人ニ非ズ

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人ニ非ズ」(2010/05/07 (金) 03:22:00) の最新版変更点

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郊外、雨の降る丘。 月も星も見えぬ暗い空、遠雷と風の鳴り響く夜の闇。 ざあざあという音を立てて落下してくる滴の中、二つの生き物が対峙している。 『…やれやれ、全く間の悪い事だ。まあ、文句を言っても仕方が有るまいな』 白の小袖に漆黒の裃、夜叉の面を被り左腕を包帯で吊った女。 右の拳を固く握りしめ、鳩尾に当てて構えている。 「雨は嫌い。嫌な事しか覚えてないから。あなたは何?私と同じ≪人間の出来損ない≫?」 灰色の髪に金色の瞳、半袖シャツにジーンズの少女。 両手の爪を刃物のように変化させ、前に出した右足に体重を掛けている。 動かない。 睨み合ったまま、動かない。 ―――人ニ非ズ [どんな時だろうと鼻は嘘をつかない。必ず、正しい答えを見つけて来る。] [その鼻がこう言っている、違う、と。] [あれは違う、お前の知っているあの人間では無いと。] [目は信用できない。かなりの頻度で間違いをする。] [その目がこう言っている、そうだ、と。] [あれがそうだ、お前の知っているあの人間だと。] [右足で小さく踏み込み、左足を真っ直ぐに振るう。踵を抜いていた靴が、目の前の女の顔目掛けて飛んでいく。] {まさか、今宵会おうとは思っても居なかった。今宵、こうして再び対峙しようとは} {まさか、お前と戦う事になろうとは思わなかった。この力を、お前に向けて振るおうとは} {近接戦闘しか行えないと思っていた相手からの、突然の遠距離攻撃。威力は無くとも牽制にはなる} {私自身は使った事が無いが、お前には一度だけ教えてやった筈。覚えていたか} {ああ、覚えているだろうとも。お前はもの覚えは良かったからな。} {…覚えているのだろう?} {靴を回避しようともせず、面で受けてそのまま前方に踏み出す。} 『存分に、殴り合おうか』 [耳にはあまり頼る事が無い。人間よりは優秀な耳だが。] [その耳がこう言っている、そうだ、と] [あれがそうだ、お前の知っているあの人間だと。] [研ぎ澄ました魔力に対する感覚、先天的な才と、後天的な学習の賜物] [それがこう言っている、違う、と。] [あれは違う、あれは≪人間≫という生き物では無いと。] [お前と同じ、化け物だと。] [靴を脱いだ左足、地面に叩き付けると同時に爪を伸ばしてスパイクの代わりとする] [靴も打撃用の凶器、まずは一撃、動きを止めようか] [右足を突き出す。狙いは鳩尾、蹴るには丁度良い位置でも有る] 「…その口を閉じて」 {始めは、ただの明るい少女だと思っていた。怖じる事無く誰にでも接する、影の無い少女だと。} {全く影を持たない物などそうは居ない。一度や二度口を利いた所で、影には気付けない。} {気付いたのは何時だっただろう。何時、と明確に定義するのは無理なのかもしれない。} {雨に降られて、そのシャツを濡らして帰って来た時か?腕試しにとせがまれて、庭で向かい合った時か?} {覚えていない。だが、分かっているつもりだ。} {そうだとも、私は人間では無い。お前が知っていた人間の私では。} {姿形が同じで有ろうが、お前には分かるのだろう。私は私では無いのだと、な。} {なあ、教えてくれ。何故お前は…} {右手を用いて少女の右足を自分の左へ弾き、右足で一歩踏み込んで懐へ} {弾いた右腕をそのまま用い、鳩尾への肘打ちを返す} 『…悲しいな。何故だ?』 [あの人は人間だった。] [私とは違う、本当の人間だった。] [違う。目の前のアレは、あの人とは違う。] [化け物は化け物、それは何処まで行っても変わらない。] [化け物に生まれたからには、化け物として生きていくしか無い。生きていたいのなら。] [生きたかった。だからこそ、化け物のまま生きて来た。] [戦いを、世界を巻き込む戦いを求めた。] [戦いの中では、強いか弱いかしか、基準は無い。] [強ければ生きていける。強ければ必要とされる。] [全ての生き物が戦うなら、その中で強者として存在できるなら。] [払われた右足を女の左足の外側へ下ろし、それを負うように体重を移動] [するりと摺り抜けるように、女の後方へ回り込む] 「黙れ…」 {着替えに私の小袖を貸した。丈が合わないのは仕方が無い。何れ伸びる、問題も有るまいと、少々的外れな事を考えた。} {その場でシャツを脱ぎ捨てたお前の体は、私のように傷だらけだった。} {だが、明らかに違う。傷の数も深さも、種類も。} {私の傷は胸と腹に。戦いによって付いた傷は、当然体の前面に集中する。} {お前の傷は腹も背も同じ程の数。戦いの傷では無い、逃げる際に付けられた傷だとすぐに分かった。} {手合わせの時、格闘だけでは物足りぬだろうと私が刀を抜いたあの時、お前は一瞬だが怯えを見せた。} {出合ってすぐでは分からなかっただろうが、それなりの付き合い。それくらいは分かった。} {あの後だったか、お前が全てを話してくれたのは。} {…いや、全てでは無かったのか?} {背後に回り込まれた事を即座に察知、右足を軸に反時計回りに回転し、間合いを離しつつ振り返る} 『何故だ?何故お前は…』 [化け物だからと、何度も殺されかけた。化け物だから、生きる事を赦されなかった。] [なら、人間になろう。人間になって、人間と生きよう。そして、この街と、そこに住む人間に出会った。] [私は人間に成れた、そう思っていた。あの雨の日まで。] [私が悪いの?≪私だから≫嫌われたの?そんなのは嫌だ、堪えられない。] [なら、私は化け物で良い。化け物だから、人間でないから嫌われたというのなら、私自身は否定されていない。] [化け物である事だけが悪いというのなら、それは私にはどうしようもなくて。] [だからこそ、その考えは。その考えは、私をこの世界に繋ぎ止める事が出来る。] [人間に成れさえすれば。] [振り向くという動作、それだけ有れば十分だった。この少女が、己の間合いを得るには。] [右足の靴を脱ぎ捨てながら、地に手を付けて這うように走り接近。] [金色の瞳が、雲間の薄明かりを捉える。] 「…聞こえないの?その口を閉じて」 {私が子を持つ事など未来永劫有りえず、お前には両親が居ない。} {互いに代用品を求めていただけ。所詮はそれだけの事だったのかも知れない。} {だが、お前は。我儘で幼くて、好奇心に満ち溢れていて、喧しいお前は。} {子とはこのようなものかと、私に思わせるには十分だった。} {「何で私は人じゃないんだろう。」お前はそう言ったな?答えなど、今でも見つからない。} {だが、こうも答えた筈だ。『人だろうが獣だろうが魔物だろうが、お前はお前だ』と。} {私にとってお前はお前、それだけの事なのに。} {低い姿勢からの急激な接近により、少女の姿を見失うも。} {幾度と無く手合わせを繰り返した相手、この手段すら読めている。} {右の拳を固く握りしめ、後頭部へと振り下ろす。} 『…私を忘れた訳では有るまい…答えてくれ』 『なあ、吟雪』 [化け物、人、そんな種族に係わらず、私を受け入れてくれる人はそれなりにいた。] [だけど、私が私自身である事、それだけで肯定してくれたのは一人だけだった。] [皆が望む明るい私、良い私で無くても、≪私である≫だけで受け入れてくれたのは。] [今でも夢に見る、あの森の朝。] [血の臭いに引き寄せられ腹を満たすために走り、途中から良く知っている臭いが混ざり。] [自分を欺く事の無い鼻をそれでも疑いつつそこへ辿り着いた、あの瞬間。] [右腕は肘から千切れ掛け、脇腹には大きな穴が開き、そこからはもう血も流れ出さず。] [治療しようと触れたその体は冷たく、決して動く事は無く。] [名を呼んでもその口は答えようとせず、目に溜まる涙もそれ以上増える事は無い。] [零れ落ちていく。何度目?もう分からない。] [左腕を跳ね上げ、籠手で拳を受け止め、右の掌を女の鳩尾に触れさせ。] [両足の爪が地面を強く捉える。] 「…黙れ…黙れ黙れ黙れ…!」 「その声で、私の名を、呼ぶな!」 右手を強く押しこむ。女の腹部が圧迫され、一瞬だが動きが止まる。 女の右腕を少女の左手が掴み、自分の左肩の上に担ぎ上げる。 両足が地面を蹴りあげ、少女の体が浮かぶ。 {寒かった。血を失って行く体に、秋の風は容赦なく吹きつけてきた。} {痛かった。激しい痛みが、意識を失う事を妨げていた。妨げてくれていた。} {怖かった。自分が死ぬという事が。一人で、誰にも看取られず死んでいくという事が。} {悲しかった。私が得たもの全て、残して死ななければならないのが。} {悔しかった。自分の力が及ばず、愛する者を嘆かせる事が。} {あの時、私はお前の名前を呼んだだろうか?覚えていない。} {だが、呼ぶ必要は無かった。お前にはあの手紙を預けていた。} {何故お前だったのだと思う?何故、他の誰でも無くお前だったのだと?} {浮いた少女の体、自分の力量であれば、斬るは容易い。} {否、己の太刀≪白百合≫であれば、斬る事無く少女を打ち据える事が出来る。} {だが、右手は動かなかった。少女の肩から引き戻そうとすらしなかった。} {出来なかった。その表情を見てしまえば。} 少女の左の爪先が女の腹部に食い込み、ついで右の爪先が肋骨を捉える。 左腕は砕けていて右腕は掴まれ、防御を行う事も出来ぬままに、それらの攻撃を受ける。 少女の左足が地面に付いた、その次の瞬間。 踏み込みからの掌底重ね打ち、あばら数本を圧し折られ、女の体が後方に吹き飛んだ。 [両足を地面に付け、吹き飛んだ女に近づいていき。] [何も言葉を発する事無く、ただ立ち尽くし、見下ろす。] 『…私が弱くなったのかお前が強くなったのか、或いは怪我のせいか…何れにせよ…』 [そうだ、こんな弱い筈は無い。あの人はこんな弱くは無い。] [やっぱり違う。別人だ。いや、別の生き物だ。] [あの人の筈が無い有り得ない絶対にあの人で有って欲しく無い] […何故?] [あの人でないなら躊躇う事も無いから。] [戦い、殺す事が出来るから。] [私は人間が嫌いで、化け物である自分が大嫌いで。] [だから、化け物も嫌いで、つまりは全ての生き物が嫌いで。] [だけど、私は人間に成りたくて、人間である彼を誰よりも愛していて。] [そして、私は私を受け入れてくれたあの人を―――] [右手を振りかぶり、五本の爪を伸ばす。指を揃え、喉を引き裂くべく歩み寄る。] 次の瞬間、女は弾かれたように立ち上がり、少女に背を向けて走り出す。 その行動には何の迷いも無い。 何も迷うことなく、走り去る。 言葉の一つも残す事無く。 「…え?」 取り残された少女は、ただそれだけ声を発し。 空を見上げ、その本質である狼の如き咆哮を響かせる。 自分の顔を濡らすのが、雨だけでは無いと半ば気付きながら。 それを敢えて否定するかのように、灰色の空へ怒声を響かせる。 終わり。 そう、これで終わり。この邂逅はこれで終わり。 女は逃げ、少女は立ち去り、何もここには残らない。 たったこれだけの、世界に何も齎さない、小さな出来事。

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