「伽藍」

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師、曰く。汝、殺める可からず。 人を斬る事は、己が魂を裂くと知れ。 ――――識槻 望月 男は、走っていた。 ――決着は、櫻が辻でと決めている。幸か不幸か月は無いが、星明かりと宵闇の中で死合うもまた、一興、と 男は、忘我の境地に至っていた。 ――其れ程迄に、焦がれていた。直に、鬼が来る。俺を斬ろうと、疾く駆けて来る。 あれを斬る事が適えば、俺は求めた場所へ至れる、と 人通りの失せた辻の真ん中で、踏み止まる。ぞわり、首筋に寒気が走る 男は、振り返る。鬼はまだ幼さの残る、娘であった。 手には大太刀。腰まで伸びた濃い藍の髪。その双眸は鋭く細まり、奥の瞳は漆黒で――僅かに、冷たい蒼の輝きを帯びている ほう、と感嘆の息を漏らし。刀を抜き放ち、正眼に構えた――――刹那。澄んだ音と共に、柄を握った手に灼熱の痺れが迸った。 再び振り返る。背後には、刀を手に佇む鬼の小さな背。 男は、鬼がおおよそ六間も有ろうかと云う間合いを一息に詰め、擦れ違い様の一太刀を浴びせたのだと悟る。 やはり、生かして置いては為らぬ。これは俺が斬らねば為らぬ。   男は痺れを振り払い、真一文字に刀を薙いだ。首を落とす心算であった。 ばさり。髪が斬られて落ちる。だのに、その首は一向に落ちる気配を見せぬ。 動いたか――いいや、微塵とて動かない。鬼はただ、岩の如く佇んでいる。 もしや、と。男は、自らの構えを省みる――――崩れていた。いや、崩れ切っていた。 其ればかりか、男は知らぬ間に半歩程退いていた。 四方や、気圧されたか。鬼とは言えど小娘に、この俺が―― そう思った刹那、振り向き様に次の太刀が振るわれた。 男、これを躱して切り込む。呆気無く防がれる。然らば、と鍔競り合いに持ち込むと。 左腕が、ぼとりと落ちた。次いで、刀が真っ二つに折れる――いや、斬り断たれる。 天下一の、名刀と云う触れ込みであったが――そんな事を考えていると、いつの間にやら櫻が辻には、淡い夜霧が立ち込める。 更に、右腕。右脚が転がって間も無く、心の臓には墓標を思わす小刀が突き立った。 左の膝から先の感覚が失せたのと、首筋を冷たい物が通り抜けたのはほぼ同時。 何処か遠くで、刃擦れと鯉口の鳴る音が聞こえて――それきり、男は目を醒ます事は無かったと云う。   そして。 鬼の――否。娘の眼から、灯が消える。 夜霧が集まり固まって、臓腑が吐き出されるかの如く、ぼとりぼとりと地に落ちる。 曰く。硝子とは、極めて緩やかに流動する、液体だと云う。 透明な其れは研ぎ澄ませば極めて鋭く、硬く――また、脆い。 かくして、一人の少女の路は終わり。人斬りの鬼の、殺意の蒼の、硝子細工の伽藍の洞の路は――始まりを、告げた。 『了』

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