた、忘れることの出来ない感覚だった。途端に半年前、ホテルの書斎で起きた出来事が脳裏に瞬く。 「麻生っ!」  一瞬のうちに公史の体中が熱くなった。男の顔は知らないものだが、その目の光があの時妹をさらった人物と符合したのだ。  公史は瞬時に椅子から立ち上がって窓を開けようとするが、サッシが錆び付いているのかびくともしない。  その様子を眺めていた麻生尚紀は、必死で窓を開けようとする公史を嘲笑うと、後ろを向いて掛けだしていった。 「まて!」  公史は逃げ出す麻生を怒鳴り散らすと、今まで座っていた椅子を持ち上げて窓ガラスにたたきつけた。盛大な音を立ててガラスは砕けちり、冷たい空気が室内に流れ込む。そして頭を抱え込むようにして窓から屋外へ飛び出すと、尚紀が逃げ込んだ雑木林へ向かって全速力で走り出した。  落ち葉が土を覆う木々の間を、二人の男が走り抜けていった。尚紀は公史を引き離そうと森林の間を縫って走るが、それでも基礎体力の違いからか、公史が徐々に間を詰めていく。  今の二人に言葉を口に出す余裕はなく、土を蹴る音と息づかいしか聞こえない。  しかしこんな時でも尚紀は冷笑していた。公史の足音が背中に迫る度に、彼は悦に入ったような含み笑いをする。  そしていきなり立ち止まると、含み笑いをそのままに彼を振り返った。  公史は尚紀を怒りを込めた瞳で睨み付けた。あれだけ長時間、全力疾走したにもかかわらず、彼の息は一糸の乱れもない。 「麻生! 唯をどこへやった!」 「唯? 人の妻を呼び捨てにするのは止めてくれないか?」  公史とは違い息を乱す尚紀は、それでも不気味な笑顔を絶やさないでいた。  さらに彼は震える手つきで黒い棒状の物を懐から取り出し、それに付いているボタンを躊躇無く押した。  その瞬間、ドォンという爆発音が後方から聞こえ、大地を揺るがせるほどの衝撃が夕闇に轟いた。  公史は驚いて後ろを振り返ると、研究所の方角から紅蓮の炎が貫いていた。 「あはははは! これで邪魔な奴らがいなくなった! お前らがここに来ることを予想して罠を張っていた甲斐があったなぁ」  尚紀が音程の狂った声を上張り上げた。まるで子供のように甲高い声が、公史の鼓膜を刺激させる。  建物はあらかじめ可燃物でも仕込んであったのか、火の周りが異常なほどに早かった。もし人が中にいるとしたら、絶対に助からないだろう。 「沙也加にも悪いことをしたよ。彼女も下らない人生をおくったものだね」 「貴様っ!」  公史の怒りは頂点に達しようとしていた。人の命を弄ぶそのやり方に、彼の理性が弾け飛びそうになる。しかしその寸前で、心の中の何かが感情の暴走を押さえ込んでいた。 「へぇ、馬鹿みたいに突っ込んでは来ないんだね。一応君にも、学習能力はあるんだ」  尚紀はそう言うと、胸元から拳銃を取り出し、銃口を彼に向けた。 「でも、どちらにしろ君の運命は変わらないけど」  公史は拳銃にも臆しもせずに尚紀を睨み付けると、声を低くして唸った。 「唯を返せ!」 「それは出来ないね。彼女は大切な役割があるから」 「貴様! 何をさせる気だ?」 「子供を産んでもらうのさ、新種の人類をね。彼女も普通の人間とはかけ離れた存在だ。彼女ならきっとうまくいく」 「ふざけるな!」  公史の怒気は体中を駆けめぐり、爆発寸前にまでなっていた。理性で抑制されながらも漏れ出る力が、歯軋りや拳を握りしめる動作となって現れている。 「お前の勝手で、唯の人生を台無しにされてたまるか!」 「台無しになんかにはならないさ。僕は彼女を愛しているから……。そして唯が子供を産みさえすれば、僕の夢は叶うんだ。これで、これで僕は親父を越えられる!」  しかし恍惚の表情を浮かべる尚紀の戯れ言を、公史は半分しか聞いてなかった。尚紀が唯の名を呼び捨てにした瞬間に、彼の理性を今まで保っていたものが弾け飛んだのだ。  公史は無言で尚紀との間合いを詰めると、彼のみぞおち目掛けて前蹴りを放った。話すことに夢中になっていた尚紀は、公史の動きを察知できない。 「ぐえっ!」  彼はまともに蹴りをくらうと、今まで張り付いていた笑顔を苦悶の表情に変えて膝を折った。  しかしそれでも公史の攻撃は止まらなかった。膝を折ったことで尚紀の頭の位置が低くなると、今度はその頭へ強烈な回し蹴りを叩き込む。通常なら脛近くで相手の顎先を狙う回し蹴りだが、公史はつま先を立てていた。狙う場所は顎ではなく、耳だ。  彼は尚紀に対する攻撃に、容赦を一切掛けなかった。人体の急所を的確に狙う彼の目は、野獣が獲物を屠る時のそれになり、相手を殺すことに全神経を集中させていた。 「ぎゃぁぁっ!」  尚紀は耳から血を吹き出しながら倒れてのたうち回ると、何とかして公史から逃れようと無様にはいずり回った。鼓膜が破れたのか耳元が不協和音を奏でているが、公史の殺気に圧倒されて気にするどころではない。  公史はその麻生の醜態にも表情を変えなかった。尚紀が完全に動かなくなるまで、彼の怒りは収まる気配を見せず、執拗に追撃をかけようと後を追う。そして彼を追いつめた公史は、とどめの一撃を繰り出そうと構えた。  彼は木の根本にうずくまり、身動きをしない。  しかし公史が渾身の蹴りを放とうとした瞬間、横から大きな影が彼の体に覆い被さった。 「死ねぇっ!」  同時に尚紀が起きあがり、手にした拳銃を発砲した。あれだけの打撃を受けても尚、彼は拳銃を手放していなかったのだ。  爆発音と共に真後ろの木の幹が弾けると、公史を押さえつけていた影が素早く動いて彼を近くの岩陰に引きずり込んだ。 「無理するな! また死ぬ目に遭いたいのか!」 「京介さん!」  胸ぐらを捕まれ揺さぶられた公史は、今まで死んだと思い込んでいた京介を見て驚きの声を上げた。 「お前、もうちょっと過去に学ぶって事しろよ」  京介は岩を盾にするように座り直すと、沙也加に手渡された拳銃を携え、尚紀の様子を窺う。  尚紀は痣で変色した顔を片手で覆いながら、銃口を二人のいる場所へ向けていた。彼は恐れと怒りで手が震え、焦点が定まらない。しかし岩陰からの動きが見えると、怯えるように発砲してヨロヨロと立ち上がった。 「お、お前ら、僕を馬鹿にしやがって!」  尚紀はこの時、完全に逆上していた。今まで優位に立っていたはずなのに公史に形勢を逆転され、反撃しようとした矢先、京介に阻まれたからだ。あまりにも運の無い自分に苛立ちを見せた彼は、常人とは逸した奇声を上げながら左手で顔を掻きむしった。 「ちっ、危なくて出られやしねぇ」  京介は忌々しげに呟くと、公史を横目で睨んだ。彼が尚紀の正気を失わせなければ、交渉の余地も考えられたのだ。今までの敬語もいつの間にか使われなくなっている。 「すみません」  公史もそのことに気付いていたので、素直に謝った。あの時どんなに尚紀に挑発されようが、唯の居場所を聞き出すべきだったのだ。 「まぁ、仕方ないけどな」  京介は彼を責めながらも、自分でも公史と同じようなことをしただろうと思った。唯を守れなかったという失望感と、今度こそ助けたいと意気込む力が、目の前の麻生へと噴出するのは致し方のないことだ。  確かに交渉を進めた方が賢いやり方だが、公史の行動の方がより人間らしい。 「何にせよ無事で良かった。まさか麻生が爆薬まで仕掛けてるとは思わなかったんだ」 「沙也加さんはどうしたんです?」 「あいつは高みの見物だよ」  公史は京介の投げやりな言葉に疑問を抱きいて聞き返そうとしたが、彼がズボンのポケットから携帯電話を取り出してどこかに電話をかけはじめると、口を噤んだ。 「ああ、俺だ。神坂公史を確保した。麻生も俺たちの真後ろにいるぜ。  ……計画はB案に変更しろ。奴は既にこちらの話を聞けないほどに興奮している」  京介の電話越しのセリフと共に、盾にしている岩が音を立てて爆ぜた。どうやら怒りの収まらない尚紀が銃を乱射し始めたらしい。  京介は携帯電話を切ると、ため息をつきながら公史の肩を掴んでたちあがった。 「行くぞ」 「え? あいつはどうするんです?」 「詳しい話は後でする! いいから行くぞ!」  京介は訳もわからずにいる公史を促して、奇声を上げて銃を撃ち続ける尚紀から離れるように逃げ出した。  公史は釈然としない表情をしたが、仕方なく京介の後に続くと、尚紀は二人が去ったことにも気付かずに、なにやらブツブツと呟きながら拳銃の引き金を引き続けた。  脳裏に今まで彼に辛くあたった者達の顔が浮かんでは消えていく。もうすでに公史を殺すことなどどうでも良くなっていた彼は、目の前に現れる幻覚に向かって発砲していたのだ。  彼の表情は屈辱と怒りで歪みきり、トリガーを絞るたびに土や雑木が爆ぜる。しかし麻生の目には、幻覚の人物が血を吹き上げて倒れていく様がはっきりと見えていた。 「思い知ったか! 僕を蔑ろにすれば、地獄を見ることになるんだ!」  彼は大声で叫ぶと、さらに発砲し続けた。尚紀の妄想の中の人物達が、次々と苦悶の叫び声を上げては絶命していく。現実と虚構の境を見失った尚紀の凶行は、しばらくの間止まることはなかった。  既に太陽が落ち、暗闇が降りてきた森林の中で、銃声だけが大地にこだました。

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